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【第一章完結】その魔法、合法ですか? ―召喚事故から始まる未整備魔法立法補助録―  作者: 榎本モネ
第1条 召喚事故における責任の所在

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第7項 研究棟の外で


 その日は、拍子抜けするほどあっさり始まった。


 研究棟の廊下を歩きながら、めぐるは無意識に昨日の続きを想定していた。条文の修正、言葉の定義、責任の線引き。頭の中には、まだ整理しきれない違和感がいくつも残っている。今日もそれを掘り返すのだろう、そう思っていた。


 だが、扉を開けた瞬間に、前提が崩れた。


「今日はやらない」


 レオンは机に向かったまま、顔も上げずに言った。


「……はい?」


 思わず、間の抜けた声が出る。白玉が肩の上で、きゅ、と小さく鳴いた。いつものように、状況を察したのか、それとも単に眠いのか、判断はつかない。


「草案作業だ。今日は止める」


 レオンは書類を一枚まとめ、端にずらす。その仕草は迷いがなく、すでに決定事項であることを示していた。


「えっと……何か、問題がありましたか?」

「問題しかない。だから、今はいじらない」


 即答だった。めぐるは一瞬、言葉に詰まる。昨日、あれだけ話した。違和感も、恐怖も、整理できない感情も、全部さらけ出したつもりだった。なのに、もう止めるのか。そういうものなのか。

 だが、レオンの口調には、切り捨てるような響きはなかった。ただ、事務的で、少しだけ疲れている。


「一度、寝かせる」

「……寝かせる?」

「煮詰める前に放置する。よくある手だ」


 レオンはようやく椅子から立ち上がり、めぐるの方を見た。その視線は鋭いが、昨日ほど張り詰めてはいない。


「今いじると、視野が狭くなる。理論も、運用も、感情もな」


 白玉がぴょこんと机に跳び移り、積まれた書類の端に前足を乗せた。紙がわずかにずれる。それを見て、レオンは一瞬だけ眉をひそめ、だが何も言わなかった。


「……じゃあ、今日は何を?」

「何もしない」

「本当に?」

「本当にだ」


 めぐるは、少し困ったように息を吐いた。何もしない、と言われると、それはそれで落ち着かない。昨日まで、頭をフル回転させていたせいだろう。


「草案って……そんなに間を置くものなんですか?」

「草案作りに限らず、一度置かないものは、だいたい失敗する」


 レオンは短く言い、机の引き出しから別の紙束を取り出した。そこには、めぐるが見覚えのない筆跡が混じっている。


「これは?」

「他の連中が書いたものだ」


 その一言で、めぐるはようやく気づいた。


「……あれ、もしかして」


 言いかけた言葉を、レオンが先に拾う。


「俺だけが書いていると思ったか?」


 めぐるは、正直にうなずいた。


「……少なくとも、中心はレオン先生だと」

「中心ではあるが、唯一ではない」


 レオンは紙束を軽く叩き、整えた。


「あれは“叩き台”だ。君と話していた草案もな」

「じゃあ……」

「最終的にどうなるかは、もっと後だ。揉まれる。削られる。書き換えられる」


 淡々とした言葉だったが、その裏には、当たり前のように受け入れている現実があった。


 めぐるは、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。昨日の議論が、そのまま法になるわけではない。それは、安堵でもあり、同時に、別の重みでもあった。


