第7項 研究棟の外で
その日は、拍子抜けするほどあっさり始まった。
研究棟の廊下を歩きながら、めぐるは無意識に昨日の続きを想定していた。条文の修正、言葉の定義、責任の線引き。頭の中には、まだ整理しきれない違和感がいくつも残っている。今日もそれを掘り返すのだろう、そう思っていた。
だが、扉を開けた瞬間に、前提が崩れた。
「今日はやらない」
レオンは机に向かったまま、顔も上げずに言った。
「……はい?」
思わず、間の抜けた声が出る。白玉が肩の上で、きゅ、と小さく鳴いた。いつものように、状況を察したのか、それとも単に眠いのか、判断はつかない。
「草案作業だ。今日は止める」
レオンは書類を一枚まとめ、端にずらす。その仕草は迷いがなく、すでに決定事項であることを示していた。
「えっと……何か、問題がありましたか?」
「問題しかない。だから、今はいじらない」
即答だった。めぐるは一瞬、言葉に詰まる。昨日、あれだけ話した。違和感も、恐怖も、整理できない感情も、全部さらけ出したつもりだった。なのに、もう止めるのか。そういうものなのか。
だが、レオンの口調には、切り捨てるような響きはなかった。ただ、事務的で、少しだけ疲れている。
「一度、寝かせる」
「……寝かせる?」
「煮詰める前に放置する。よくある手だ」
レオンはようやく椅子から立ち上がり、めぐるの方を見た。その視線は鋭いが、昨日ほど張り詰めてはいない。
「今いじると、視野が狭くなる。理論も、運用も、感情もな」
白玉がぴょこんと机に跳び移り、積まれた書類の端に前足を乗せた。紙がわずかにずれる。それを見て、レオンは一瞬だけ眉をひそめ、だが何も言わなかった。
「……じゃあ、今日は何を?」
「何もしない」
「本当に?」
「本当にだ」
めぐるは、少し困ったように息を吐いた。何もしない、と言われると、それはそれで落ち着かない。昨日まで、頭をフル回転させていたせいだろう。
「草案って……そんなに間を置くものなんですか?」
「草案作りに限らず、一度置かないものは、だいたい失敗する」
レオンは短く言い、机の引き出しから別の紙束を取り出した。そこには、めぐるが見覚えのない筆跡が混じっている。
「これは?」
「他の連中が書いたものだ」
その一言で、めぐるはようやく気づいた。
「……あれ、もしかして」
言いかけた言葉を、レオンが先に拾う。
「俺だけが書いていると思ったか?」
めぐるは、正直にうなずいた。
「……少なくとも、中心はレオン先生だと」
「中心ではあるが、唯一ではない」
レオンは紙束を軽く叩き、整えた。
「あれは“叩き台”だ。君と話していた草案もな」
「じゃあ……」
「最終的にどうなるかは、もっと後だ。揉まれる。削られる。書き換えられる」
淡々とした言葉だったが、その裏には、当たり前のように受け入れている現実があった。
めぐるは、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。昨日の議論が、そのまま法になるわけではない。それは、安堵でもあり、同時に、別の重みでもあった。
「魔法法制は、委員会制だ」
レオンはそう言って、紙束を棚に戻す。
「学者だけじゃない。実務屋もいる。現場責任者も、事故対応の部署も、被害者支援の連中もな」
「……結構、多いですね」
「多い。だから遅い」
レオンは苦笑に近い息を吐いた。
「だが、一人で決めるよりは、マシだ」
白玉が、書類棚の前でふらりとよろけ、慌てて尾の膜を広げた。落ちるほどではないが、不安定だ。レオンは反射的に手を伸ばし、白玉の体を軽く支えた。
「……」
そのまま、何事もなかったように手を引っ込める。
「委員会って、面倒そうですね」
「面倒だ」
即答だった。
「意見は割れる。立場で話す。理屈より感情が出ることもある」
「それでも、やるんですか」
「やらないと、歪む」
短い言葉だったが、そこには迷いがなかった。
「理論だけで決めると、現場が死ぬ。現場だけで決めると、理屈が崩れる。どちらかに寄ると、必ず誰かが落ちる」
めぐるは、その言葉を黙って聞いていた。昨日、自分が感じた「遠さ」が、別の角度から説明された気がした。
「俺は、理論担当の一人だ」
レオンはそう付け加える。
「それ以上でも、それ以下でもない」
