第8項 名前が載る
執務室に入ると、いつもと同じ匂いがした。紙とインクと、微かに残る薬草の香り。それだけで、めぐるは少し肩の力が抜ける。昨夜のやり取りを思い返す余裕が、ようやくできた。
「……あの」
書類に目を落としたままのレオンに、声をかける。
「会合って、いつなんですか」
ペン先が、止まった。
「来週末だ」
「……来週?」
思わず声が裏返る。
「そんな急に……」
レオンは顔を上げないまま、淡々と言った。
「急ではない。日程自体は、三か月前には決まっている」
「え」
「まあ、初回は顔合わせと方向性の相談になる」
あまりに当然のような口調に、めぐるは一瞬、言葉を失った。三か月前。その頃の自分は、ここにすらいなかった。
「……じゃあ、それって」
めぐるは言いかけて、やめた。自分が口を挟める話ではないと、頭では分かっている。それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
レオンはようやく視線を上げ、めぐるを見る。
「同席の件だが」
来た、とめぐるは背筋を伸ばす。
「正式な発言権はない。記録も、お前名義では残らない」
「はい」
「質問された場合のみ、答えろ。余計な補足は不要だ」
「……分かりました」
ひとつひとつが、線を引くような言葉だった。だが、その線の引き方が、どこか慎重すぎる。
「ただ」
レオンは言葉を区切る。
「現場感覚を問われる可能性は高い。その点では、お前の視点は有用だ」
評価とも、免責とも取れる言い回しだった。めぐるは、少しだけ考えてから答えた。
「私、会合の空気とか、あまり分かってないですけど」
「だからだ」
即答だった。
「分かっていない者がどう見るかは、時に重要になる」
めぐるは、それ以上何も言えなかった。期待されているのかどうか。それを測る言葉は、どこにもなかった。
話が途切れたところで、白玉が足元を横切った。机の脚に前足をかけ、よじ登ろうとして――滑った。
ずる、と短い音がする。
レオンは無言で立ち上がり、白玉を抱き上げた。あまりにも自然な動作で、めぐるは一瞬、目を瞬かせる。
「……すみません」
なぜ謝ったのか、自分でも分からない。
「何がだ」
「いえ……」
言葉が続かない。白玉はレオンの腕の中で丸くなり、満足そうに喉を鳴らした。重たい話題の直後とは思えないほど、静かな音だった。レオンは白玉を床に降ろし、再び席に戻る。
「会合まで、時間はない」
「はい」
「だが、焦る必要もない」
それだけ言って、レオンは書類に視線を落とした。めぐるは一礼し、執務室を後にする。扉が閉まる直前、白玉が小さく鳴いた。
◇
その日の午後は、静かだった。レオンは相変わらず書類に向かっていたが、草案を書き進めている様子はない。代わりに広げられているのは、過去の記録や、既存の法令集だった。
めぐるはその横で、指示された資料を整理している。
「……これ、被害報告の分類、細かすぎませんか」
思わず口にすると、レオンがちらりと視線を寄こした。
「細かいからだ」
「?」
「会合では、そこを削ろうとする者が必ず出る」
淡々とした声。
「『例外だ』『頻度が低い』そう言ってな」
めぐるは、資料の一部に視線を落とす。小さな文字で書かれた、魔法事故の経緯。
どれも、軽くはない。
「……削られたら、どうなるんですか」
「制度から、こぼれる」
即答だった。それ以上の説明はない。だが、その一言で十分だった。めぐるは、資料を揃え直しながら言った。
「私、専門的な反論とかはできませんけど」
「それでいい」
「でも……」
言葉に詰まる。レオンはペンを置き、椅子にもたれた。
「会合で求められるのは、正解じゃない」
珍しく、少しだけ間を置く。
