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【第一章完結】その魔法、合法ですか? ―召喚事故から始まる未整備魔法立法補助録―  作者: 榎本モネ
第1条 召喚事故における責任の所在

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第9項 準備

 朝の研究棟は、いつもより静かだった。正確には、人はいる。廊下を行き交う足音も、遠くから聞こえる声も、確かにある。ただ、それらが一枚、薄い膜を隔てた向こう側にあるような気がして、めぐるは自分の足音だけがやけに大きく聞こえる気がした。


 執務室の扉を開けると、すでにレオンは席についていた。

 机の上に広げられているのは、昨日までの草案ではない。厚みのある束がいくつも積まれている。紙質も、綴じ方もばらばらだ。古い法令集、事故記録、手書きの補足が挟まった報告書。どれも、すぐに結論が出る類のものではない。


「……今日は、これを?」


 思わずそう口にすると、レオンは顔を上げずに頷いた。


「目を通せ」

「全部ですか」

「順に、だ」


 それだけ言って、再び書類に視線を落とす。

 めぐるは自分の席に座り、差し出された束を受け取った。持ち上げた瞬間、ずしりと重みが伝わる。内容の重さというより、物理的な重量だ。紙の量は、正直なところ嘘をつかない。

 ページをめくる。魔法事故の概要、関係者の証言、処理の経緯。すで

に聞いた話もあるが、文章として読むと、また違う。淡々と書かれている分、行間に残るものが多い。


 ふと、机の端に置いた小さな布包みに目がいった。昨夜、引き出しにしまったはずのものだ。朝、なぜか無意識に持ち出していた。


 認証具。


 触れたままにしておくのは落ち着かず、かといって完全にしまい込むのもためらわれる。結果として、机の隅という中途半端な場所に置かれている。

 布の上からでも、その存在感ははっきりしていた。光らない。音もしない。昨日と何も変わらない。なのに、視界の端にあるだけで、意識が引っ張られる。


「……」


 ページをめくる指が、少しだけ遅くなる。専門用語は相変わらず多い。理解できない箇所もある。だが、分からないまま読み飛ばすことに、以前ほど抵抗はなかった。今、求められているのは、全部を理解することではないと分かっている。


