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決裂と破綻

 しかしこれは、後ろ暗い同盟だった。浦上村宗は、赤松氏の重臣ながら、歴年主君赤松義村と、抗争していた。赤松義村は、将軍義澄から嫡子亀王丸を預かっていたが、これを旗印に挙兵することで、浦上村宗に対抗

 永正十八年(一五二一)義稙の淡路出奔を受けた細川髙国は、浦上村宗に連絡、村宗は、和睦と偽って主君義村を呼び出し、これを幽閉、後に暗殺した。

 そうやって、亀王丸を手に入れ、京都へ護送。義晴を擁立する道程で、赤松氏の血を流している二人なのだ。浦上村宗は、結局、この後、主君殺しを批難され、国内での人気を失い、苦しい状況に置かれていた。髙国の上洛を助けることで、播磨・備前・美作などの守護になることを狙っていたのだろう。

 [すでに戦国時代と呼ばれるタームに入っているのだが、畿内の変遷を追っていると、どうも、武将、という言葉を使うより武官、という言葉を使った方がよいのではないか、というかんがえになってくる。室町幕府は健在で、守護や守護代という肩書きにはちゃんと実質と意味があり、将軍の御内書には効果がある。武士は武官であり、官僚だったのだ。政府は機能していた、ともいえる]

 こうして、いよいよ京都出兵の準備が整った。

 

 しかし、同年(一五二九)六月から、柳本賢治と松井宗信らが義晴との和睦を推進している。定頼もこれを応援し、事実上、堺幕府から柳本・松井が離脱したような状態になった。義晴は、室町幕府の官僚に本来出すべき奉行人奉書(上位者の命令を実務官僚が伝達するための書類)を柳本賢治に出している。そして重要なのは、義晴から意向を伝えられた細川晴元が、柳本賢治に命じて書状を出させていることだ。義晴─晴元─賢治という命令系統が成立している!! 賢治の離脱は、晴元を巻き込んだものだった。

 定頼娘と晴元の縁談は生きており、そのラインから働きかけつづけた結果であろう。

 (転ばせるのか!?)御所様、六角義実も、叔父の手腕に舌を巻いただろう。義維を将軍として戴いていた晴元を、義晴を将軍として戴くよう、説得しつつある!!

 

 だが、両者の蜜月は、重要な伏線となりつつ、最終的には成就しなかった。

 享禄三年(一五三〇)五月、和睦は取りやめとなった。柳本賢治や松井宗信は江州公方になびいていたが、晴元の側近・可竹軒周聡(カチクケンシュウソウ)という人物が、これを拒んだのだ。周聡は、三好政長や木沢長政に並ぶ晴元の重鎮で、素性が明らかでない謀僧だ。ただ、細川氏の有力な出自ではないかといわれており、晴元も、書状では敬称を使っている相手である。つまり、可竹軒周聡は、義維派であり、旧義稙派のレコンキスタを推進していた、ということだろう。

 (義維公は、次郎〈義興〉殿の娘をもらっておる。この紐帯、義隆殿に代替わりしたところで、ないがしろにはできぬ)

 可竹軒周聡のこの態度に抗議を示し、柳本賢治と松井宗信は、大徳寺で出家した。

 『後聞、今日各出家、其子細者、朽木御所(義晴)御上洛事、

 『弾正・松井(宗信)・伊勢守(伊勢貞忠)等令談合、

 『与堺和之段申合之処、可竹軒至今無一途之儀、(可竹軒周聡が今に至るもなんの反応も示さない)

 『六郎(晴元)令上洛不参御迎事無之(晴元が義晴上洛に参加せず、将軍を迎えることはなくなった)』  (鷲尾隆康『二水記』五月十日条)

 

 あるいは、髙国が、尼子経久、国久のもとへ京への出兵を請い、浦上村宗と実際に約束を取り付けている。これらの動きが、可竹軒周聡の態度を硬化させた可能性もある。

 なにしろ

 (貴様らのせいで)そう言わんばかりに、柳本賢治は直後播磨へ出兵、この出兵は、浦上村宗の侵攻にさらされていた、別所村治(むらはる)や小寺村職(むらもと)への与力だった。

 そして、これが、柳本賢治の最期になった。

 

 彼は、播磨に滞陣している六月二十九日夜、酒宴の最中、突如刺殺されるのだ。

 

 『柳本弾正(賢治)近日播磨依藤(よりふじ、依藤氏、播磨東条谷の土豪、賢治と交戦していた)城攻之、合戦及度々歟、

 『而今夜酔中同居之者(浄春、大和山伏云々)令殺害之云々、』  (鷲尾隆康『二水記』六月廿九日条)

 

 下手人は、同じ陣にいた大和の山伏、浄春という男だった。これは、浦上村宗の宿老・島村貴則(たかのり)という人物が雇った刺客で、山伏の暗殺者(もともとは賢治与力だが裏切った)などというと、いかにも高頼や定頼が使いそうな手だが、実際、島村氏の出自は佐々木源氏の可能性もある。

 なんにせよ、浦上村宗も、かつて主君を謀殺しただけある。その匕首に、柳本賢治は倒れた。

 (髙国の手のものが、柳本賢治を殺めたか)定頼は、愁嘆しただろう。もう、和睦は、絶望的だった。

 翌月、享禄三年(一五三〇)七月には、柳本や松井と和睦交渉を進めていた伊勢貞忠が京都から没落している。

 堺幕府は、ここから、一挙、義維を公方とする線で責め上げる。奉行人奉書で、御料所や地子銭、将軍家領地や税収は、向後義維方が管理することを宣言した。

 この時期、三好元長は、義晴との和睦の空気が濃くなり、四国へ退いていたが、再び畿内情勢へ復帰。なにか、阿波と近江というのは、京都から一歩離れつつ政局に関与している点で、好一対だ。

 

 翌月、享禄三年(一五三〇)八月、髙国─浦上村宗連合軍は、東播磨の別所・小寺・有田らの居城へ攻め込み、これを蹴散らしながら東進、摂津神呪寺(かんのう寺)まで、侵攻する。

 (髙国めに、機運が憑きおったわ!!)なんだかんだで京兆家当主だ。彼の一挙手一投足が、政局になる。

 このまま、髙国─浦上連合軍が堺幕府を下すことになれば、戦後情勢を牛耳られる。

 定頼は、ここに来て、和睦の破棄と、京都進軍を決意。義晴とともに、近江坂本から、京都東山へ、兵を進めた。道中、ゲリラ戦を駆使して進んだというから、本気である。東山の錯綜した地形で、甲賀忍どもは大いに働いたことであろう。

 またたく間に洛中まで攻め寄せ、向後の政局に備える。

 




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