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砂の花  作者: 高千穂ゆずる
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色とりどりの 第1話

 灰色の空を背景に、鮮やかなワインレッド色の外壁をした集合住宅が建ち並ぶ。

 銀杏が取り囲む小さな公園では、塗装の禿げた遊具に子供たちが群がって遊んでいた。

 ベルリン自由大学からの帰りはいつもこの公園を抜けていた。レナはつまらなそうな顔で、無邪気に遊ぶ子供らを横目に見る。

「レナ」

 強い衝撃と共に馴染みのある声が耳元で弾けた。飛びついてきたのは、学部こそ違うが同じ大学で同じ集合住宅に住んでいるローラン・ミュレルだった。

 部屋が隣同士ということもあり、幼馴染のようなものだ。腐れ縁とも呼ぶ。

 飛びついてきたローランから香水の甘い香りがした。生活水準はレナと同じだが、彼は自分の外見を磨くことに余念のない男だった。

 しかし、それが鼻につくことはない。柔らかい物腰、嫌味のない率直な言葉。嘘が嫌いなレナにとって、ローランは数少ない心許せる人間のひとりだ。

 レナが十二歳の時、それまでの養い親だったベンジャミンから実母イェシカの元に帰されてからのつきあいで、もう十年ほどになる。

 広くて浅い交友関係が多いレナの中で、ローランは少し違った存在だった。

 ローランもレナ同様母親が寡婦だったからだろう。違うのは、父親が誰かはっきりしているということだ。

 ローランの父親は警官で、彼がまだ幼いころに銃撃戦で殉職したという。父親の顔を知らないどころか、どこの誰が父親なのかもわからないレナに比べれば、ほんの欠片しかない記憶でも父親との思い出があるだけローランは幸せだ。

「最近帰りが早いんだな」

 レナの肩を抱き寄せてローランが言う。

「バイトがない日くらい、うちでゆっくりしたいのよ」

「ってことは、弟くんが遊びにくるんだ」

「あー……そうなると思う」

 レナは視線を親友から逸らし、困ったように笑った。

 養父ベンジャミン・ボルマンの息子であり、一時期いっしょに過ごした七歳下のルイスは、レナにとって可愛い弟のような存在だ。ベンジャミンと暮らす高級住宅街のグルーネヴァルトから、彼はわざわざブリッツの低所得者向けの集合住宅までやってくる。それはもう嬉しそうに。

 モノクロの世界が広がるこの町に、蜂蜜色の髪をした天使がやって来る。レナの目には弟の周囲がまばゆく輝いているように映った。ルイスは蕩けたような表情でレナを見ては、義姉さんと甘えた声で呼んだ。

 その表情と声に含まれている甘酸っぱいものがなんであるかを、レナはずいぶん前から知っていたが気づかないフリをしてきた。

 年齢の割に無口で憮然とした表情が多いせいで周囲から浮きがちのルイスだが、レナが傍にいると一気に柔らかな雰囲気になる。

 そんな弟を見ると愛しさが込み上げてきて、自分の腹の中で蠢く真っ黒な思いもきれいさっぱり洗われる気がした。

 だからこそ、弟の気持ちには気づかないフリをする――。

 同じ棟に住むローランと階段で別れ、レナは自宅へ向かった。どうせ母親(イェシカ)はいない。ここ数日帰ってきていなかった。鍵穴に鍵を差し込みながら、母親が留守であることを祈っている自分にレナは小さく毒づいた。イェシカがいなければアイツもいないはずだから。

 集合住宅のリビングは手狭だが、レナの几帳面な性分のおかげですっきりと片付いている。

 中古で手に入れたソファはスプリングが硬く、座り心地はお世辞にも良いとは言えなかったが、肌触りのいいコットンカバーとふかふかのクッションでレナのお気に入りのひとつだ。

 鞄を自室の机に置き、読みかけの本を手に取ってリビングに戻る。ベランダの扉を思いきり開けるとすぐに下から声をかけられた。

「レナ!」

 その声でレナの全身は一気に硬直した。ただ名前を呼ばれただけなのに、足元から震えが始まる。

「今日、バイトが休みだろ? レナとゆっくり話がしたくて寄ってみたんだ」

 気さくな口ぶりなのにレナの震えは治まらないどころか酷くなっていく。

 鍵……かけなきゃ――。

イェシカがいないのにどうしてあの男が訪ねてくるのか。なぜあたしとゆっくり話がしたいのか、どうしてバイトの休みを知っているのか。

慌ただしくなる思考とは逆に身体は竦んでいく。必死に自分を奮い立たせて玄関へ急いだが、イェシカの若い恋人はすでにドアのこちら側に立っていた。

「やあ、レナ」


 グリーンの鉢植えが並ぶベランダはちょっとしたガーデンだった。ローランの母の自慢でもある。

 椅子を部屋から持ち出して、小さなガーデンで温かいミルヒカフェを飲むのが楽しみのローランは、激しい物音が響く天井を見上げた。ちょうど真上の部屋がレナの自宅なのだが。

「なにをやってるんだよ」

 怪訝そうに呟く。

 まさか遊びに来ている義弟と殴り合いのケンカでもしているのだろうか。図体ばかり育った大型犬の子犬みたいなルイスを思い出した。レナの気性なら勝ち負けそっちのけで殴り合いしそうではあるが。

