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【連作短編】婚姻局、本日も不備はございません

明日の夜会で婚約破棄される予定でしたので、今日のうちに婚姻局で解消しておきました

作者: ま
掲載日:2026/10/11



明日の秋の夜会で、わたくしは婚約破棄されるらしい。


情報源は侍女。

朝の髪を結いながら、鏡の中で気の毒そうに眉を下げて言うのだ。



「お嬢様、落ち着いて聞いてくださいね? 王太子殿下がご友人方に話していらしたそうです。明日の夜会で、お嬢様との婚約破棄を宣言なさるって……男爵令嬢のポーラ様をいじめた罪で、皆様の前で断罪なさるおつもりだとか」


「まあ」



わたくしは鏡の中の自分と見つめ合った。

悲しい、とは不思議と思わない。驚いた、が近いかしら。


婚約破棄。断罪。皆様の前で。

それはつまり、明日の夜会でわたくしは大勢の方の前で殿下に怒鳴られる、ということよね?

……困ったわ。

断罪される側のドレスって、何色が正解なのかしら?



「お嬢様、そこじゃありません」


「えっ、でも大事なことよ? 明るい色だと反省していないように見えるし、黒だと喪服みたいで縁起が悪いでしょう?」


「お嬢様ぁ……心配なさるところが違いますってば」



侍女に呆れられて、そうね、と思い直す。

問題はドレスの色ではない。

明日の夜会で殿下が恥をかくことだ。


だって、わたくしはポーラ様をいじめていない。

いじめるどころか、ポーラ様のお顔もよく覚えていない。

いじめた覚えのない罪で断罪なんてしたら、恥をかくのは殿下の方でしょう?


わたくしは考えた。

考えて、考えて、とても良いことを思いついた。



「そうだわ! 破棄される前に、こちらで解消してしまえばいいのではなくて?」



明日破棄するはずの婚約が、今日のうちに無くなっていれば。

殿下は誰も断罪しなくて済むし、わたくしは怒鳴られなくて済む。

ドレスの色も悩まなくていい。


我ながら完璧な名案。

侍女はなぜか額を押さえて、深々とため息をついていた。




◇




王族の婚約は国王陛下の裁可で結ばれる。

だから解消も陛下の裁可があれば済む。


ただし陛下は秋の巡幸で王都をお留守にしていらっしゃるので、その間は王妃様が国璽を預かっておられる。

わたくしは朝のうちに王宮に上がり、王妃アデライド様にお目通りを願った。



「――というわけで、明日の夜会の前に解消させていただきたいのです」



一通り説明すると王妃様は扇の陰で長いこと肩を震わせていらした。

お怒りなのかと思ったら、笑っていらしたらしい。



「セラフィーナ。あなた、あの子に断罪されるのが怖くて来たのではないのね?」


「えっ? あ、はい。いえ、怖いのは怖いのです。大きな声は苦手ですもの。でも、それより殿下がお気の毒で……。いじめていない罪で断罪なさったら、恥をかくのは殿下の方でしょう?」


