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【連作短編】婚姻局、本日も不備はございません

「書類は読まずに署名する」が自慢の夫でしたので、今朝の離縁届にも署名をいただきました

作者: ま
掲載日:2026/10/11



「旦那様、こちらは離縁届ですわ」



私が書類を差し出す。

夫は顔も上げず、面倒くさそうに手を振るばかり。



「いちいち説明するなと言ってるだろうが。うるさいな」



朝食の皿を脇に押しやって、夫はペンを取る。

一枚目の離縁届に署名をすると、二枚目の財産目録にも三枚目の贈与証書にも同じ速さで名前を書き殴っていく。


読んでいない。

三年間一度も読んだことのない人が今朝に限って読むはずもない。



「ほら、終わったぞ。下げろ」


「かしこまりました」



背後に控えていた家令のトマスが息を呑む音がした。

私は離縁届と財産目録を揃えて革の書類挟みに収め、贈与証書だけは言いつけどおり歌劇場に届けるようトマスに託した。


手は震えなかった。

震えるかと思っていたのに拍子抜けするほど平然としている自分がいて、むしろそちらに動揺した。

もう少し何か感じなさいよ、私。三年よ?




◇




オスカー・ベルクール侯爵は書類を読まないことを誇りにしている。



「細かいことは妻の仕事だ。俺は署名するだけでいい。それが器の大きさってものだろう?」



夜会でそう言い放つたびに取り巻きの方々は手を叩いて同意した。

器の大きさ?

読まないことの、どこが?


子爵家から嫁いで三年、私は侯爵家のあらゆる書類を整えてきた。

領地の小作人との契約、商会への支払い、借用書の利息の計算、王宮に提出する税の申告。

夫が署名する前に私が全部読んで点検し、誤りがあれば訂正して清書まで済ませてから夫の前に置く。


それでも最初の一年は楽しかった。

結婚したばかりの頃、夫は私の書いた手紙を見て――読んで、ではなく、見て――「字がきれいだな」と言ってくれたことがある。

私はたった一度きりのその言葉を三年間お守りのように大事に持ち歩いていた。


馬鹿みたい。今なら分かる。


二年目から夫は歌劇場に通い始めた。

三年目には帰ってこない夜の方が多くなり、相手は歌姫のロザンナという人で赤いドレスがよく似合うのだと、社交界の奥様方が親切に教えてくださった。

親切に。ええ、とても。


そして先週、夫は言った。



「王都の別邸な、ロザンナにやることにした。贈与の書類を作っておけ」


「お待ちください、旦那様。あの別邸は私の持参金です。ご存じですわよね?」


「は? 細かいことはいいんだよ。作れって言ってるだろ」



細かいこと?

私の実家が、娘のためにと手放した屋敷が?


その夜、私は書斎で三通の書類を作った。

言われたとおりの贈与証書と、財産目録と、離縁届。

ペン先が一度も迷わなかったことに私自身が一番驚いていた。




◇




婚姻局は王都の大神殿の北翼にある。


馬車を降りたのは一時の鐘からしばらく経った頃で、重い扉を押して入ると高い天井の広間に長椅子が三列並び、正面に窓口が二つ見えた。

入口の台で取った番号札は木製で、「七」と焼き印が押してある。


広間には思ったより人がいた。

年配の夫婦、書類の束を抱えた代理人、一人で俯いている若い男性。

離縁や婚約の届を出しに来る人の顔は誰も硬くて、たぶん私も同じ顔をしているのだろう。



「七番の方。七番の札をお持ちの方は、いらっしゃいますか?」


「はい、私です」



二時の鐘が鳴ってすぐ、番号が呼ばれた。


第一窓口の向こうにいたのは銀縁の眼鏡をかけた白髪の係官だ。

机の端には砂の落ちきった砂時計が一つ置いてあり、胸の名札には「ベネディクト・ハロウェイ」とある。



「離縁届でございますね。拝見いたします」



係官は書類を受け取り、一枚目から順に丁寧にめくっていった。

夫の署名、私の署名、日付、証人の欄。

読む速さは速くない。しかし一行も飛ばしていないのが分かる。


この人、読む人だ。

読まれるのってこんなに嬉しいものなの? 知らなかった。



「財産目録の末尾に、申立人ご本人の確認の署名が要ります。この欄でございます」


「承知しました。ペンをお借りしても?」


「どうぞ」



窓口に備え付けのペンを取ってインク壺に浸したが、書けない。

ペン先が紙の上を空しく滑るだけでインクが一滴も出てこない。

え、ここで? 三年分の最後の一筆が、インク切れで止まるの?



