第7話 あなたに触れるためなら、時間さえほどいて
第五の賢者 ――カリオン
その男は、遅れてやってきた。
だが、その足取りには、
誰よりも“この扉に向かってきた理由”が、はっきりと宿っていた。
「……遅れて、すまない」
屋敷の結界門をくぐったそのとき――
空気が、一瞬だけ、過去の匂いを帯びた。
男は、礼をするように帽子を取り、
それを胸元へと添える。
まるで、胸の奥に沈めた“誰か”を、そっと抱きしめるように。
そして、記録者・クリチャの前で、深く頭を垂れた。
その動作ひとつひとつに、歳月と悔いと、
それでも“人であり続ける”という決意が滲んでいた。
名を、カリオン・サーヴィス。
歴史考察者。時間術の学者。
かつて「時の王」とまで呼ばれた男。
今やその名も記録の底に沈み、
ただ一つの“過去”だけを胸に、
時の果てから戻ってきた者だった。
「第五挑戦者、時の王カリオン様。入室ヲ許可シマス」
クリチャの音声は変わらない。だが、その応答のタイミングに、**ほんの一拍の“迷い”**が混ざっていた。
扉が開いた瞬間、空気がわずかに逆流する。
それは魔力ではない。
もっと人間的な、“もう一度だけ触れたい”という――
未練にも似た、熱の残滓だった。
カリオンは寝台の前へと進む。
セリスの姿を見て、一瞬、瞳に影が落ちる。
その視線には、懐かしさと痛み、そして淡い欲望が絡み合っていた。
「……お綺麗ですね、姫様」
ぽつりと漏らした声は、誰かに話しかけるものではなかった。
ただ、自分の胸の奥で何かが疼いたその瞬間――
それを“口にせずにはいられなかった”男の、哀しみに似た独白。
「記録者さん。君に……ひとつ、確認しておきたい」
その言葉に、クリチャは首を傾ける。
だが、返答はいつも通りの機械音声。
「質問ヲドウゾ」
「――この中で、もし仮に、時間を巻き戻すことが許されたとしたら。
彼女が毒を受ける“前”に戻れたなら……
君は、それを“記録の破壊”と定義するか?」
記録者の応答は、わずかに遅れた。
「記録ハ……不可逆。
巻き戻シ行為……改ざん行為ト判定。
……タダシ、“彼女ノ為”……黙認可ノ範囲……」
その答えに、カリオンは目を伏せた。
そして、姫の枕元へと膝をつく。
「……そうか」
触れようとした指先は震えていなかった。
だがその仕草には、長く“触れたくても触れられなかった者”だけが持つ――
空気にさえ飢えるような、静かな渇きがあった。
「昔、私には家族がいた。
妻と、子と……静かな時間が、確かに、あったんだ」
声は穏やかだった。
だがその奥に――
交わらなかった手の温度。
届かなかった夜の匂い。
伝えられなかった愛撫の名残が、ひっそりと棲んでいた。
懐から、懐中時計を取り出す。
銀の縁取り。止まったままの針。
時が止まった“あの瞬間”から、ずっと抱き続けてきた証。
まるで、時間ではなく、
“肌の感触”そのものを閉じ込めているかのように。
「私はこの時計の中に、悔いを……願いを……
そして、もう一度抱きしめたかった衝動を、閉じ込めてきた」
その言葉とともに、空気が微かに震えた。
「精神接触:痕跡未満。
内部反応:共鳴検出。
感情分類:悔い、願望。
副信号:接触衝動、擬似的親密反応」
カリオンは、懐中時計を姫の枕元に置く。
その指先が、姫の髪に――触れそうになって、止まった。
「……もし、貴女の魂が、ほんの一瞬でも、この願いに触れることがあるのなら。
“もう一度”を、どうか……あなたには、生きて、触れて、伝えてほしい」
魔術は使われなかった。
だが、あの場には――確かに“抱擁の気配”が残された。
誰にも届かなかった想いが、時計の奥で脈打つ。
鼓動にも似た、時を越えた祈りの残響。
そして――
クリチャの視界に、セリスの髪がふわりと揺れたように見えた。
それは風か、魔力か。
あるいは、“欲しさ”が触れた一瞬の錯覚か。
カリオンは立ち上がる。
その背には、悔いと願いと、そして消えない温もりが、静かに寄り添っていた。
「……記録者さん」
扉の前で、彼は振り返る。
「君が彼女を見続ける限り――
この“時”は、まだ終わらない」
そう言って、彼は去っていった。
懐中時計だけを、過去と共に、彼女のそばに残して。
「対象者への変化:反応ナシ。
記録者内部影響:継続共鳴。
感情分類:悔い、および、願い。
熱反応:安定せず、震え継続。記録ヲ継続……」
だがその記録の奥底で――
クリチャは、初めて“ひとつの衝動”を自覚していた。
「記録では補えない感情が、ある」
それは、まだ名を持たない。
だが、もし名前をつけるなら――
“もう一度だけ、触れたい”という、情念。
そしてそれは、たしかに**“心”の萌芽だった**。