「お気の毒、ね。ふふ、そう。お気の毒よねえ」



王妃様は目尻の涙を指で拭い、侍従に紙とペンを持ってこさせた。

裁可状を一枚、さらさらとお書きになる。

続けてもう一枚、何かを書いて丁寧に折り、封蝋で閉じてしまわれた。



「一枚目が裁可状。二枚目は、局にあの子が来たら係官に開けてもらいなさい」


「殿下がいらっしゃるのですか?」


「来るわよ、絶対。あの子は昔から、自分の舞台を取られるのが何より嫌いなの」



王妃様は最後にご自分のペンを差し出された。

黒檀の軸に金の百合の紋が象嵌されたペンである。



「届は、このペンでお書きなさい。それから第一窓口に白髪の係官がいたら、このペンを見せてあげて」


「見せると、どうなるのですか?」


「さあ。どうなるかしらね?」



王妃様はいたずらっぽく笑って、それ以上は教えてくださらなかった。

不思議なお話。

でも王妃様が楽しそうなのでわたくしも安心した。




◇




婚姻局は大神殿の北翼にある。


護衛騎士のノアは入口の脇で待つと言った。

騎士が剣を帯びたまま局に入るのは、大神殿の決まりで禁じられているのだそうだ。



「何かあれば、すぐにお呼びください」


「ええ。でも、たぶん何もないわ。紙を一枚出すだけですもの」


「殿下のお耳に入れば、何かあるかと」


「まあ。ノアったら心配性ね」


「お嬢様が楽観的すぎるのです」



ノアは無口で誠実な人だ。

返事の代わりに小さく頷いて、扉の脇に直立する。

背が高くて、肩が広くて、立っているだけで絵になる。

……今のは聞かなかったことにしてちょうだい、誰か。


入口で取った番号札は「六」。

まだ一時の鐘が鳴ってしばらくの頃だ。

第一窓口で裁可状を出すと白髪に銀縁の眼鏡の係官が一礼した。

机の端には砂の落ちきった砂時計が一つ置いてある。



「裁可状をお預かりいたします。王宮に使いを出して印の照合をいたしますので、二時間ほどお待ちください」


「に、二時間……」



長椅子の最前列に座り、わたくしは膝の上で王妃様のペンを握った。


退屈な待ち時間のはずが、妙に胸がどきどきして落ち着かないのは、さっきから膝の上の王妃様のペンを握りしめているせいかもしれない。

緊張しているのかしら? このわたくしが?

二時間あれば、殿下への言い訳を百通りは考えられそうだ。

実際には一通も思いつかず、不安が膨張するばかり。




◇




最初にペンをお貸ししたのは、わたくしの次の番号で呼ばれた奥様だった。


二十歳を少し過ぎたくらいの、凛とした方だ。

係官の「離縁届でございますね」という声が聞こえたので離縁の届を出しにいらしたのだと分かったし、署名をしようとして窓口のペンが書けずに困っていらっしゃるのも見えた。



「あの、よろしければっ!」



気づいたら立ち上がって声をかけていた。

困っている方を見ると体が先に動いてしまう。

ノアにはいつも「お嬢様、せめて三つ数えてから」と注意されている。でも三つ数えている間、困っている方は困ったままでしょう?



「こちらをお使いくださいな。インクはたっぷり入っておりますのよ」



奥様は軸の金の百合に気づいて、少し驚いた顔をなさった。



「よろしいのですか? 随分大切なお品のようですけれど」


「大事な借り物ですわ。でも、ペンは書くためのものでしょう? 使わない方がもったいないですもの」



そして、つい口が滑った。



「明日の夜会、なくなるといいのですけれど……」


「夜会、ですか?」


「えっ。あ、いえ、こちらの話ですわ! どうぞお気になさらず!」



慌てて長椅子に戻る。

やだ、わたくしったら。初対面の方に何を言っているの?


だって本当に、明日の夜会がなくなってくれれば最善なのだ。

夜会さえなければ、殿下は誰も断罪できない。

解消の届が間に合わなくても殿下は恥をかかずに済む。


奥様がペンを手にした瞬間、窓口の係官がほんの一瞬だけ目を細めたのが見えた。

王妃様のおっしゃった「白髪の係官」は、きっとこの方だ。

しかし係官はすぐに元の顔に戻って、判を押した。



「助かりました……ほんとに、ありがとうございます」



ペンを返しにいらした奥様は、肩の荷が下りたようなお顔をしていた。

離縁が通ったのだろう。

おめでとうございます、と言いかけて、離縁にお祝いを言ってよいものか分からず、わたくしは「お役に立ててよかったですわ!」とだけ申し上げた。




◇




二度目にペンをお貸ししたのは、そのすぐ後に入ってこられた奥様だ。


栗色の髪の、目つきのきりっとした方で、手には申立書らしい紙を持っていらした。

第一窓口で何か書き込もうとして、ペンを持ち上げて顔をしかめる。



「ちょっとぉ。ここのペン、インクが無いじゃない」


「これは失礼を。本日は朝から混んでおりまして」


「混んでるのは見れば分かるわよ。もう、困ったわね、ここに署名が要るのに」



係官が替えを取りに立つより先にわたくしはまた立ち上がっていた。

三つ数えるのを、また忘れた。



「よろしければ、こちらをっ!」


「あら。いいの? ありがと、助かるわ」



栗色の髪の奥様は、さっきの奥様よりも随分気さくな口調でペンを受け取った。

申立書の何かの欄を手早く埋めて、すぐ返しに来てくださる。



「いいペンね。書き心地がいいわ」


「でしょう? 王――」



王妃様の、と言いかけて口を押さえる。

奥様は怪訝な顔をしたものの、それ以上は追及せずに長椅子の端に座った。


危なかった……!