「『それを切ったとき、何が起きるか』それを想像できるかどうかだ」
めぐるは、はっとした。それは、自分が見てきたものだった。被害のあとに残る、名前のつかない不便さや、取りこぼされる声。
「だから」
レオンは、淡々と続ける。
「お前は、法案を説明しようとするな。“どう見えるか”だけ、見ていればいい」
「……見る、だけでいいんですか」
「ああ」
視線が、再び書類に戻る。
「それで十分だ」
めぐるは、胸の奥で何かが少し落ち着くのを感じた。役割を与えられた、というより、立ち位置を示された感覚に近い。
白玉が資料の端を鼻先でつついている。紙がわずかに揺れた。めぐるはそれを直しながら、静かに息を整える。会合は、来週末。まだ近いようで、遠い。
だが少なくとも――自分が、何を見るべき場所なのかは、少しだけ見えた気がした。
◇
夕方になると、研究棟の廊下は少し騒がしくなる。昼間は籠もっていた研究者たちが、それぞれの区切りをつけて外に出ていく時間帯だ。
めぐるが資料を棚に戻していると、向かいの部屋から聞き覚えのない声が漏れてきた。
「――で、今回はヴァーチェも来るんだろ」
扉は半開きだった。中にいたのは、レオンではない。年配の男と、若い女性の声。
「理論枠は外せないって判断でしょうね。ただ、本人は相変わらず委員会向きじゃないですけど」
軽い笑い声。めぐるは、手を止めた。レオンの名前が、こうして“第三者の会話”に自然に出てくること自体が、少し意外だった。
「現場側はどうだ?」
「今回は被害支援団体が強めです。この前の事故が、効いてますから」
そこで声は遠ざかる。足音が廊下の向こうへ消えていった。めぐるは、しばらくその場に立ったままになった。
委員会。理論枠。現場側。被害支援。言葉の断片だけで、会合の空気がぼんやりと立ち上がる。
――思っていたより、ずっと人が多い。そう感じた。
「聞いたか」
いつの間にか、レオンが後ろに立っていた。
「……少し」
「そうか」
それ以上、追及はない。レオンは廊下の方を一瞥し、低く言った。
「会合では、名前より立場が先に出る」
「立場」
「学者、実務者、現場責任者、それから――」
一拍。
「痛い目を見た側」
めぐるは、何も言えなかった。自分がどこに入るのか、考えるまでもない。
「だから、気負うな」
レオンの声は、相変わらず平坦だった。
「全員が、自分の役をやるだけだ」
「……先生も?」
「俺もだ」
即答だった。それが、少し意外だった。
天才魔法理論学者。委員会向きじゃない男。理論担当の一人にすぎない存在。その全部を、レオンは淡々と受け入れているように見えた。
足元で、白玉が小さく鳴く。廊下の人の流れに落ち着かず、めぐるの靴先にしがみついていた。めぐるはそれを拾い上げ、肩に乗せる。
「……会合、思ったより賑やかそうですね」
「静かに荒れる」
レオンはそう言って、外套の内側に手を入れる。取り出したのは、掌に収まる程度の小さな道具だった。
金属でも石でもない。表面は滑らかだが、光を反射しない。形は円盤に近く、縁にだけ、細い溝のような模様が刻まれている。模様は魔法陣というほどはっきりしておらず、視線を外すと、どんな形だったか思い出せなくなるような曖昧さがあった。
「これを持っていけ」
レオンはそれを、めぐるの方へ差し出した。
「……これは?」
問い返すと、レオンは少しだけ間を置いてから答えた。
「認証具だ」
「認証……?」
「委員会の会合に入るためのものだ。正確には、入れるかどうかを判定する道具だがな」
めぐるは受け取るのを一瞬ためらい、それから両手で受け取った。思ったより軽い。だが、軽すぎるわけでもない。中身が空洞という感じではなく、密度がある。
掌の上で、何かが微かに温度を持った。
「……動いてます?」
「お前に反応しているだけだ」
