第3項 魔法が日常の世界
目が覚めたとき、まず感じたのは、音だった。
遠くで金属が擦れるような音。規則正しい足音。どこかで弦を弾くような、微かな振動。それらが、重なり合いながら、ゆっくりと意識を現実へと引き戻していく。
――ここは、どこ。
問いは浮かんだが、昨日の出来事が、すぐに答えを押し出してきた。異世界。魔法。法律。宿題。思い出した瞬間、頭が重くなる。
「……はあ」
ため息をつきながら、めぐるは上半身を起こした。ベッドは固めだが、不思議と身体は痛くない。寝具の質が良いのか、それとも疲労が限界を超えていたのか。
「……おはよう」
袖口が、もぞりと動いた。白い塊が、ゆっくりと顔を出す。丸い頭。黒い瞳。ひくりと動く小さな鼻。白玉だった。
めぐるが声をかけると、白玉は一瞬きょとんとしたあと、ぴょん、と袖の中から飛び出してくる。軽い。思っていた以上に軽い。机の上に着地し、尾をふわりと広げてバランスを取る。置いてあったペン立てが、かたん、と小さく揺れた。
「……ほんとに、いるんだよな」
昨日は、流れに飲み込まれていた。考える暇も、噛み締める余裕もなかった。
白玉は、机の端をとことこと歩き、めぐるのほうを見る。じっと。まっすぐに。言葉はない。だが、その視線には、確かに「意志」があった。
「……とりあえず、着替えるか」
誰に言うでもなく呟き、めぐるは立ち上がった。
◇
学内は、朝から動いていた。
廊下には人の流れがあり、制服姿の学生、白衣の研究者、事務服の職員が、当たり前のように行き交っている。魔法具を手にした者もいれば、紙束を抱えた者もいる。
めぐるは、その流れの端を歩きながら、昨日よりも少しだけ、周囲を見る余裕を持っていた。
天井が高い。採光は魔法陣によるものらしく、太陽の位置に関係なく、柔らかい光が保たれている。壁には、用途不明の紋様が刻まれているが、装飾というより、機能の名残のようにも見えた。
(……大学、だよな。やっぱり)
研究機関。教育施設。だが、日本の大学と決定的に違うのは、魔法が「前提」になっている点だった。
掲示板には、講義予定と並んで、
――魔法具使用時の注意
――研究魔法申請手続き
――魔力過剰反応の報告義務
といった張り紙が並んでいる。掲示板を眺めているめぐるの後ろを、通りすがりの学生が、ぼそぼそと話しながら追い抜いていった。
「昨日の研究棟、また封鎖だって」
「魔力漏れ? 最近多くない?」
白玉は、めぐるの肩の上で大人しくしている。人が多いからか、警戒しているのかもしれない。
「……落ちるなよ」
小声で言うと、白玉は、きゅ、と短く鳴いた。
◇
食堂は、朝から賑わっていた。昨日と同じ場所。だが、昼とは空気が違う。パンの焼ける匂い。湯気の立つスープ。金属製の盆が、浮かびながら整列している。一つ、制御が甘いのか、盆同士が軽くぶつかって甲高い音を立てた。
「おっと」
係員が指を鳴らすと、盆は何事もなかったように列へ戻る。めぐるは、周囲を見回しつつ、列に並んだ。
料理は、やはり「普通」だった。パン、卵、スープ、果物。味付けも、極端な違和感はない。
(……ここだけ切り取ると、異世界感ゼロなんだよな)
だが、盆が浮いている時点で、やはり異世界だ。席に着き、パンをちぎる。一口かじって、ほっとする。
「……食べ物が普通なの、ほんと助かる……」
白玉が、盆の端に前足をかけ、じっとパンを見ている。
「それはダメだ」
そう言うと、白玉は不満そうに鼻を鳴らした。だが、無理に奪おうとはしない。理解しているのか、単に様子を見ているだけなのか。
スープにスプーンを入れると、湯気がふわりと立ち上った。スープを受け取ってから時間が多少経っているが、冷めている気配はない。
(……ずっと温かいな)
器の縁に、細い魔法陣が刻まれているのに気づく。意識しなければ見落とす程度の、ごく簡素なものだ。
「今日はちゃんと効いてるね」
「昨日は最悪だったけどな」
斜め後ろの席から、そんな声が聞こえてくる。
「給湯魔法、朝から不調でさ。スープぬるいし、パンも微妙だった」
「あー、止まった日?」
「そうそう。あれ一時間止まっただけで、食堂全体が文句だらけ」
「学長に直訴しようって騒いでたやつもいたしな」
「給湯止まったくらいで大げさだって」
「いや、止まると困るだろ」
笑い混じりの愚痴だ。怒鳴るでもなく、深刻そうでもない。ただの「不便だった話」。
「代替の火属性、出力足りなかったらしいよ」
「そりゃそうだろ。あれ、基本インフラだし」
インフラ、という言葉が、当たり前のように使われる。
(……魔法が、給湯設備扱いか)
頭では理解できる。できるが、感情が追いつくまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
元の世界で言えば、断水や停電と同じだ。止まれば困るが、復旧すればそれで終わる。奇跡でも特別でもない。
別の卓では、別の話題が続いていた。
「昼までに直るって言ってたけど」
「直らなかったら、研究区画のほう荒れるな」
「まあ、昨日も結局なんとかなったし」
誰も「魔法が使えないこと」自体を問題にはしていない。問題なのは、生活が滞ることだけだ。
めぐるは、もう一口スープを飲む。確かに温かい。味も、普通だ。
(……便利になれば、こうなるよな)
白玉が盆の端に前足をかけ、湯気に鼻先を近づける。熱かったのか、ヂッと短く鳴いて、すぐに引っ込めた。魔法は、この世界では、特別な力ではない。水が出て、火がついて、部屋が明るくなる――それと同じ場所に、当たり前に組み込まれている。
「昨日の実験、出力が不安定でさ」
「それ、申請通ってた?」
「通ってるけど、理論がまだ甘いんだよな」
研究の話。魔法が、学問として扱われている。それは、昨日レオンが言っていたことと、完全に一致していた。
魔法は、奇跡ではない。技術だ。そう理解すると、この世界の風景は、少しだけ輪郭を持ち始める。
◇
午前中、めぐるは特に予定がなかった。「暫定職員」という立場は、自由でもあり、宙ぶらりんでもある。
事務局に顔を出し、簡単な説明を受ける。立ち入り可能な区域。禁止事項。守秘義務。昨日と似た話だが、今日は、少し冷静に聞けた。
「質問は?」
「……いえ、大丈夫です」
本当は、聞きたいことだらけだった。だが、何を聞けばいいのかすら、分からない。
事務局を出たあと、学内を歩く。中庭。図書館棟。実験棟。どこも、活気がある。だが、その活気の裏側に、管理と制限があることも、はっきりと感じられた。
立ち入り禁止の表示。封印された扉。監視用と思われる魔法陣。
(……自由に見えて、自由じゃない)
技術が発展すると、そうなる。便利になればなるほど、ルールが増える。
それは、元の世界と、同じだった。