借り物の持ち主を無断で公表してはいけない。

それくらい、わたくしにだって分かる。




◇




三時の鐘が鳴ってすぐ、扉が大きな音を立てて開いた。



「ルシール! どこだ、ルシールっ!」



入ってきたのは立派な身なりの殿方で、後ろに白髪の家令らしき方と、赤いドレスのとても華やかな女性を連れている。

殿方は一直線にさっきペンをお貸しした奥様に向かっていった。


まあ、とわたくしは思った。

旦那様が奥様を迎えにいらしたのね。

離縁の届を出されて動揺して、やっぱり考え直してほしいと追いかけていらしたのかしら?

なんて情熱的な……!


……と思いきや、どうも様子が変だ。

旦那様は奥様ではなく窓口に向かって、「無効だ!」と怒鳴っていらっしゃる。

係官が分厚い本を開いて何かを読み上げると広間中が静まり返り、次いでざわめいた。


複雑なお話のようだ。

台帳がどうとか、登記所がどうとか、署名がどうとか。

わたくしには半分も分からない。

分かったのは、旦那様のお顔が赤くなって、最後には真っ白になったことだけである。


やがて旦那様は誰とも目を合わせずに出ていかれて、赤いドレスの女性が「屋敷はどうなるのよ!」と叫びながら追いかけていった。


お引っ越しのご相談かしら?

それにしても、あんなに慌てなくても。



「随分深刻なお引っ越しなのね……」



思わず呟くと隣の席の年配の紳士が何とも言えない顔でこちらを見た。

え、違うの?


ペンをお貸しした奥様は、窓口の前で背筋を伸ばして立っていらした。

勝ったのか負けたのか、わたくしには分からない。

それでも、さっきより格段に晴れやかなお顔に見えたのでわたくしまで嬉しくなった。




◇




次の騒ぎは、四時の鐘の少し前に始まった。


栗色の髪の奥様の旦那様らしき方がいらして、「私たちは夫婦だ!」と言い張っていらっしゃる。

奥様は少しも怯まずに言い返していて、わたくしは思わず身を乗り出した。

すごい。かっこいい。わたくしも、あんなふうに言い返せたらいいのに。


そこに、入口の扉が細く開く気配がした。


隙間からノアがこちらを覗いている。

騒ぎを聞きつけて、わたくしの身を案じてくれたのだろう。

目が合うとノアはほっとしたように息を吐いた。


あ、だめ。

今の顔はずるい。


気づけば長椅子を立って、入口に向かって歩いていた。

騒ぎはどうでもよくなっていた。

……どうでもよくはない。ないのだが、ノアが心配そうな顔をしている事態の方が、わたくしには重大な問題なのだ。



「お嬢様。中で騒ぎが」


「ええ、平気よ。わたくしの騒ぎじゃないもの」



扉の外は秋の夕方の匂いがした。

ノアは扉の脇に立ったまま、わたくしの顔を見下ろしている。



「何か、お飲みになりますか? 近くで水をもらってまいります」


「ううん、いいの。ちょっとここで息をさせて」



本当は息なんてどこでもできる。

ノアの隣にいたかっただけ。

そんなこと、恥ずかしくて絶対に言えない。


その時、扉の向こうで広間がどっと沸いた。

壁が揺れるかと思うほどの大笑いである。



「……何があったのでしょう」


「さあ? 分からないけど、楽しそうね」



ノアを見上げると彼の口の端がわずかに上がっていた。

ノアが笑った!

もう今日はこれだけで婚姻局に来た甲斐があった気がする。


そのまま四時の鐘が鳴り終わるまでわたくしはノアの隣に立っていた。

途中で扉が開いて、最初にペンをお貸しした奥様が出てこられた。

奥様はわたくしに気づくと小さく会釈して、表に待たせていた馬車に向かって歩いていかれた。

来た時より、足取りが格段に軽い。




◇




広間に戻ると栗色の髪の奥様の騒ぎは終わっていた。


旦那様の姿はなく、奥様は受理の判をもらって、第二窓口に向かうところだ。

わたくしの前を通りかかると奥様は足を止め、にっと笑った。



「あのペン、縁起がいいわね。私も、さっきの侯爵夫人も勝ったもの」


「えっ、勝った……のですか? おふたりとも?」



そういえばこの奥様は、最初の奥様がわたくしにペンを返した時、ちょうど入口から入っていらしたのだった。

あの立派な殿方は侯爵様だったのね、と今さら思う。



「ええ、完勝よ。あなたも何か出しに来たんでしょ? 頑張ってね」



奥様は手をひらひらさせながら第二窓口に向かった。


わたくしは膝の上のペンを見下ろした。

このペンを使った方が、二人とも勝った。

つまり、このペン、勝率十割では?


