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第32話 不可逆の魂と、開かずの間でのファッションショー

第一王子の断罪劇から数日後。


王宮北の塔、外界の喧騒から完全に隔離された開かずの間には、嵐の後のような、ひどく穏やかで静かな時間が流れていた。


……はずだったのだが。


『……ああ、本当に可愛いな。窓から差し込む光に透ける銀糸のような睫毛も、ページをめくる長い指先も。いっそこのまま僕の腕の中に一生閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくない……』


ビクンッ!


長椅子で優雅に歴史書を読んでいた私、リリア(体は王子)は、突然脳髄に直接響いたドロドロに甘く重たい声に、持っていた分厚い本を危うく床に取り落としそうになった。


「で、殿下! またですか! さっきから、声に出さずに変なこと念じるのやめてくださいッ!」


私が顔を真っ赤にして抗議すると、数メートル離れた執務机で魔術書を広げていたギルバート殿下(体は侍女)が、きょとんとして顔を上げた。


「……え? 僕は何も言ってないぞ。ただ、本を読んでいる君の横顔に見惚れていただけだ」


無自覚だったんですか!? 息をするように激重感情を垂れ流すなんて、余計にタチが悪いです!


あの夜会以降、私たちの間に、ある深刻な異常事態が発生していた。


物理的・魔術的にあまりにも深い繋がりを持ちすぎた結果、二人の感覚共有のパスが、勝手に異常進化を遂げてしまったのだ。


肌が触れ合っていなくても、魔導具を作動させていなくても、ふとした瞬間に、互いの思考や隠したい感情が、ノイズのように筒抜けになってしまうのである。


『……はっ。しまった、また僕の心の声が漏れていたのか。いや、でも赤面して涙目で抗議する顔も最高にそそるな。いっそこのまま押し倒して、唇を……』


「漏れてます! 今もドSで破廉恥な思考がダダ漏れです!! 強制テレパシーのスイッチを切ってください!」


私はたまらず手元のクッションを顔に押し当てた。


四六時中、殿下からの「好き」「愛おしい」「独占したい」「ついでにイジメて泣かせたい」という特大質量の感情の直撃を受け続けるのは、精神力の消耗が激しすぎる。


「……ふむ。やはり、僕の仮説は正しかったようだな」


殿下はわざとらしく咳払いをして真顔に戻ると、机の上に広げていた複雑な解析陣をトントンと指でなぞった。


「パスが異常進化した原因が分かった。……リリア。僕たちの魂は、互いの肉体に完全に『定着』し始めている」


「え……?」


「このままいけば、拒絶反応は完全に消え去り、魂と肉体が完全に適合する。だが、それは同時に……」


殿下は、瞳を伏せ、少しだけ言い淀んだ。


「もう、元の体には『戻れない』可能性が高い、ということだ」


静寂が、部屋に落ちた。


元の自分に戻れない。


私は、無意識に自分の手――王子の大きな手を見つめた。


もう侍女の姿で、お父様のお墓参りに行くことはできない。


騎士の娘として、リリア・ヴァレリウスとして生きた証は、永遠にこの王子の体の中に隠されることになる……。


私の胸の奥底に、チクリとした悲哀と、どうしようもない寂しさが広がった。


私が私でなくなるような、アイデンティティの喪失感。


しかし、それと同時に。


でも……この体のままでいれば、私はずっと殿下の傍に、王子として、彼と肩を並べて生きていける。


ただの雑用係の侍女じゃなくて、王子の体で、彼の盾になり剣になれる。


それに……彼はずっと、私の一番大切な体を、代わりに生きてくれるんだ……。


どうしようもない、禁断の甘い喜びが、悲しみを優しく塗り潰すように湧き上がってくる。


二度と元の姿に戻れなくても、彼と一緒にいられるなら。


この変態で、ドSで、底意地が悪くて……でも、世界中の誰よりも不器用で深い愛情をくれる彼と、一つの運命を永遠に共有できるなら。


私は……。


『……ああ。僕の、愛しい共犯者』


ふわり、と。


私の背中から、極上の薔薇と麝香の香りが包み込んだ。


いつの間にか殿下が背後に立ち、豊かな胸を私の背中にむにゅっと押し当てながら、その首筋に顔を埋めてきたのだ。


ひゃうっ!? 


自分の元の胸の感触を、自分の背中で感じるって、脳の処理能力が追いつきません!


