第2項 世界の基礎
その部屋は、研究室というより講義室に近かった。
円形に配置された机。壁一面に刻まれた幾何学模様の魔法陣。黒板の代わりに、淡く光る投影板が宙に固定されている。「教える側」と「教えられる側」が明確に分かれる空間だと、めぐるは直感した。
「座れ」
レオンはそれだけ言うと、外套を脱ぎ、椅子に無造作に放り投げた。講義を始める教員というより、議論を始める研究者のような所作だ。
めぐるは言われるがまま腰を下ろす。
異世界に来た。召喚された。事故だったらしい。そこまでは分かっている。
だが、その先――この世界がどういう前提で動いているのかが、まったく分からない。
「……まず、確認しておく」
レオンが言う。
「君は、この世界の魔法体系について、何も知らないな?」
「はい。まったく」
「なら、最初から説明する。ここを飛ばすと、話が噛み合わない」
珍しく、前置きが丁寧だった。それだけ、前提の共有が重要だということなのだろう。
「あの、その前に、ここで生活するにあたり、生活用品とかの準備をしたいんですけど……講義は明日に……」
「明日から数日は俺が忙しい。時間が取れるのが今日ぐらいしかないから、基本だけでも叩き込む」
呆れるぐらい合理的だった。
◇
「そもそも、勘違いしているかもしれないが……」
レオンは投影板に触れずに言った。
まるで、ここに表示される内容はすでに頭の中に完成していると言わんばかりに。
「魔法は、この世界に古来から存在していた“超常”ではない」
めぐるは、思わず顔を上げた。
「……え?」
「正確には、約百年前だ。魔法現象が再現可能な法則として発見され、術式として体系化されたのが、その頃だ」
淡い光が投影板に浮かび、年表が表示された。百年前を起点に、いくつもの節目が刻まれている。
「発見当初は、偶然と再現不能の連続だった。だが、ある程度の法則性が見え、理論が整い、術式が標準化された」
「……理論化、ですか」
「そうだ。『できた』ではなく、『再現できる』ようになった。それが魔法の誕生だ」
レオンは続ける。
「そこから実験段階を経て、ようやく実用化された。社会に“技術”として使われ始めてからは、まだ50年も経っていない」
「……そんなに、最近なんですか」
「最近だ。だから未成熟。技術としても制度としても、若い。文化として定着したとは、とても言えん」
投影板の年表が、さらに拡大される。
「今この瞬間も、新しい魔法は作られ続けている。既存理論の拡張、複合、派生。昨日まで存在しなかった魔法が、今日も論文として提出されてるだろうな」
「……毎日?」
「誇張ではない。まだまだ開発しきれてない分野なんだ。大学と研究機関が競うように新たな発見をしている」
めぐるは、現代日本で見てきた技術革新を思い出していた。AI、ドローン、自動運転。便利になるほど、法律が追いつかなくなる分野。なるほど、魔法も同じ括りになるらしい。
「だから、法律もすべてを一度に整備することはできなかった」
レオンは、そこで初めて投影板に触れた。
「まず、安定していて、再現性が高く、危険性を評価しやすいもの。社会実装が進み、事故が想定でき、管理可能なもの。それが、六属性魔法だった」
年表が消え、代わりに6つの紋章が浮かび上がる。
「火・水・風・土・光・闇。属性名自体は単純だが、それぞれ厳密な定義がある」
レオンは一つずつ指し示していく。
「火は燃焼とエネルギー変換。
水は流動と溶解。
風は運動量と圧力。
土は構造と固定。
光は情報と観測。
闇は遮断と秘匿」
めぐるは思わず目を瞬かせた。
「……光が“情報”?」
「驚くところか?」
「いえ、日本だと“光=明るい”くらいの感覚なので……」
「なるほど。この世界の学術的には、光属性は“情報伝達と認識の操作”を指す。視覚、通信、記録、認証。すべて光に含まれる」
レオンは淡々と続ける。
「この六属性は、すべて自然現象に還元でき、効果範囲が限定可能で、再現性がある」
「……つまり?」
「技術として管理できる、ということだ」
「……だから、六属性だけは法律がある」
「そうだ」
レオンは頷いた。
「六属性魔法については、使用資格、禁止行為、事故時の処理手順、責任主体の区分まで明文化されている」
「責任主体、って……」
「使用者、管理者、認可機関」
さらりと言われて、めぐるは内心で頷いた。この辺は、日本と似てる気がする。つまり、魔法を使うのにも免許のようなものが必要なんだろう。
「六属性魔法は、“危険だが制御可能”と位置づけられている。だから法で縛れる」
そこで、レオンは一拍置いた。
「だが――」
空気が、わずかに変わる。
「六属性魔法の法律で定義・対応できない事故や事件は、どうしていたと思う?」
「……個別対応、ですか」
「その通りだ」
レオンは苦々しそうに言った。
「前例を探し、解釈をねじり、学内規則や慣習で処理する。裁量と場当たりでな」
「それって……」
「不安定だ。だが、数が少ないうちは、それで回っていた」