「どうかなさいましたか?」


「あの……インクが、出ませんの」


「おや」



係官がペンを受け取り、眼鏡の奥で目を細める。



「これは失礼を。本日は朝から混んでおりまして、インク壺が空になってしまったようです。替えを取ってまいりますので、少々お待ちを」


「あの、よろしければっ!」



横から弾んだ声がした。


さっきまで最前列の長椅子に座っていた若い令嬢が、いつの間にか私の隣に立っている。

淡い金色の髪を結い上げた、まだ十代に見える方だ。

差し出された手には黒檀の軸のペンが一本。



「こちらをお使いくださいな。インクはたっぷり入っておりますのよ」



受け取ったペンの軸には金で百合の紋が象嵌してあった。

金の百合?

それって王家の紋じゃなかったかしら。



「よろしいのですか? 随分大切なお品のようですけれど」


「大事な借り物ですわ。でも、ペンは書くためのものでしょう? 使わない方がもったいないですもの」



令嬢はにっこり笑って、ついでのように付け加えた。



「明日の夜会、なくなるといいのですけれど……」


「夜会、ですか?」


「えっ。あ、いえ、こちらの話ですわ! どうぞお気になさらず!」



……何の話?

聞き返す前に令嬢は軽やかな足取りで長椅子に戻ってしまった。


私はありがたくペンを借りて、財産目録の末尾に「ルシール・ベルクール」と書いた。

この名前を書くのもこれが最後になる。

そう思うと、もう少し丁寧に書いておけばよかったという妙な未練が湧いて、我ながら呆れた。

最後の最後まで字の出来を気にするなんて、職業病ね。


係官は目録をもう一度読み、離縁届の上に判を押した。



「書類に不備はございません。受理いたしました」



判の音は思っていたよりも軽かった。

三年分の重さが、ぽん、というたった一度の音で終わる。


よし、通った。

胸の中で拳を握ってから目の奥がつんとしていることに気づき、慌てて背筋を伸ばした。

泣く? この私が?

