第21話:痛覚の崩壊と、華麗なる防衛戦
【騎士団長アルフレッドの視点:美しき飛翔への誓い】
あの日、ノア殿の尻尾で空の星にされた私を見て、奥様は血相を変えて早足で駆け寄ってきてくださった。
「アルフレッドさん、生きてる!? 骨が折れてるなら――」
その声には、我々のようなむさい騎士の身を本気で案じる、深い慈愛が満ちていた。
そして私が無傷だと知るや否や、奥様は心底ホッとしたようにテラスへ戻られ……優雅に紅茶を飲みながら仰ったのだ。
「……吹き飛ばされる軌道が芸術的で面白かったから……怪我がないなら、あと三回くらいは見てもいいわね」
その瞬間、私はすべてを悟った。
(……奥様は、我々が血を流すことを何より悲しまれる。だが同時に、恐怖に打ち勝ち、限界を超えて空を舞う『芸術』を求めておられるのだ!)
ならば、答えは一つ。
我々はノア殿に懇願し、連日の「空を舞う特訓」を志願した。
初めは地獄だった。
だが、奥様の期待に応えたいという一心で空中の姿勢制御を極めるうち、我々の肉体に『ある変化』が訪れた。
(……痛くない。いや、ノア殿の尻尾に比べれば、すべてが羽毛のようだ……!)
我々はついに、奥様の御心を痛めず、かつ極上の娯楽を提供する「無敵の体術」を手に入れたのだ。
【リゼットの視点:スタジアムの観客席】
ノアが裏庭に降り立ってから、季節は巡り、吐く息が白みを帯びる晩秋を迎えていた。
私は日課となったテラスでの優雅なティータイムを満喫していた。
私の隣には、ふかふかの『ノア専用特注クッション』が置かれ、黒い仔竜が丸まって気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
だが、ふと耳を澄ますと、遠くの防壁のほうから妙な音が響いてきた。
(……変ね。魔物の咆哮よりも、騎士たちの歓声のほうが大きくないかしら?)
普段なら、魔物が襲来すれば張り詰めた怒号や金属音が響くはずだ。
しかし今聞こえてくるのは、「おおおおっ!」「素晴らしい軌道だ!」という、まるでお祭りのような異様な熱気だった。
「ジャネット。防壁のほう、やけに騒がしいけれど……」
「ご安心ください、奥様。皆様、かすり傷一つ負っておりません。現在『本日の演目』の真っ最中でございます」
背後に控えていたジャネットが、完璧な所作で温かい紅茶を淹れながら、防壁の上を指し示した。
ちょうど、巨大な猪の魔物がアルフレッドに向けて猛烈な突進をかましたところだった。
(あ、まともに食らった……!)
重厚な鎧ごと吹き飛ばされるアルフレッド。
だが、彼は空中で悲鳴を上げるどころか、大声で笑っていた。
「ふはははっ! ノア殿の尻尾の衝撃に比べれば、そよ風も同然!」
アルフレッドは空中でくるりと三回転半の美しいひねりを加えると、音もなく着地し、流れるような剣の身のこなしで魔物を討伐する。
そして何を思ったか、遠く離れたこのテラスにいる私に向かって、剣を掲げてドヤ顔でポーズを決めたのだ。
「……えっ。何あれ。どこの劇団員よ」
『ふん。着地のブレが大きい。我の特訓が足りぬようだな』
隣のクッションで丸まっていたノアが、念話で呆れたように呟く。
すると、ジャネットがノアに向かって無言で頷き、「後でしごいてやってください」とでも言いたげな視線を交わした。
(ちょっと待って。ノアとジャネット、いつの間にそんなツーカーの仲になったのよ)
痛覚の基準が完全に麻痺している騎士たち。
あまりの異常な光景に頭が痛くなってきた。
「リゼット。風が冷たくなってきた。無理をしていないか」
ふいに、背後から厚手の毛皮の外套をかけられた。
振り返ると、カシアンがどこか誇らしげな緋色の瞳で私を見下ろしていた。
彼もまた、防壁の上の「曲芸」を見ていたらしい。
「見てくれ、あの躍動を。君の『あと三回飛べ』という愛の試練が、恐怖を笑い飛ばす余裕と鋼の肉体を彼らに与えたのだ!」
カシアンは感極まった様子で、私の冷たい手を取ってひざまずいた。
「君がこの辺境の盾を、無敵の要塞に変えたのだ。……ああ、その奇跡の代償に、君の体がこれほど冷え切ってしまうとは」
「いえ、これはただの低血圧と末端冷え性で……。皆様が怪我なくお元気なら、それで結構ですわ」
これ以上訂正する気力も湧かず、私は温かい紅茶をすすり、ノアの頭を撫でた。
怪我人が出て私の平穏が脅かされるよりは、彼らが勝手にサーカス団として活躍してくれるほうがマシだ。
私は、まだ知らない。
痛覚が麻痺し、異常なテンションで空を舞う騎士団に、魔物たちが本能的な恐怖を抱き、領地から蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまったことを。
その結果、治安が良くなった領地へ、王都より一人の大物――グラナート侯爵が視察に訪れるという、新たな面倒事がすぐそこまで迫っていることを。