「魔法法制は、委員会制だ」


 レオンはそう言って、紙束を棚に戻す。


「学者だけじゃない。実務屋もいる。現場責任者も、事故対応の部署も、被害者支援の連中もな」

「……結構、多いですね」

「多い。だから遅い」


 レオンは苦笑に近い息を吐いた。


「だが、一人で決めるよりは、マシだ」


 白玉が、書類棚の前でふらりとよろけ、慌てて尾の膜を広げた。落ちるほどではないが、不安定だ。レオンは反射的に手を伸ばし、白玉の体を軽く支えた。


「……」


 そのまま、何事もなかったように手を引っ込める。


「委員会って、面倒そうですね」

「面倒だ」


 即答だった。


「意見は割れる。立場で話す。理屈より感情が出ることもある」

「それでも、やるんですか」

「やらないと、歪む」


 短い言葉だったが、そこには迷いがなかった。


「理論だけで決めると、現場が死ぬ。現場だけで決めると、理屈が崩れる。どちらかに寄ると、必ず誰かが落ちる」


 めぐるは、その言葉を黙って聞いていた。昨日、自分が感じた「遠さ」が、別の角度から説明された気がした。


「俺は、理論担当の一人だ」


 レオンはそう付け加える。


「それ以上でも、それ以下でもない」

「……じゃあ、私たちが作ってるものは」

「候補の一つだ」


 それだけだった。重くも、軽くもない。期待も、突き放しもない。ただの事実。

 白玉が、今度はレオンの袖口をちょいちょいと引いた。意味があるのかどうかは分からないが、レオンはそれを見下ろし、小さく息を吐いた。


「今日は、進まない日だ」


 もう一度、そう言ってから、視線をめぐるに戻す。


「だから、外に出る」

「……外?」

「飯だ。頭を使う前に、胃を使え」


 めぐるは、一瞬遅れて、頷いた。



 研究棟を出ると、空気が少しだけ変わった。

 石造りの建物に囲まれた敷地を抜けると、音が増える。人の声、鍋をかき混ぜる音、どこかで鳴る鈴。昼と夜の境目の時間帯らしく、露店通りはほどよく賑わっていた。


「……思ったより、ちゃんとしてますね」


 めぐるがそう言うと、レオンは「まあな」と短く返した。


 露店は雑然としているが、無秩序ではない。通りの中央を避けるように配置され、魔法灯が等間隔で吊られている。湯気の立つ鍋、焼き物の匂い、甘い香草の香りが混じり合って、腹を刺激する。

 白玉はめぐるの肩から飛び降り、地面すれすれをふわりと漂った。露店の人間たちは、ちらりと視線を向けるが、驚く様子はない。見慣れている、というより、そういう存在がいてもおかしくない場所なのだろう。