泣くほどの三年じゃなかった……はずよ。



「助かりました……ほんとに、ありがとうございます」



長椅子の令嬢にペンを返すと彼女は「お役に立ててよかったですわ!」と嬉しそうに受け取った。

入れ違いに、栗色の髪の目つきのきりっとした奥様が入口から現れて、申立書らしき紙を手に迷いのない足取りで第一窓口に向かっていく。


今日の婚姻局は随分と忙しいらしい。

旧姓に戻す手続きの第二窓口も混雑していて、私は長椅子で順番を待つことになった。




◇




三時の鐘が鳴った直後、騒ぎが始まった。


扉が乱暴に開き、聞き慣れた声が広間に響く。



「ルシール! どこだ、ルシールっ!」



声の主は夫。

後ろには青い顔の家令トマスと、赤いドレスの女性が続いている。

あれがロザンナさんね、と冷静に観察している自分が可笑しかった。



「旦那様。こちらです。そんなに大きな声を出さなくても聞こえますわ」



長椅子から立ち上がると夫は大股で詰め寄ってきた。

待合の人たちが一斉に顔を上げ、最前列の令嬢が目を丸くしてこちらを見ている。



「トマスから聞いたぞ! 今朝の書類が離縁届だったそうだな!」


「ええ。そう申し上げましたわ」


「聞いてない!」


「では、何だと思って署名なさったのです?」


「知るか! いつもの書類だろうが! お前が持ってくるのは、いつもの書類に決まってるだろ!」



聞いてない、と来たか。

言いましたよね? 朝食の席で、はっきりと。


夫は私を押しのけるようにして、第一窓口に両手をついた。



「おい、係官! その届は無効だ! 俺は中身を読んでない! 騙されて署名させられたんだ!」


「左様でございますか」



係官は眉一つ動かさなかった。

砂時計をひっくり返し、落ちる砂をちらりと見てから淡々と口を開く。



「届はすでに受理しております。受理の後の取り下げは、規定によりできません」


「だから無効だって言ってるんだ! 聞こえないのか?」


「ただし、錯誤の申立はおできになります。内容を知らずに署名した、というお申立でございますね?」


「そうだ! それだよ、それ!」



夫は勝ち誇った顔で私を振り返った。

ほら見ろ、と言わんばかりの得意顔。


私は口を挟まずに係官を見た。

係官は書類棚から分厚い冊子を一冊取り出し、あるページを開く。



「では、規定をご説明いたします。錯誤の申立を受理した場合、局は台帳に注記をいたします」



不思議な声だ。

大きくはないのに広間の隅まで届いて、誰一人聞き漏らさない。



「申立人オスカー・ベルクール侯爵閣下は、書類の内容を知らずに署名する方である、と」



夫の顔が固まった。



「注記の写しは、王都の登記所と商業ギルドに回ります。これも規定でございます」


「ま、待て。なんでそんなところに回す必要がある?」


「閣下が内容を知らずに署名なさる方であれば、閣下の署名がある他の書類も、すべて同じ疑いを受けるからでございます」



係官は眼鏡の位置を指で直した。



「まず、本日閣下が署名なさった書類。こちらは同じ扱いで見直しになります。それから、これまでに閣下が署名なさった契約書、借用書、納税の申告も、順に」



広間がざわめいた。

侯爵家の署名が信用できない。つまり侯爵家とのあらゆる取引が止まる、という意味である。



「そ、そんな大げさな……たかが離縁届一つで」


「たかが、でございますか。閣下は先ほど、ご自分は中身を読まずに署名する方だとおっしゃいました。局はそのお言葉どおりに記すだけでございます」



夫は口を開けたまま、言葉を探している。

その横から赤いドレスが前に出た。



「ちょ、ちょっと待って。本日署名した書類って、まさか……」



ロザンナさんの手には丸めた羊皮紙が握られていた。

今朝トマスが歌劇場に届けた三枚目、王都の別邸の贈与証書だ。



「これも? ねえ、これも見直しになるの?」


「左様でございます」


「はぁ? 冗談じゃないわよ! あの屋敷は、あたしがもらったのよ!」


「ロザンナさん」



私が声をかけると彼女はきっとこちらを睨んだ。

綺麗な人だ、と素直に思う。

夫が夢中になるのも分かる。分かりたくはないけど。



「その証書、一度でもお読みになりました?」


「は? 読むって、何をよ」


「三行目ですわ。『別邸(ルシール・ベルクールの持参金財産)を贈与する』と書いてありますでしょう?」