 それでも、気になる。この資料のどこが、削られる可能性があるのか。どの部分が、「例外」と言われるのか。

 文字を追いながら、自然とそんな視点で読んでいる自分に気づいて、めぐるは小さく息を吐いた。

 白玉が足元で丸くなり、尻尾を床に打ちつけている。ときどき、紙の擦れる音に反応して耳が動く。平常運転だ。少なくとも、白玉にとっては。


 レオンは相変わらず、こちらを見ない。机に向かい、黙々と何かを書き込んでいる。草案ではない。余白への書き込みや、資料同士を照合するような動きだ。


「……先生」


 呼びかけると、ペンが止まった。


「会合まで、これを読めばいいんですよね」

「読むだけでいい」

「まとめたりは」

「不要だ」


 即答だった。


「意見を言う場ではない」

「でも、質問はされるかもしれない、ですよね」

「ああ」


 短い肯定。


「答えられる範囲で答えろ。それ以上は、考えるな」


 考えるな、という言葉が意外だった。準備をしているのに、考えることは制限される。矛盾しているようで、でも、妙に納得がいく。


「……はい」


 それ以上、言葉は続かなかった。めぐるは再び資料に視線を落とす。紙の上の文字は変わらない。だが、読み手の立場だけが、少しずつ変わっている。


 昼前になっても、草案は一行も進まなかった。代わりに、資料の束が一つ、机の端から別の場所へ移されただけだ。

 レオンにとっては、これも「進んでいる」状態なのだろう。そう思うと、不思議と焦りは薄れた。ただ、落ち着かない。


 認証具に、もう一度視線をやる。相変わらず、何の反応もない。自分から見ても、ただの道具だ。だが、昨日の表示が、はっきりと記憶に残っている。


 ――区分:参考人。


 その文字が、資料の行間にちらつく。めぐるは、布包みをそっと引き寄せ、位置を少しだけ変えた。視界に入らない場所。それでも、完全には離せない距離。

 準備は、確かに始まっている。けれどそれは、何かを整えるというより、逃げ道を少しずつ塞がれていくような感覚だった。


 ページをめくる音が、やけに大きく響いた。



 研究区画の通路は、午前中に比べて少しだけざわついていた。講義を終えた学生と、資料を抱えた研究者が入り混じり、歩調も視線もばらばらだ。

 めぐるはその流れを避けるように、壁際を歩いていた。白玉はいつものように肩の上。人混みにはもう慣れたらしく、落ち着いた様子で耳だけを動かしている。


「……あ」


 不意に、聞き覚えのある声がした。


「やっぱり! 今日はいると思ったんだよね!」


 振り返ると、明るい色のローブを着た女子学生が、こちらに向かって手を振っていた。少し跳ねるような足取り。表情は相変わらず、何か面白いものを見つけたときのそれだ。


「メルルさん……ですよね」

「そうそう。覚えててくれたんだ」


 メルルは満足そうに頷きながら、めぐるの横に並ぶ。


「最近、研究区画うろうろしてるでしょ。見かける頻度が上がってるって、もう噂になってるよ」

「……噂になるほど、目立つことはしていないと思いますが」

「それがね、目立つんだよ。学生じゃない人が普通に歩いてるだけで」


 あっけらかんとした言い方だった。悪意はなく、ただ事実を楽しんでいるだけの声。

 メルルの視線が、めぐるの胸元にちらりと落ちる。ローブの内側に下げられた、小さな金属の板――認証具。


「それ、もらったんだ」

「……ええ」

「やっぱりね。昨日から、そうじゃないかって話してた人がいてさ」


 めぐるは一瞬、言葉に詰まる。まだ誰にも詳しく話していないはずだった。


「別に中身とかじゃないよ?持ってるってこと自体が、もうサインだから」


 メルルはすぐに付け加える。


「サイン?」

「“関係者です”ってやつ」


 メルルはくすっと笑った。


「委員会ってさ、秘密にしてるつもりでも、動く人の数が多いから。完全には隠れないんだよね」

「……学生の間で、そこまで話題になっているんですか」

「うん。だって珍しいもん」


 彼女は指を折りながら数え始める。


「外部から来て、研究区画を自由に歩いてて、しかも、レオン・ヴァーチェの周辺にいる」

「それは……」

「そりゃ、噂にもなるよ」


 断定ではない。ただ、当然の流れを語るような口調だった。

 白玉が小さく鳴く。メルルはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「その子も相変わらずだね」

「……ええ」

「前より落ち着いた感じする。居場所が定まった、って顔」


 めぐるは、思わず白玉を見る。確かに、最初の頃のような警戒心は薄れている気がした。


「でさ」


 メルルは声のトーンを軽く戻した。


「会合、近いんでしょ?」

「……どうして、それを」

「日にちまでは知らないよ?」


 肩をすくめる。


「でも、準備してる人たちの動きが変わってきてるから。資料室が混んでるし、教授陣の呼び出しも増えてるし」