投影板に、右肩上がりの線が浮かぶ。
「問題は、年々その“例外”が増えてきたことだ」
「……新しい魔法が増えているから」
「そうだ。六属性に収まらない魔法が、想定以上の速度で増えている」
レオンは、深く息を吐いた。
「個別対応では限界が来た。責任の所在が曖昧なまま、事故だけが積み上がる。それで、法整備が急務になった」
視線が、めぐるに向く。
「そして、その仕事が――俺に回ってきた」
◇
「たとえば、今回お前が巻き込まれた召喚魔法は、六属性に属さない」
「……え?」
めぐるは思わず声を上げた。
「え、でも、学生がやるような魔法ですよね?私は学生に召喚されたはずです」
「だが、分類できない」
レオンは指を組む。
「召喚魔法は、結果が不定だ。対象が固定されず、距離も、状態も、因果も一定しない」
「……それって」
「六属性の前提をすべて壊している」
めぐるは、ぞっとした。
「だから、召喚魔法は現在、学術魔法、あるいは研究魔法として扱われている。今回の召喚事故は、担当教諭の目を盗んで勝手に学生が研究途中の魔法を発動させたことによるものだ」
「研究……」
「“まだよく分からないから、とりあえず研究対象”という意味だ」
「それ、法律は……?」
「ない」
即答だった。
「定義条文も、包括規定も存在しない。あるのは、学内規則と慣習だけだ」
めぐるは、嫌な予感しかしなかった。
「法律というのはな」
レオンは、淡々と続ける。
「事故が起きて初めて、制度の限界が露呈することがある。想定が足りていたのか、足りなかったのか――それは、後になってからでないと分からないことも多い」
◇
「法律というのはな、想定を積み上げて作るものだ。危険を列挙し、責任を割り振り、それでも起きた“それ以外”は、解釈で処理する。六属性法は、“それ以外”が少なかったから成立した。
だが今は違う。想定の外が、想定の中より多くなってきている」
レオンは、めぐるを見る。
「君が巻き込まれた召喚は、六属性に当てはまらないことは理解できたか?」
「…はい。物を召喚するはずが、人間を召喚した、という事実は、つまり、結果が固定ではない、ということですよね」
「その通り」
レオンは小さく頷いた。
「つまり、法律が、追いついてない?」
「そういうことだ」
「……それって、巻き込まれた側は、どこにも入らないってことですよね。……被害者は?」
めぐるは、少し言葉を探してから続けた。
「私は学生でも、研究者でも、使用者でもありません。ただ、起きた結果としてここにいるだけです」
レオンは一瞬、口を閉ざした。投影板には、六属性の分類図がまだ浮かんでいる。
「……制度上は、“事故後処理”の中に含まれることになっている」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「今の法律は、どこかで必ず綻びる。君は、その綻びの一番目立つ場所に落ちてきた」
めぐるは、はっきりとは反論できなかった。自分がここにいる理由が、「運が悪かったから」でも「選ばれたから」でもないことだけは、分かってしまった。制度が壊れている場所に、たまたま落ちてきただけだ。
「さて今日のところは、ここまでだ」
「……え?」
「本格的な検討は、また今度」
彼は立ち上がり、本棚から数冊の分厚い本を引き抜いた。
「これは六属性魔法の基礎理論書。これは既存魔法法の条文集。これは過去の魔法事故判例」
どさっと机に置かれる。
「宿題だ」
「宿題……」
「読め。理解できなくてもいい。“違和感”だけ拾ってこい。次に時間が取れた時に、また話すぞ」
つまり、この宿題を渡すために、わざわざ基本中の基本を説明してくれたらしい。宿題として渡された本たちに、口元が引きつっているのが分かった。
宿題、という言葉が、これほど重く響いたことがあっただろうか。それは重量という意味での重さだけじゃない。いきなり異世界に放り込まれた人間が、その世界を規制する法律作りに携わることになるなんて思いもしなかった。
「……事務員って、弁護士じゃないんだぞ」
そうぼやくめぐるの肩の上で、モモンガが小さく身じろぎした。さっきからずっと大人しくしていたが、講義の終わりの空気に反応したのか、鼻先をひくひくさせている。
「お前はいいよな。宿題とか関係なくて」
そう言うと、モモンガは意味がわからないという顔で、ぱちりと瞬きをした。
◇
その後は、まさに怒涛だった。
レオンが「今日は終わりだ」と言った直後から、めぐるはほとんど流されるように部屋を出された。理解が追いつかないまま、廊下を歩かされ、別の建物に連れて行かれ、名前と出身と「現在の身分」を何度も書かされる。
紙の質が違う。ペンも作りが違う。それだけで、ここが日本ではないという現実を、嫌というほど突きつけられる。
「えっと……職員扱い、ですか?」
「暫定的に、だな」
「学生じゃなくて……?」
「学生に放り込むには、事情が面倒すぎる」