レオンは淡々と言う。
「これ自体に情報は入っていない。読むものでも、記録するものでもない」
「じゃあ……」
「資格を見るだけだ。関係者かどうかをな」
資格、という言葉に、めぐるは思わず視線を落とした。認証具は、今は何の光も音も発していない。ただ、そこにある。
「持っていれば、通す」
「持っていなければ?」
「通さない。それだけだ」
あまりにも単純な言い方だった。
「……私、委員じゃないですよね」
「知っている」
レオンは即答した。
「だが、呼ばれた」
「それだけで?」
「それだけで十分だ」
それ以上の説明はなかった。任命でも、期待でも、評価でもない。ただの事実として置かれる。
めぐるは認証具を握り直し、ポケットにしまった。布越しでも、そこにある感触がはっきり分かる。
「失くすな」
「はい」
「壊すな」
「はい」
「勝手に使うな」
「……はい」
三つ目で、少しだけ間が空いた。レオンはそれに気づいたのか、気づいていないのか、視線を前に戻す。
「会合までに、目を通すものは多い」
「……紙ですよね」
「当然だ」
その返答に、なぜか少しだけ安心する自分がいた。めぐるは、ポケットの中の認証具に触れながら、黙ってその背中を追った。
◇
部屋に戻ると、白玉はすぐに床へ飛び降りた。慣れた動きで一周し、問題なしと判断したのか、今度は窓際へ向かう。夕暮れの光が、ガラス越しに差し込んでいる。
めぐるは椅子に腰を下ろし、外を眺めた。遠くで、研究棟の灯りが一つ、また一つと点いていく。今日も、何事もなく終わった一日――そう言っていいはずだった。
「……はあ」
小さく息を吐き、めぐるはポケットから例のものを取り出す。認証具を机の上に置くと、昼間見たときと変わらない。光らない。音もしない。ただ、そこにあるだけだ。
――本当に、これで入れるのか?疑問が浮かんだ、その瞬間だった。
認証具の縁に刻まれていた溝が、ふっと淡く浮かび上がる。光というより、影が反転したような輪郭。空気の層がずれる感覚に近い。
「……え?」
めぐるが身を乗り出すと、認証具の上に、何もない空間から文字が滲み出た。
紙でも、光板でもない。空中に、魔法で“示されている”としか言いようのない表示。
整然と並ぶ、名前の列。肩書き。所属。役割。
――委員会構成員一覧。学者。実務者。現場責任者。被害者支援。監査役。知らない名前ばかりだが、その数だけで、これが個人の集まりではないことが分かる。
そして、少し下。めぐるは、無意識に息を止めた。
藤宮めぐる
区分:参考人
出席区分:分科会限定
「……」
声が出なかった。名前の横に、何の説明もない。推薦理由も、期待も、注意書きもない。ただ、配置として、そこにある。
白玉が棚の上から身を起こし、こちらを見た。認証具に視線を向け、きゅ、と小さく鳴く。
「……これ、見えてる?」
問いかけると、白玉は首を傾げただけだった。どうやら、見えているのは自分だけらしい。表示は、数秒後、静かに薄れていった。何事もなかったかのように、認証具は元の無言の道具に戻る。
めぐるは、しばらく動けずにいた。重要人物だとか、そういう言葉は、どこにもない。ただ、「そこに座る席がある」と示されただけ。
それなのに。
「……来週末、か」
思わず、呟く。遠い話だと思っていた制度の中に、自分の名前がある。しかも、もう、決まっている。
机の端で、白玉が再び丸くなった。その背を見ながら、めぐるは認証具をそっと布で包み、引き出しにしまう。重いわけじゃない。だが、軽く扱っていいものでもない。
灯りを落とす前、めぐるはもう一度だけ、その引き出しに目をやった。
――今日は、進まない日だった。だが、確かに一歩、進んでしまった気がする。そんな予感が、静かに残っていた。