「……じゃあ、私たちが作ってるものは」
「候補の一つだ」
それだけだった。重くも、軽くもない。期待も、突き放しもない。ただの事実。
白玉が、今度はレオンの袖口をちょいちょいと引いた。意味があるのかどうかは分からないが、レオンはそれを見下ろし、小さく息を吐いた。
「今日は、進まない日だ」
もう一度、そう言ってから、視線をめぐるに戻す。
「だから、外に出る」
「……外?」
「飯だ。頭を使う前に、胃を使え」
めぐるは、一瞬遅れて、頷いた。
◇
研究棟を出ると、空気が少しだけ変わった。
石造りの建物に囲まれた敷地を抜けると、音が増える。人の声、鍋をかき混ぜる音、どこかで鳴る鈴。昼と夜の境目の時間帯らしく、露店通りはほどよく賑わっていた。
「……思ったより、ちゃんとしてますね」
めぐるがそう言うと、レオンは「まあな」と短く返した。
露店は雑然としているが、無秩序ではない。通りの中央を避けるように配置され、魔法灯が等間隔で吊られている。湯気の立つ鍋、焼き物の匂い、甘い香草の香りが混じり合って、腹を刺激する。
白玉はめぐるの肩から飛び降り、地面すれすれをふわりと漂った。露店の人間たちは、ちらりと視線を向けるが、驚く様子はない。見慣れている、というより、そういう存在がいてもおかしくない場所なのだろう。
「白玉、蹴られるぞ」
レオンが言うと、白玉はわざとらしく少し高度を下げ、めぐるの足元に寄ってきた。通りを歩く人の足に踏まれない程度に、絶妙な位置取りだ。慣れている。
「……可愛いですね」
「そうか?」
白玉は、湯気の立つ鍋をじっと見つめている。鼻先を近づけすぎて、ぴくっと後ずさった。熱いらしい。レオンは一軒の露店の前で足を止めた。
「ここだ」
大鍋に入ったスープが、静かに煮えている。具材は根菜と肉、香草が中心で、見た目は素朴だ。だが、鍋の縁には魔法陣が刻まれている。
お金を払って器を手に取ると、スープは熱すぎず、ぬるくもない。魔法が切れない限り、温度は変わらない。供給が止まると文句が出る、あの手のやつだ。
近くの簡易テーブルに腰を下ろす。白玉は、めぐるの膝の上にちょこんと乗った。器の中を覗き込み、興味深そうに尾の膜を揺らす。
「……食べる?」
冗談半分で聞くと、白玉は「ヂ」と鳴いて首を振った。食べないらしい。めぐるはスープを一口飲む。素朴だが、体に染みる味だ。
「おいしいですね」
「腹に溜まる」
レオンはそれ以上言わず、黙々と食べ始めた。だが、よく見ると、動きがどこかぎこちない。食べる速度が妙に早く、噛んでいるのかどうか分からない。
「……先生、普段、ちゃんと食事してます?」
唐突な問いに、レオンの手が一瞬止まった。
「必要な分は摂っている」
「それ、“ちゃんと”とは違う気がします」
レオンは返事をせず、スープを飲み干した。器を置く。
「時間がない」
「草案を作っているからですか?」
「それもある」
少し間を置いて、続ける。
「だが、基本的に興味がない」
「食事に?」
「生活全般に」
めぐるは、思わず苦笑した。
「……それ、結構まずいと思います」
「死なない」
「基準が低い」
白玉が、レオンの器の縁に前足をかけ、ぴょんと飛び移ろうとして、めぐるに止められた。
「熱いからダメ」
白玉は不満そうに鳴き、再び膝に戻る。
「私の世界だと、食事はもっと……雑でも、ちゃんとする人はします」
「矛盾しているな」
「そういうものです」
めぐるは肩をすくめた。
「忙しくても、コンビニで買うとか、誰かと食べるとか。そういう“普通”があります」
「普通、か」
レオンは少しだけ考えるような間を置いた。
「俺の普通は、研究室に籠ることだ」
「生活感がないですね」
「よく言われる」
否定はしなかった。
しばらく、二人は無言で通りを眺めていた。人の流れ、立ち止まる影、笑い声。白玉はそれらを目で追い、時折、尻尾を揺らす。
「委員会は嫌いだ」
不意に、レオンが言った。
「……ですよね」
めぐるは即座に同意する。
「面倒だし、時間も取られる」
「それでも、やるんですよね」
「必要だからな」
レオンは通りの先を見つめたまま、続ける。
「一人で決めると、歪む。俺は理論に寄りすぎる」
「自覚はあるんですね」
「あるから、嫌いなんだ」
めぐるは、少し意外に思った。レオンは、自分を過信するタイプだと思っていたからだ。