パスを通じて、私の葛藤も、そして最終的に導き出された喜びも、すべて彼には伝わっていた。


「悲しませてすまない。……でも、君が僕の隣にいる運命を受け入れてくれたこと。本当に、狂いそうなほど嬉しいよ」


「で、殿下……」


「約束する。君の父上の誇りも、君が流した涙も、僕がこの体で永遠に背負って、世界で一番美しく輝かせてみせる」


殿下の細い腕が、私の胸元にギュッと回される。


互いの感情がパスを通じて混ざり合い、甘く、切ない共鳴が部屋を満たした。


私たちの魂は、もはや絶対不可分の一つの存在になろうとしていた。


――コンコン。


その甘くドロドロとした空気を切り裂くように、扉の向こうから近衛騎士の控えめなノックの音が響いた。


「ギルバート殿下。第二王子のレオンハルト殿下より、書状が届いております」


私と殿下は顔を見合わせ、スッと表情を引き締めた。


受け取ったのは、金箔が押された豪奢で分厚い封筒。


中には、第二王子の邸宅で開催されるお茶会への招待状が入っていた。


「……お茶会、ですか。第一王子が失脚した直後に、随分と優雅ですね」


「ただの茶飲み話なわけがないだろう。これはレオンハルトからの、明確な宣戦布告だ」


殿下は招待状を指先で弾き、冷たい、けれど好戦的な笑みを浮かべた。


「レオンハルトは武力ではなく、圧倒的な資本と流通網で国を牛耳っている。このお茶会は、国中の有力貴族や新興商人を集めた見本市だ。自分がいかに莫大な富と最新の技術を持っているかを見せつけ、僕たちを『経済の力』で圧殺するつもりだろう」


「なら、行かない方が……」


「いや、行くさ。逃げれば、第三王子は第二王子の財力に恐れをなしたと噂される。それに……僕たちには、奴の時代遅れな金満趣味を叩き潰すための、最強の武器がある」


殿下はクルリと踵を返し、部屋の奥にある巨大な衣装部屋の扉をバーン!と勢いよく開け放った。


「さあ、リリア! 戦支度の時間だ!」


「ふぇっ?」


「レオンハルトの取り巻きの女どもは、まだコルセットで腹を締め上げ、豪華絢爛な装飾で富を誇示するだろう。ならば僕たちは、その真逆を突く。……最先端のモダニズムと、圧倒的な美の暴力で、会場の視線をすべて掻っ攫ってやるんだ」


そこから先は、私にとって別の意味で地獄だった。


殿下は魔法で次々と仕立て屋のトルソーを呼び出し、反物を空中に舞わせながら、新しいドレスの裁断を始めた。


「ほら、見てみろリリア。過剰なフリルや装飾はナンセンスだ。これからの流行は、もっと自由でオーガニックでなければ」


殿下は、身に纏っていたメイド服を惜しげもなく脱ぎ捨てた。


「ひゃぁッ!? な、何脱いでるんですかっ! 私の体なんですから、もっと大事に扱ってください!」


「自分の体だろう、何を照れる。……これに着替えるんだよ」


殿下が身に纏ったのは、一切の装飾やコルセットを廃した、真紅のシルクのスリップドレスだった。


背中と胸元が大胆に開き、薄い布地が女性の自然な曲線美――バストの柔らかな膨らみや、腰のくびれに滑らかに吸い付いている。


歩くたびに脚のラインが透けて見え、計算し尽くされたスリットが、健康的でありながらも極限の扇情性を放っていた。


「ど、毒婦です! 完全に男の理性を溶かす、傾国の毒婦です、それ!」


「最高の褒め言葉だな。……さあ、次は君の番だ、僕の覇王様」


顔から火を噴く私の服を、殿下は魔術で強引に剥ぎ取った。


「ちょっ、殿下ァァッ! 自分で脱ぎますからぁっ!」


「君にはこれだ。過剰な金糸の刺繍はすべて捨てる。徹底的に無駄を削ぎ落とした、スーツだ」


殿下が着せ付けたのは、深いネイビーブルーの生地で仕立てられた、ボディラインにぴったりと沿う細身の礼服だった。


無駄な装飾がない分、王子の広い肩幅や長い脚が、彫刻のように際立って見える。


「……どうだ。これなら、金貨の重さしか誇れないレオンハルトなど、ただの成金趣味の豚に見えるだろう?」


巨大な姿見の前で並び立つ二人。


洗練の極みを行く氷の覇王と、常識を破壊するオーガニックな悪女。


並んだ瞬間の圧倒的なオーラは、互いが互いの美しさを極限まで引き立て合っていた。


……悔しいけれど、本当に綺麗。私、こんなに格好良くなれるんだ。


私は鏡の中の自分と、隣で妖艶に微笑む殿下を見て、不思議な高揚感を感じていた。


剣を振るうだけが戦いではない。


勝負はすでに、このクローゼットの中から始まっていたのだ。


「さあ、乗り込もうかリリア。……第二王子の見本市を、僕たちのランウェイに変えてやる」


私たちは不敵な笑みを交わし合い、金と欲望が渦巻く新たな戦場――第二王子の邸宅へと向けて、王宮を後にした。

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