第6話:聖女の袋小路、あるいは精進料理の絶望
モンスター襲来の翌朝
私が期待していたのは、敵を撃退した後の「泥のように眠れる」平和で尊い二度寝タイムだった。
だが、私はこの時まだ知らなかった。
「命を削った」と思われた人間が、この世界でどれほど重く、そして面倒な扱いを受けることになるのかを。
「奥様! 起きてください! 旦那様が…… 大変なことに!」
メイド長アンの悲鳴とともに、最高級シルクの布団が物理的に剥ぎ取られた。
急激な温度変化に肌が粟立つ。
「………… (殺)」
【現在の精神状態:睡眠不足により凶暴化中】
【警告:血圧が急上昇。速やかな再入眠が必要です】
眩しすぎる朝日に目を細め、私は殺意を覚醒させたまま廊下へ出た。
だが、廊下で私を待っていたのは異様な光景だった。
重厚な銀の鎧を纏った旦那様が、冷たい石畳に膝をついている。
その背後には、昨日の戦闘を生き延びた騎士たちがずらりと並び、まるで聖地巡礼のような厳かさで頭を下げていた。
「リゼット…… 昨日の君の献身、我々は一生忘れぬだろう」
(…… 朝から重いわ。 そして鎧の反射が目に刺さる)
カシアンが顔を上げる。 その緋色の瞳は充血し、私の顔を痛ましそうに見つめていた。
「魔道具も介さず、その身ひとつであのような絶大な術を…… 我らを守り抜いたあの姿。 古の伝承に語られる、民のために身を削り奇跡を成した『聖女』そのものだった」
「あの、旦那様。私は別に削ってなど…… ただ、少し体が……」
「わかっている! 無理に話さなくていい!」
カシアンが私の言葉を力強く遮り、私の手を包み込んだ。
「君の健康を領民全員で祈念するため、朝夕の鐘を倍に増やすよう命じてきた。さらに今日から、この部屋の前には精鋭騎士を二十四時間体制で配備する」
(…… 嘘でしょ。 鐘の音が増える? 騎士が廊下を歩く? 私の安眠環境、完全に封鎖されたじゃない……! )
「旦那様、本当にお気になさらず。私は、単に運動不足で筋肉が……」
「その慎ましさ……! 自分の灯火が消えかけているというのに、なお我々を気遣うというのか!」
騎士たちが一斉に「ガシャン!」と拳を胸に叩きつける。
この組織、現場の人間まで完全に盲信的な空気に染まっている。
私は本当のことを言いたい。
昨日、少しの時間、立って指を動かしただけで、今日はふくらはぎがパンパンなだけなのだ、と。
だが、その説明を口にする隙さえ与えられない。
その時、壁際に控えていた無表情なメイド、ジャネットが冷静に口を挟んだ。
「旦那様。奥様は、明らかにお疲れのご様子です。 これ以上は、かえってお身体に障るかと」
(ナイス、ジャネット! そうよ、静寂こそが私の回復薬よ!
「すまない、リゼット。食事も、削られた生命力を補うのに最適なものを、私の方で厳選して用意させよう」
(よし、肉ね。 スタミナをつけるならステーキ一択よ……! )
嵐が去り、ようやく静寂が…… と思ったのも束の間。
「ガシャン…… ガシャン……」
扉の外から、重武装した騎士の足音が絶え間なく響いてくる。
「…… アン、あれは?」
「近衛騎士の皆さまです! 奥様の一呼吸も逃さずお守りすると、交代制で!」
完
私の怠惰な生活は、私自身の「お節介」によって粉砕された。
そこへ、ジャネットが盆を運んできた。
「旦那様からの特別な献立です。奥様の清らかな魂を汚さぬよう、脂を一切排除し、野の草木と清らかな水のみを用いた『精進メニュー』だそうです」
…… 盆の上に並んでいたのは、見事なまでの「草」だった。
(………… は? )
肉がない。
失われた体力を補うためのメニューは、まさかの「草」だった。
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魔法兵長の記憶と、不吉な予見
一方、廊下でカシアンの背後に控えていた魔法兵長バルトは、激しい既視感に震えていた。
彼はカシアンに歩み寄り、声を潜めて告げる。
「カシアン様……。かつて王都で、今の奥様と酷似した魔法行使を行う『存在』について記された書を目にしたことがあります」
「存在だと? それは何だ」
「共通していたのは、絶大な威力。そして……その行使と引き換えに、彼女たちはみな例外なく、あまりに短命であったということです」
カシアンの顔から血の気が引いた。
「短命…… だと?」
「はい。何らかの人知を超えた巨大な代償を支払っているはずです。正確な情報を得るため、王都へ行く許可を」
カシアンは震える声で答えた。
「……分かった。王都へ向かえ。何としても、彼女を救う手立てを見つけるのだ。それまでは、彼女が無理をすることのないよう、責任を持って私が守ってみせる」
こうして、バルトの「うろ覚えの恐怖」が、カシアンの過保護に最強の燃料を投下した。
その頃、当のリゼットは監視の目を盗んで、空腹に耐えながら「騎士の鎧が鳴らないようにする細工」をこっそり施していた。