二時間と言われていたのに、王宮の使いが戻ってきたのは四時の鐘からしばらく経った頃だった。

明日の夜会の支度で王宮はどこも忙しいのだろう。



「六番の方。印の照合が済みました。こちらへどうぞ」



第一窓口の前に立つと係官が婚約解消届を差し出した。

わたくしは王妃様のペンで署名の欄に名前を書いた。


セラフィーナ・アシュクロフト。


係官はまた、ペンを見て目を細めた。

今度は見間違いではない。

さっきより長く、何かを懐かしむような目。



「王妃陛下は、お元気でいらっしゃいますか?」


「はい! 今朝は、それはもう笑っていらっしゃいました」


「左様でございますか。……左様で」


「係官様は、王妃様をご存じなのですか?」


「窓口の者は、届を出しにいらした方のことしか存じ上げません」



丁寧で、穏やかで、少しも答えになっていない返事。

係官は眼鏡を押し上げて、判を手に取った。

まさにその時。




◇




「待て! 破棄するのは俺だ!」



扉が開くのと同時に聞き慣れた声が広間に響き渡った。


レオポルド殿下だ。

金色の髪を振り乱して、後ろに薄桃色のドレスの令嬢を連れている。

あれがポーラ様、だと思う。恐らく。

お顔をよく覚えていないので自信が無い。


ちょうど帰ろうとしていた栗色の髪の奥様が、扉の脇で「は?」という顔をして殿下を見送り、そのまま出ていかれた。



「セラフィーナ! 母上のところに行ったそうだな! 俺に断りもなく、勝手に婚約を解消しようなどと!」


「はい、殿下。明日の夜会で破棄なさると伺いましたので、その前にと」


「だからだよ! 破棄するのは俺だ! 明日の夜会で、皆の前でだ!」



殿下は窓口に両手をついて、係官に詰め寄った。



「おい、係官! その届を受理するな! 俺は認めてないぞ!」


「王妃陛下の裁可がございます。書類に不備はございません」


「くっ……」



殿下は言葉に詰まり、くるりとこちらを向いた。

広間中の目が、わたくしと殿下に集まっている。



「いいだろう。ならば、ここで言ってやる!」



ここで?

明日の夜会でなくてよいのかしら。



「セラフィーナ・アシュクロフト! お前はポーラをいじめた! 学園でポーラが挨拶をしても、お前はいつも無視していたな!」



わたくしは一生懸命思い出した。

ポーラ様。挨拶。無視。

……ああ。



「申し訳ございません、殿下。無視したのではないのです。その……気づかなかったのですわ」


「は? 気づかなかった、だと?」


「はい。わたくし、学園ではいつも、ノアばかり見ておりましたので」



広間が水を打ったように静まり返った。


入口の扉の隙間で、ノアが固まっているのが見えた。

耳まで真っ赤になっている。

あら?

わたくし、今、何か言ってはいけないことを言ったかしら?


……言ったわね。

言ってしまったわね、確実に。

顔が熱い。どうしよう。今すぐ大神殿の地下に埋まりたい。



「そ、そんなことはどうでもいい!」



殿下が咳払いをして、話を戻した。



「それに、明後日の母上の秋の茶会だ! お前はポーラを招かなかった! ポーラだけ仲間外れにしたな!」


「殿下? 王妃様の茶会の招待状をお配りになるのは、殿下のお役目でしたでしょう?」


「……は?」


「わたくしは一枚もお配りしておりませんわ。ポーラ様の分は殿下がお持ちだったはずです。昨日の夕方、王宮の回廊で、上着の内側にお入れになるのを見ておりましたもの。……あの、その上着、昨日と同じですわよね?」