「……」

「あと、それ」


 再び、認証具。


「直前に配るものじゃないからね。あれ」


 めぐるは小さく息を吐いた。隠していたつもりはなかったが、想像以上に周囲は見ている。


「緊張してる?」

「……少し」

「そっか」


 メルルは、どこか楽しそうに笑った。


「まあ、そうなるよね。初めてなら特に」

「あなたは……緊張しないんですか」

「しないしない」


 即答だった。


「だって私は出ないもん」

「……」

「噂を集める側だから」


 そう言って、胸を張る。


「でもね」


 一拍置いて、少しだけ声を落とす。


「出る人たちは、だいたい似た顔になるよ。直前」

「似た顔?」

「考えすぎて、でも投げ出せなくなった顔」


 めぐるは、その言葉を反芻する。


「悪い意味じゃないからね。そういう人の話、あとから聞くの、けっこう好きなんだ」

「……あなたらしいですね」

「でしょ?」


 満足げに笑って、手を振る。


「じゃ、私はこのへんで。噂の続き、集めなきゃ」

「ええ」

「当日、会えたらいいね」

「時間が合えば」

「合う合う。こういうの、絶対どっかで交差するから」


 そう言い残して、メルルは人の流れに紛れていった。

 めぐるはしばらく、その背中を見送り、胸元の認証具にそっと触れる。


「……もう、始まっているんだな」

「ヂヂ」


 白玉が短く鳴いた。

 否定でも肯定でもない、ただの同意のような声だった。



 メルルと別れてから、めぐるは研究区画の奥へと向かった。

 人の流れは徐々に薄れ、通路の天井が高くなる。壁面に埋め込まれた魔法灯は、一定の間隔で白い光を落としていた。


 ――準備。


 メルルの言葉が、頭の中で静かに反芻される。だが、考え込むほどの余白はない。今は、やるべきことがはっきりしていた。


 白玉が肩の上で体勢を変え、尻尾を巻き直す。このあたりまで来ると、人の視線もほとんど感じなくなった。めぐるは歩調を一定に保ったまま、前を見て進む。

 胸元に下げた認証具が、衣服越しにわずかな重みを主張している。薄い金属板に刻まれた紋様は、見る角度によって微かに印象を変えるが、文字も数値も表示されない。


 使用者を示すためだけの道具。役割は単純で、それ以上でも以下でもない。指先が一瞬だけ縁に触れたが、すぐに離した。気にする理由はない、と判断を切る。


 資料室の一角。臨時の準備室として使われている区画の前で足を止め、扉を押した。

 紙とインクの匂いが、室内から流れ出す。中では数人の研究補助員が、それぞれ作業に取り組んでいた。本を積み上げる者、索引札を整理する者。空気は静かだが、張りつめている。


「あ、藤宮さん」


 声をかけてきたのは、以前にも顔を合わせた女性補助員だった。


「こちら、頼まれていた分です」

「ありがとうございます」


 差し出されたのは、数冊の分厚い本だった。革表紙に手書きの背表題。年代も分野も統一されていない。


「六属性外魔法の事故記録、抜粋版です。全部ではありませんが」

「問題ありません」

「あ、あともう一点、お渡しするものがあるので、このままお待ちください」


 本を受け取ると、腕にずしりと重みが伝わる。改変の余地を残さないため、こうした資料はいまだ紙で保管されている――以前、レオンから聞いた説明を思い出す。

 白玉が本の山を覗き込み、小さく鳴いた。


「持つ気はないんだな」

「ヂ」


 即答だった。まあ、白玉に持てるはずがない。

 めぐるは小さく息を吐き、空いている机に本を置く。一冊を開くと、事故の経緯と処理結果が簡潔に並んでいた。


 原因不明。責任所在不明。補償未確定。


 記述は淡々としているが、行間に残されたものは明らかだった。めぐるはページを押さえたまま、視線を動かさない。


 委員会。会合。その前段階としての、この準備。

 ここに集められているのは結論ではない。判断に必要な材料が、ただ積まれているだけだ。


「藤宮さん」


 呼ばれて顔を上げる。


「こちらも、一緒にお願いします」


 差し出されたのは、薄い封筒だった。


「会合前の注意事項です」

「ありがとうございます」


 受け取った封筒には、わずかに魔力の感触があった。

 中には短い箇条書きが並んでいる。


・当日は個別発言を求められる可能性あり

・事前配布資料以外の持ち込みは禁止

・認証具は常時携帯すること


 三つ目の項目で、一瞬だけ視線が止まる。それ以上、考えを巡らせることはしなかった。白玉が封筒の端を覗き込み、首を傾げる。


「大丈夫だ」


 確認するように呟き、本を抱え直す。準備は進んでいる。それだけは確かだった。資料室を出ると、研究棟の外から差し込む光が廊下を照らしている。

 白玉が小さく鳴く。その重みを肩に感じながら、めぐるは背筋を自然と伸ばした。



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