ロザンナさんが慌てて羊皮紙を広げ、三行目に目を走らせた。

見る見る顔色が変わる。



「持参金の財産は妻の財産です。夫が管理はできても、妻の署名なしに人に譲ることはできませんの。その証書に、私の署名はございますかしら?」


「……え?」


「先週、旦那様に申し上げましたのよ。あの別邸は私の持参金です、って。旦那様は『細かいことはいい、作れ』とおっしゃいました。ですから――作りましたわ」



言われたとおりに。

一字一句、正直に。



「それに、離縁届に添えた財産目録。持参金の財産は全額フェン家に戻す、と書いてありますの。もちろん、旦那様の署名入りで」



夫がこちらを向いた。

初めて私の顔を見たような目をしていた。


三年間、この人は私の顔を見なかった。

書類の上の私の字も、私の言葉も、一度も。

今さら見られても困るのに、その目に一瞬だけ懐かしさを覚えてしまった自分が腹立たしい。

懐かしい? 何が? しっかりしなさいよ、ルシール。



「錯誤の申立をなさいますか?」



係官は補充の済んだインク壺にペンを浸して尋ねた。



「なさるなら、台帳に注記いたします。なさらないなら、本日の届はそのまま受理として記録いたします。いかがなさいますか?」



夫の唇が動いたが、声にはならなかった。


錯誤を申し立てれば、離縁は取り消せるかもしれない。

しかしその代償に、侯爵オスカー・ベルクールは「読まずに署名する男」として王都中の台帳に載り、侯爵家の取引は全部止まる。

申し立てなければ、妻と持参金と別邸を失う。

どちらを選んでも夫が今朝署名したものからは逃げられない。


いい気味。そう思う気持ちが無いとは言わない。だが、それ以上に私はこの人に疲れ果てていた。


あと一手。

私はもう一度だけ口を開いた。



「トマス。今朝、私は旦那様に何と申し上げたかしら?」



家令のトマスは六十年の人生で最も苦しそうな顔をした。

そして深く頭を下げ、はっきりと答えた。



「奥様は、『旦那様、こちらは離縁届ですわ』と。旦那様は……その、『いちいち説明するなと言ってるだろうが。うるさいな』と」



広間のどこかで誰かが吹き出した。

すぐに咳払いでごまかしたものの、それが合図だったかのように、くすくすという忍び笑いがあちこちから漏れ始める。


夫の顔が赤から白に変わった。



「ルシール、お前……最初から、これを」


「いいえ、旦那様。私は毎回、何の書類かを申し上げてきましたわ。お読みにならなかったのは――旦那様です」


「……申立は、しない」



絞り出すような声だった。



「承知いたしました。本日の離縁届は、受理のまま記録いたします」



係官が台帳に何かを書き入れる。

ペン先が紙を擦る音を広間中が聞いていた。


夫は踵を返し、誰の顔も見ずに扉に向かう。

ロザンナさんが羊皮紙を握りしめて、その背中を追いかけていった。



「ちょっとぉ! 待ってよ! 屋敷はどうなるのよっ!」



甲高い声が扉の向こうに消え、広間に元の静けさが戻った。


勝った。

勝ったのに胸の奥が妙にすうすうする。


あの人の背中を見送るのはこれで何度目だろう。

歌劇場に出かけていく夜も、私はいつも玄関の内側でこうして背中を見ていた。

最後くらい振り返ってほしかった? 冗談でしょう、ルシール。お人好しにも程があるでしょう。



「奥様」



トマスがそばに来て、白髪の頭をもう一度下げた。



「申し訳ございませんでした。お止めできず」


「やだ、止めなくていいのよ。あなたは本当のことを言っただけでしょう?」


「ですが、奥様。私が今朝のうちに旦那様に念を押していれば……」


「押しても読まなかったわよ。三年間、一度も読まなかった人だもの」


「……実は、私も今日でお暇をいただこうかと」


「え? あなたが?」


「侯爵家の書類を、これから誰が読むのか……考えただけで、正直、胃が痛うございまして」



大真面目な顔でそう言うものだから、もう駄目。

今日初めて、肩の力がすとんと抜けた。




◇




第二窓口に向かおうとするとハロウェイ係官が顔を上げた。



「フェン様」



まだ手続きも済んでいない旧姓で呼ばれて、足が止まる。



「先ほどの財産目録と離縁届、拝見いたしました。三年分の侯爵家の取引が、一枚の目録にきちんと整理されておりましたな。四十年この窓口におりますが、あれほど読みやすい書類は……いや、そう多くはございません」