殿下が困惑した顔で、おそるおそる上着の内側に手を入れる。

出てきたのは王妃様の紋の封蝋がついた、皺くちゃの招待状。


宛名は、ポーラ・ドーソン様。



「……殿下ぁ?」



ポーラ様が、低い声で殿下を呼んだ。

殿下の額を、汗が一筋流れ落ちた。




◇




「あの、係官様」



わたくしは思い出して、王妃様の封をした二枚目を差し出した。



「王妃様が、殿下がいらしたら係官に開けてもらいなさいと」


「拝見いたします」



係官は封蝋を切って、二枚目を広げた。

目を通すと口元を緩め、広間に聞こえる声で読み上げる。



「一、王太子レオポルドとセラフィーナ・アシュクロフトの婚約は、本日をもって解消す」



殿下が「母上……」と呻いた。



「二、王太子レオポルドの婚約および婚姻の届は、以後、王妃の裁可なきものを受理せぬこと」


「なっ!?」


「三、明日の秋の夜会は予定どおり行う。ただし王太子は欠席し、自室にて反省のこと」



係官は紙を下ろして、静かに付け加えた。



「以上、王妃陛下の御名において。封蝋は、先ほど照合いたしました裁可状と同じ御印でございます」



殿下の顔面から、すうっと血の気が引いていく。

呆然とした殿下を見て、わたくしは少し気の毒になった。

本当に、ちょびっと。


その時、ポーラ様が殿下の腕をつかんだ。

手に一枚の紙を握っている。



「ねえ、殿下ぁ。じゃあこれは? 今日のうちに出しちゃえばいいって、殿下が言ったわよね?」



それは婚約届だった。

殿下とポーラ様の名前が、もう書き込んである。


係官はその紙を受け取って一読すると、丁寧に二人の前に押し戻した。



「王妃陛下の裁可がございません。不備でございます」


「ふ、不備……?」


「不備でございます」



五時の鐘が鳴り始めた。


係官は砂時計にも殿下にも目をやらず、わたくしの解消届の上に判を押した。

鐘の最後の一打と、ぽん、という音が重なる。



「書類に不備はございません。受理いたしました」



それから係官は、王妃様のペンをわたくしの手に返した。

ほんの一瞬、指先がペンの金の百合をなぞったように見えた。



「よいペンでございますな。……ようやく、本来の仕事をいたしました」



本来の仕事?

ペンの本来の仕事は書くことで、このペンは今日もう三回も書いている。

首をかしげるわたくしに、係官はそれ以上何もおっしゃらず、深々と一礼なさった。


王妃様はご存じなのかしら。

係官様の、あの懐かしそうな目の理由を。

今度お会いしたら伺ってみよう。きっとまた、「さあ。どうかしらね?」と笑われてしまうのだろうけれど。




◇




局の外に出ると、空はもう茜色だった。


ノアは扉の脇に立っていた。

姿勢はいつもどおり完璧。

耳だけが、まだ赤い。



「……お嬢様」


「な、何も言わないで! お願い。わたくし、さっき広間で、とんでもないことを……」


「承知しております」


「承知しないでぇ!」


「明日の夜会ですが」



ノアは、わたくしの言葉を遮るように言った。

珍しいことである。



「自分は警護で会場に入ります。もし、お嬢様がよろしければ――」



そこでノアは言葉を切った。

そして騎士の礼を取る時よりも深く頭を下げた。



「一曲だけ、お相手をお許しいただけますか?」



わたくしは手の中のペンを胸に抱えた。

嬉しくて、恥ずかしくて、どちらが本当の気持ちなのか自分でも分からない。両方、かしら。

このペン、やっぱり勝率十割だわ。


昼過ぎにあの奥様に、「明日の夜会、なくなるといいのですけれど」なんて言ってしまった。

撤回しなければいけない。


明日の夜会、なくならなくてよかった。




明日は秋の夜会。その前日の午後、婚姻局の第一窓口に、三人の女性が届を出しに来た。

同じ日、同じ窓口、同じ一本のペン。どの話から読んでも楽しめる連作短編です。

https://ncode.syosetu.com/n4054mw/

https://ncode.syosetu.com/n4037mw/


↓番外編「滲んだ署名」(係官ベネディクト視点。窓口の内側から見た同じ一日)

https://note.com/wise_turtle184/n/nb4bd9a1179e4?magazine_key=m3153550f4b3b

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