「白玉、蹴られるぞ」


 レオンが言うと、白玉はわざとらしく少し高度を下げ、めぐるの足元に寄ってきた。通りを歩く人の足に踏まれない程度に、絶妙な位置取りだ。慣れている。


「……可愛いですね」

「そうか?」


 白玉は、湯気の立つ鍋をじっと見つめている。鼻先を近づけすぎて、ぴくっと後ずさった。熱いらしい。レオンは一軒の露店の前で足を止めた。


「ここだ」


 大鍋に入ったスープが、静かに煮えている。具材は根菜と肉、香草が中心で、見た目は素朴だ。だが、鍋の縁には魔法陣が刻まれている。

 お金を払って器を手に取ると、スープは熱すぎず、ぬるくもない。魔法が切れない限り、温度は変わらない。供給が止まると文句が出る、あの手のやつだ。

 近くの簡易テーブルに腰を下ろす。白玉は、めぐるの膝の上にちょこんと乗った。器の中を覗き込み、興味深そうに尾の膜を揺らす。


「……食べる?」


 冗談半分で聞くと、白玉は「ヂ」と鳴いて首を振った。食べないらしい。めぐるはスープを一口飲む。素朴だが、体に染みる味だ。


「おいしいですね」

「腹に溜まる」


 レオンはそれ以上言わず、黙々と食べ始めた。だが、よく見ると、動きがどこかぎこちない。食べる速度が妙に早く、噛んでいるのかどうか分からない。


「……先生、普段、ちゃんと食事してます?」


 唐突な問いに、レオンの手が一瞬止まった。


「必要な分は摂っている」

「それ、“ちゃんと”とは違う気がします」


 レオンは返事をせず、スープを飲み干した。器を置く。


「時間がない」

「草案を作っているからですか?」

「それもある」


 少し間を置いて、続ける。


「だが、基本的に興味がない」

「食事に?」

「生活全般に」


 めぐるは、思わず苦笑した。


「……それ、結構まずいと思います」

「死なない」

「基準が低い」


 白玉が、レオンの器の縁に前足をかけ、ぴょんと飛び移ろうとして、めぐるに止められた。


「熱いからダメ」


 白玉は不満そうに鳴き、再び膝に戻る。


「私の世界だと、食事はもっと……雑でも、ちゃんとする人はします」

「矛盾しているな」

「そういうものです」


 めぐるは肩をすくめた。


「忙しくても、コンビニで買うとか、誰かと食べるとか。そういう“普通”があります」

「普通、か」


 レオンは少しだけ考えるような間を置いた。


「俺の普通は、研究室に籠ることだ」

「生活感がないですね」

「よく言われる」


 否定はしなかった。

 しばらく、二人は無言で通りを眺めていた。人の流れ、立ち止まる影、笑い声。白玉はそれらを目で追い、時折、尻尾を揺らす。


「委員会は嫌いだ」


 不意に、レオンが言った。


「……ですよね」


 めぐるは即座に同意する。


「面倒だし、時間も取られる」

「それでも、やるんですよね」

「必要だからな」


 レオンは通りの先を見つめたまま、続ける。


「一人で決めると、歪む。俺は理論に寄りすぎる」

「自覚はあるんですね」

「あるから、嫌いなんだ」


 めぐるは、少し意外に思った。レオンは、自分を過信するタイプだと思っていたからだ。


「……私、昨日、言いすぎましたか?」

「いや」


 即答だった。


「君の視点は、委員会に出しておく価値がある」


 褒めるでもなく、慰めるでもない。事実として置かれた言葉。


「被害者代表に近い。だが、感情だけではない。完全な当事者でもない」

「中途半端ですね」

「だからいい」


 レオンは、ようやくめぐるの方を見た。


「委員会は、極端を嫌う。理論家、現場、被害者支援……どれも、自分の正しさを信じている。その間に立つ視点が必要だ」


 白玉が、めぐるの膝の上で身じろぎした。めぐるは無意識に、その背を撫でる。


「……私、専門家じゃないですよ」

「知っている」

「条文も、きれいに書けません」

「それでも、だ」


 レオンは器を片付け、立ち上がった。


「今日は進まない日だ。だが、無駄ではない」


 めぐるは、その背中を見上げる。

 職場の上司、研究者、理論家。そういう肩書きの向こうに、ようやく、少しだけ人間が見えた気がした。



 露店通りを抜け、研究棟へ戻る道は静かだった。夕方に近い光が、建物の影を少しだけ長くしている。

 めぐるは、さっきまでの会話を頭の中で反芻していた。制度。委員会。叩き台。どれも理解できたようで、どこか実感が追いつかない。

 けれど――自分が、そこに関わる前提で話されていた事実だけが、妙に胸に残っていた。

 レオンは歩きながら、外套のポケットに手を入れている。いつもと同じ、前を向いたままの姿勢。だが、さっきの食事の後から、どこか足取りが落ち着いているようにも見える。

 先に声を出したのは、レオンだった。


「草案がどうなるかは、分からない」


 唐突で、前置きのない言葉だった。めぐるは反射的に顔を上げる。


「委員会に出れば、削られる。書き直される。場合によっては、原型がなくなる」


 淡々とした口調。だが、それは突き放すための言葉ではなかった。


「俺が書いたから通る、というものでもない」

「……はい」


 めぐるは短く答えた。それは、もう理解している前提だった。

 レオンは一拍置き、続ける。


「それでも、次の会合には、お前も同席させる」


 めぐるの足が止まりかけた。


「え?」


 思わず、声が裏返る。頭が追いつかない。助手として書類を整える、ではない。記録係、でもない。ましてや、見学でもない。


「委員会に?」

「正確には、草案検討の分科会だ」


 レオンは振り返らない。


「被害者側の視点として、話を聞かれる」

「……私が?」

「他に適任はいない」


 即答だった。褒めるでもなく、評価を語るでもなく、ただ「配置」の話として告げられる。それが逆に、現実味を持って胸に落ちた。


「草案作りは、俺の仕事だ」


 レオンは続ける。


「だが、制度は一人で作るものじゃない」


 その言葉は、どこか自分自身に向けられているようにも聞こえた。


「お前は、そこにいるだけでいい。意見を言わなくてもいい。だが、黙って聞いて、覚えていろ」


 めぐるは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


「……はい」


 今度の返事は、さっきよりもはっきりしていた。

 レオンはそれ以上、何も言わなかった。だが、歩調は自然と、めぐるに合わせられていた。その変化を、めぐるは見逃さなかった。

 研究棟の前に着いたとき、白玉が小さく跳ねた。


「ヂ」


 露店通りで人が多かったせいか、少し落ち着かない様子だ。めぐるの肩から、ぴょん、と跳び上がり――


「……あ」


 レオンの外套を目指したらしいが、距離を誤った。白玉の身体が、空中でバランスを崩す。

 次の瞬間、手が伸びていた。掴む、というより、受け止める。落ちる軌道に、手のひらを差し出しただけ。

 白玉はそのまま、レオンの手の中に収まった。


「ヂュ……」


 小さく鳴いて、白玉はきょとんとする。レオンは、数秒そのまま固まり――何事もなかったように、そっと白玉を下ろした。


「……無茶するな」


 誰に言ったのか分からない声。白玉は満足そうに、床に着地する。


「ヂヂ」


 めぐるは、思わず小さく息を吐いた。

 言葉はない。説明も、照れも、ない。だが、確かにそこには――理屈ではない反射と、温度があった。研究棟の扉が開き、いつもの静けさが戻る。

 重い話の後の、ほんの一瞬の間。めぐるは、その余韻を胸にしまいながら、何も言わずに、レオンの後を追った。

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