事務的な会話の端々に、「例外」という単語が何度も混じる。例外。暫定。特別対応。嫌でも自分が異物なのだと感じる言葉が何度も出てきた。
身分証は、薄い金属板だった。名前と、所属と、簡単な魔力反応の刻印。写真の代わりに、本人と紐づく魔力情報が登録されているらしい。
めぐるは魔力などないと思っていたが、どうやら魔力は多少あるらしい。もしかしたら、魔法を使えるかもしれない、という事実だけが、この非情な現実での唯一の幸運だった。
(……ICカードみたいなもの、か)
だが、仕組みは理解できても、納得はできない。今日一日で、あまりにも多くの「当たり前」が塗り替えられすぎていた。
次に案内されたのは、食堂だった。天井が高い。学生と教職員が入り混じり、魔法具が当たり前のように使われている。
浮かぶ盆。勝手に温度を保つ器。だが、出てくる料理自体は、驚くほど「普通」だった。
「……シチュー?」
「胃に優しいからな」
「そこ、配慮されるんだ……」
スプーンを口に運び、ようやく、空腹だったことに気づく。身体は正直だった。
食事のあとも、休憩はなかった。注意事項。規則。禁止事項。読めと言われた紙の束は、軽くめくっただけで頭が痛くなる。
「立ち入り禁止区域」
「研究魔法への無断接触禁止」
「召喚事案に関する守秘義務」
改めて見ると、その量と内容に軽く眩暈がした。
◇
教職員用寮は、学内の端にあった。石造りで、古いが、手入れは行き届いている。部屋は一人用。ベッド、机、椅子、本棚。最低限だが、生活するには困らない。
扉が閉まった瞬間、音が消えた。めぐるは、その場に立ち尽くしてから、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。どっと疲れが押し寄せる。
「……長い一日だった……」
机の上に積まれた本の山を見る。厚い。重い。文字が細かい。
「……異世界トリップって、もっとこう……」
冒険とか。チートとか。ステータス画面とか。そういうものを、少しは期待していた自分を否定できない。ため息をついた。
力は便利だ。便利なものほど、使い方を誤ると被害が広がる。それは、元の世界でも同じだったはずなのに、魔法が絡んだ瞬間、すべてが途端に曖昧になる。
「使った本人が悪い、で終わらせられないんだよなぁ……」
誰が、どこまで責任を負うのか。負えない責任を押しつけていないか。
ぼんやりと思いふけっていると、机の上で、モモンガがころんと転がり、丸くなる。その仕草が妙に自然で、ここが現実だと主張しているようだった。
召喚現場から、ずっと一緒だった小さな生き物。丸い体をきゅっと縮め、前足で胸元の毛を整えるように撫でてから、こちらを見上げてくる。
夜の光を映したような黒い瞳。白い毛並みはふわふわというより、しっとりと柔らかく、指を沈めたらそのまま埋もれてしまいそうだった。小さな鼻がひくひくと動き、興味と警戒が入り混じった気配を隠そうともしていない。
「……ほんとに現実なんだよな」
声をかけると、モモンガはヂ、と短く鳴いた。返事とも、抗議ともつかないその音に、めぐるは思わず口元を緩める。
異世界に来て、法律の話をされ、宿題を出され、責任という言葉を突きつけられて。その中で、この小さな存在だけが、最初から最後まで、そばにいた。
モモンガはなぜか首をかしげた。その拍子に、ふわりと尾が広がる。薄くて大きな膜が月明かりを受け、白い餅のような輪郭を描いた。
「……白玉」
試しに呼んでみる。次の瞬間、その生き物は、嬉しそうにぴょんと跳ねた。尻尾が揺れ、机の上を転がり、またこちらを見る。
「……気に入った、ってことでいいのか」
白玉はぱちりと瞬きをして、また、きゅ、と短く鳴いた。名前を得て、白玉は安心したように体を丸め、机の上でころんと転がるようにして、丸くなる。
「よろしく、白玉」
その小さな重みと体温だけが、今日一日の出来事が夢ではないことを、静かに証明していた。
◇
夜は、ゆっくりと更けていった。窓の外には、見慣れない星空。だが、不思議と怖さはなかった。
めぐるは、宿題の本を一冊、手に取る。表紙には、堅い文字でこう書かれている。
――六属性魔法基礎理論。
ページを開く。文字を追いながら、昼間のレオンの言葉が、少しずつ形を持ち始める。
魔法は技術。技術には、責任が伴う。責任には、ルールが必要だ。そして――そのルールが、まだ追いついていない。
白玉が、のそのそと近づいてくる。小さな前足で、本の端をちょんと触れた。
「それは食べ物じゃないぞ」
そう言うと、白玉は不満そうにヂヂ、と鳴く。その声に、張り詰めていた胸の奥が少しだけ緩んだ。
「……明日から、本格的に勉強だな」
そんなことを零しつつ、本から手が離れない。
――この世界の“当たり前”を知らなければ、責任の話なんて、できるはずがない。
白玉はいつの間にか、めぐるの袖口に潜り込み、安心しきった顔で丸くなっている。その温もりを感じながら、めぐるは静かに、この世界の重さを受け止め始めていた。