「……ありがとう、ございます」



声がかすれた。



「お礼を申し上げるのはこちらの方です。不備のない書類は、窓口の者にとって何よりの贈り物でございますので」



書類を褒められた経験など、生まれてこの方一度も無い。

三年間、誰も中身まで読まなかった私の書類を、この人は全部読んでくれたのだ。


嬉しい。

嬉しいのに、どうして今になって目の奥が熱くなるのかしら。

夫の前では一滴も出なかったくせに。ずるいわよ、こんなの。



「一つ、お伝えしておきます」



係官は窓口の脇に貼られた小さな紙を指さした。



『書記募集。字の読める方』


「当局は、いつでも人手が足りておりません。ご一考いただければ幸いです」



係官は引き出しから紙を一部取り出して私に手渡し、一礼して次の番号札を呼んだ。

貼り紙の前で、私はしばらく動けなかった。


字の読める方。

ええ、私は読めますとも。




◇




旧姓に戻る手続きは第二窓口で行う。


若い係官に言われるまま、私は何枚かの書類に「ルシール・フェン」と署名した。

三年ぶりに書く名前なのに、手が勝手に覚えている。

フェン。小さな子爵家の、地味な名前。

それでもこれは私の名前だ。


最後の一枚を書き終えた頃、広間がまた騒がしくなった。

誰かの夫が来たらしい。

窓口の衝立の陰になって、私の位置からは顔が見えない。

男性の声が「私たちは夫婦だ!」と言い張り、女性の声が冷ややかに言い返している。


そして、はっきりと聞こえた。



「――背中のほくろの数を、係官にお答えくださいませ」



背中の……ほくろ?

え、何それ。どういう流れでそうなるの?


一拍おいて、広間がどっと沸いた。

さっきの私の時とは比較にならない、遠慮のない大爆笑。


衝立の陰で私は少し考えた。

妻が夫に、夫婦なら知っているはずのことを尋ねた。答えを聞いた広間が、腹を抱えて笑っている。

つまり、あちらの旦那様も妻を知らなかったのだ。

三年間、妻の書いたものを一度も読まなかったどこかの誰かさんと、同じように。


……やだ、どうしよう。肩が震える。

私は書類で口元を隠した。どこの奥様か存じませんけど、お見事。


若い係官が「以上で手続きは終わりです」と書類を差し出し、四時の鐘も鳴り始めている。

実家の馬車を四時に表で待たせてあるのだ。

結末を見届けたいのはやまやまだったが、私は第二窓口を離れた。




◇




重い扉を押して外に出ると秋の夕方の匂いがした。


扉の脇にさっきの金髪の令嬢が立っていた。

隣には背の高い騎士が一人。剣を帯びて、石像のようにまっすぐ立っている。

令嬢はその騎士を見上げて何か話しかけていて、騎士の方は直立不動の姿勢を崩さず、口の端だけがわずかに上がっている。


令嬢の頬は薄紅色に染まっていた。


ああ、と思った。

明日の夜会、なくなるといいのですけれど。

夜会に出れば、誰か別の方の隣に立たなければならないのかもしれない。あの王家の紋のペンで、彼女も何かを終わらせに来たのかもしれない。

事情は知らないし、詮索する気もない。


ただ、あの子が書類を読まない誰かと一緒にならずに済みますように。

私はペンのお礼の代わりに小さく会釈をして、表に待たせていた馬車に向かった。


足が軽い。

来た時と同じ石段なのに。




◇




翌朝、実家の書斎で私は一通の書類を広げた。


婚姻局の書記の雇用契約書。

昨日、ハロウェイ係官が手渡してくれたものだ。


給金、勤める時間、休みの日、守るべき規定。

一行目から最後の一行まで時間をかけて読んだ。

分からない言葉には印をつけ、計算の合わない所が無いか確認する。


三年間誰かのためにしてきたことを今朝は自分のためにしている。

たかがそれだけのことで胸が躍るなんて、我ながら単純で可笑しい。


ペンを取る。

署名の欄に「ルシール・フェン」と書く。


私は、全部読んでから署名した。




明日は秋の夜会。その前日の午後、婚姻局の第一窓口に、三人の女性が届を出しに来た。

同じ日、同じ窓口、同じ一本のペン。どの話から読んでも楽しめる連作短編です。

https://ncode.syosetu.com/n4055mw/

https://ncode.syosetu.com/n4037mw/


↓番外編「滲んだ署名」(係官ベネディクト視点。窓口の内側から見た同じ一日)

https://note.com/wise_turtle184/n/nb4bd9a1179e4?magazine_key=m3153550f4b3b

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