第45話:朝の神秘儀式と、遠ざかる処刑台の記憶
柔らかな朝の光が降り注ぐ、バウムガルト領館の中庭。
清々(すがすが)しい空気の中、リゼットは気怠げな声で数を数えていた。
「いっち、にっ、さん、し……。ごー、ろく……ふぁぁ」
リゼットが行っているのは、両腕を大きく回し、胸を反らし、深呼吸をするという、この世界には存在しない奇妙な動きの連続だった。
前世の記憶に刻まれた、健康維持のための究極の術――『ラジオ体操』である。
質の高い二度寝を満喫するためには、適度な運動による肉体の疲労が必要不可欠なのだ。
「きゅるる(さん、し)!」
「ワォン(しち、はち)!」
彼女の背後では、黒嶺竜のノアと白銀のフェンリル・シロが、短い手足や尻尾を一生懸命に動かし、主の動きを完璧に真似ていた。
「ふぅ……。終わりましたわ」
一連の動きを終え、リゼットが小さく息を吐いたその時。
回廊の柱の陰から、カシアンが静かに歩み寄ってきた。
「おはよう、リゼット。タオルだ」
「あら、カシアン様。おはようございます」
差し出された布を受け取り、リゼットはごく自然な動作で、コツンとカシアンの腕に寄りかかった。
体操で少し疲れたから、一番近くにある頑丈な柱(夫)に体重を預けただけなのだが、カシアンはそっと、壊れ物を扱うように彼女の背中を支えた。
「見てくださいな。最近、息切れせずに最後まで動けるようになりましたの」
少しだけ誇らしげに胸を張るリゼット。
その姿に、カシアンは言葉を失った。
彼の脳裏に焼き付いている予知夢の中の彼女は
いつも青白く
いつも儚く
いつも疲れていた
断罪され、処刑台へ連れて行かれる最後の日ですら、彼女はまともに歩くことすらできなかったのだ。
だから――。
今、目の前で彼女の白い頬に健康的な赤みが差していることが
穏やかな呼吸で、しっかりと大地を踏みしめて立っていることが
生きている
ただ、それだけのことが
どうしようもなく、嬉しかった。
「……ああ。そうだな。とても、偉いぞ、リゼット」
カシアンは、寄りかかるリゼットを抱きしめる腕の力を、ほんの少しだけ強めた。
彼の黄金の瞳には、誰にも見せられない、安堵の色が滲んでいた。
彼女は今、あの絶望の未来から、確実に遠ざかっている。
***
だが、中庭で繰り広げられるその胸を打つ光景を、まったく別のベクトルで激重に解釈して震えている少女がいた。
客室に軟禁されている、アリアである。
「……なんという、神々(こうごう)しさ……!」
窓の隙間から中庭を見下ろしていたアリアは、窓枠を力強く握りしめ、ボロボロと涙を流していた。
(あの一切の無駄がない、流れるような美しい動き……! 天地の魔力を体内に取り込み、世界を浄化するための『神秘儀式』なんだわ……!)
アリアの目には、健康維持のラジオ体操が『神への崇高な祈りの舞』に映っていた。
しかも、リゼットの後ろで儀式に同調しているのは、隣国の教会上層部ですら震え上がるような、規格外の魔獣たちではないか。
人間など一息で喰い殺すはずの災厄の獣が、仔犬のように彼女の祈りに従っている。
(私が教会でやらされていたのは、ただ命を削るだけの愚かな行為だった。これこそが……これこそが、命を育む本当の祈り……ッ!)
昨日、「あの人の休息を守る」と誓ったアリアのエメラルドの瞳に、使命感が炎のように燃え上がる。
この完璧な領地を維持するために、お姉様は毎朝あんな高度な儀式を一人でこなしているのだ(※ただの準備体操です)。
「私も、あの祈りを習得して、少しでもお姉様の負担を減らさなきゃ……!」
アリアは窓際から離れると、真剣な面持ちで部屋の中央に立ち、先ほど見た動きを見よう見まねで再現し始めた。 両腕を大きく回し、胸を反らし、深呼吸をする。
「いっち、にっ、さん、し……っ! ごー、ろく、しち、はち……ッ!」
健康のために体操をしていただけの怠け者
妻が少し元気になっただけで泣きそうになっている過保護な夫
ただ遊んでいるだけの魔獣たち
その事実を知る由もないアリアは、鍵のかかった客室の中で、一人汗を流しながら神秘儀式(ラジオ体操)の自主練に没頭し始めた。
かくして、バウムガルト領の朝の風物詩である『ラジオ体操』は、最強の妹分の手によって極めてカルト的な『神聖なる救済の舞』へと昇華され――やがて国を揺るがす恐ろしい教団を生み出す、小さな火種となるのであった。