「……私、昨日、言いすぎましたか?」
「いや」
即答だった。
「君の視点は、委員会に出しておく価値がある」
褒めるでもなく、慰めるでもない。事実として置かれた言葉。
「被害者代表に近い。だが、感情だけではない。完全な当事者でもない」
「中途半端ですね」
「だからいい」
レオンは、ようやくめぐるの方を見た。
「委員会は、極端を嫌う。理論家、現場、被害者支援……どれも、自分の正しさを信じている。その間に立つ視点が必要だ」
白玉が、めぐるの膝の上で身じろぎした。めぐるは無意識に、その背を撫でる。
「……私、専門家じゃないですよ」
「知っている」
「条文も、きれいに書けません」
「それでも、だ」
レオンは器を片付け、立ち上がった。
「今日は進まない日だ。だが、無駄ではない」
めぐるは、その背中を見上げる。
職場の上司、研究者、理論家。そういう肩書きの向こうに、ようやく、少しだけ人間が見えた気がした。
◇
露店通りを抜け、研究棟へ戻る道は静かだった。夕方に近い光が、建物の影を少しだけ長くしている。
めぐるは、さっきまでの会話を頭の中で反芻していた。制度。委員会。叩き台。どれも理解できたようで、どこか実感が追いつかない。
けれど――自分が、そこに関わる前提で話されていた事実だけが、妙に胸に残っていた。
レオンは歩きながら、外套のポケットに手を入れている。いつもと同じ、前を向いたままの姿勢。だが、さっきの食事の後から、どこか足取りが落ち着いているようにも見える。
先に声を出したのは、レオンだった。
「草案がどうなるかは、分からない」
唐突で、前置きのない言葉だった。めぐるは反射的に顔を上げる。
「委員会に出れば、削られる。書き直される。場合によっては、原型がなくなる」
淡々とした口調。だが、それは突き放すための言葉ではなかった。
「俺が書いたから通る、というものでもない」
「……はい」
めぐるは短く答えた。それは、もう理解している前提だった。
レオンは一拍置き、続ける。
「それでも、次の会合には、お前も同席させる」
めぐるの足が止まりかけた。
「え?」
思わず、声が裏返る。頭が追いつかない。助手として書類を整える、ではない。記録係、でもない。ましてや、見学でもない。
「委員会に?」
「正確には、草案検討の分科会だ」
レオンは振り返らない。
「被害者側の視点として、話を聞かれる」
「……私が?」
「他に適任はいない」
即答だった。褒めるでもなく、評価を語るでもなく、ただ「配置」の話として告げられる。それが逆に、現実味を持って胸に落ちた。
「草案作りは、俺の仕事だ」
レオンは続ける。
「だが、制度は一人で作るものじゃない」
その言葉は、どこか自分自身に向けられているようにも聞こえた。
「お前は、そこにいるだけでいい。意見を言わなくてもいい。だが、黙って聞いて、覚えていろ」
めぐるは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「……はい」
今度の返事は、さっきよりもはっきりしていた。
レオンはそれ以上、何も言わなかった。だが、歩調は自然と、めぐるに合わせられていた。その変化を、めぐるは見逃さなかった。
研究棟の前に着いたとき、白玉が小さく跳ねた。
「ヂ」
露店通りで人が多かったせいか、少し落ち着かない様子だ。めぐるの肩から、ぴょん、と跳び上がり――
「……あ」
レオンの外套を目指したらしいが、距離を誤った。白玉の身体が、空中でバランスを崩す。
次の瞬間、手が伸びていた。掴む、というより、受け止める。落ちる軌道に、手のひらを差し出しただけ。
白玉はそのまま、レオンの手の中に収まった。
「ヂュ……」
小さく鳴いて、白玉はきょとんとする。レオンは、数秒そのまま固まり――何事もなかったように、そっと白玉を下ろした。
「……無茶するな」
誰に言ったのか分からない声。白玉は満足そうに、床に着地する。
「ヂヂ」
めぐるは、思わず小さく息を吐いた。
言葉はない。説明も、照れも、ない。だが、確かにそこには――理屈ではない反射と、温度があった。研究棟の扉が開き、いつもの静けさが戻る。
重い話の後の、ほんの一瞬の間。めぐるは、その余韻を胸にしまいながら、何も言わずに、レオンの後を追った。