「レナに勝ち目はないだろ。でもアイツ負けず嫌いだからなあ。手近なものを武器にして――いや、さすがにルイスに武器は使わないか」

 ケンカの仲裁なんてするものじゃないとわかっているが、激しくなる物音を聞く限り、止めに入るしかないだろう。

 なにかが派手に砕ける音がした。

「ケンカにしては激しくないか」

 ローランは眉を顰めた。肩近くまで伸びた金髪をかきあげながら、上階のレナの部屋へ向かう。

 ドア越しからも物音は聞こえるが、初めほど激しくはなかった。

「レナ?」

 声をかけながら玄関ドアを開ける。

「なにを暴れているんだよ。うちにすげぇ響いてンだけど」

 ドアが開ききったところで目に飛び込んできた光景にローランは瞠目した。次の瞬間にはレナに覆い被さっている男を引き剥がして殴りつけていた。反撃を喰らったローランは壁に背中をしたたかに打ちつけたが、すぐに男の胸倉を掴んで凄んだ。

「アンタ、イェシカの彼氏だろッ」

「ちょっとふざけてただけだろ? 本気にするなよ。おまえ、レナの男か」

「関係ないだろ」

 ローランは怒鳴りつけながら男を突き飛ばした。

「レナ。イェシカに”もう飽きた”って伝えといてくれ」

 乱れたシャツを整えながら、男はニヤついたまま言う。

「黙って出て行けッ」

 ローランは床に落ちていた男の財布を拾い上げて投げつけた。はいよ、と悪びれずに男は返し悠々と部屋を出て行った。

「レナ、平気か?」

 ソファの上で背中を丸めて蹲っているレナに声をかけた。

「……平気」レナは短く答えた。

 テーブルに置いてあっただろうグラスやクロスは床に散乱している。グラスに至っては盛大に砕け散ってそこら中に破片をまき散らしていた。

 レナがもそもそと起き上がったのを見て、ローランが横へ腰を下ろした。レナは必死に膝丈のスカートを整えている。

「ごめん」

 迂闊に近づいてしまったことをローランは後悔した。すぐにソファを立ち、バスルームとレナの部屋を往復してタオルと適当に選んだ着替えを取って戻ってきた。

 こんなときに呼べるレナの女友達を知らないし、いないだろうことをローランはわかっていた。

「動くのが辛かったら、俺なんかで良ければ手伝うけど」

「いい。でもお願いがある」

「通報するか?」

「してもムダだからいい」

「やっぱり誰か呼ぶ? ベンとか」

「ダメ! そうじゃなくて、ローランはここにいて、ずっと喋ってて」

「ええっ。ずっと喋ってるの? 俺ひとりで? 一方的に?」

「ひとりになるの、イヤだから」

 レナはローランの言葉に被せるように早口で答えた。

「うん、わかった」

「もうぜったいにスカートなんか履かないから」

 やつあたりするように、ローランの肩を拳で叩きながらレナは言い捨てた。泣くのを必死に堪えているのがわかる。ローランに拳を叩きつける度に涙がこぼれ落ちる。テーブルの下に投げ捨てられている下着をみつけたローランは言葉を飲み込んだ。

 代わりに明るく務めた。

「歩けないならバスルームまで連れていくけど。もちろんお姫さま抱っこでね」

「……」

 レナはスカートの裾を気にして端を掴んで膝まで隠そうとした。ローランはその手をやさしく握り、「特別に許して欲しい」と宥めた。

「……特別だからね」

 レナは涙声で答えたが、親友へ向けたのは笑顔だった。

「愛してるよ、レナ」

「あたしもよ、ローラン」

 レナの言葉は少し上ずっていて、そして堰を切ったように泣き出した。


「今日、母さんが仕事で帰りが遅いんだけど、俺の手料理いっしょに食べたくない?」

 バスルームから出てきたばかりのレナに、ローランが唐突に訊いた。

「肉か魚か迷ってるんだけど、レナはなにがいい? ちょっと意見くれないか」

「……さかな」

「魚か。じゃあブレゼにしよっか。冷蔵庫にスズキの切り身があったからそれを使うとして」

「…………ありがとう」

 口元に宛がったタオル越しの声はとても小さかったが、ローランの耳には届いた。ローランは小さく微笑むとレナのタオルを受け取り、雫が垂れている銀色の髪をやさしく拭き上げた。

「作ったブレゼ、こっちに持ってこようか」

「いい。ローラン家で食べるから。今夜は――そっちに泊まってもいい? ちょっと怖いかも」

 母親と顔を合わせるのも嫌だった。

「好きなだけ俺のベッドを占領してもいいよ」

「よだれ垂らしたらごめん。先に謝っとくね」

 充血した目を細めてレナは笑って見せた。

 辛いことや悲しいことがあってもそれを口にしないレナは、こんな時でも笑う。十二歳からの付き合いで、ローランが何度も見た笑顔だった。食事と甘いデザートくらいでしか慰めてやれない自分に、ローランは舌打ちした。

「イェシカが帰ってきてもうちにいればいいよ。飽きたとか言ってたけど、イェシカがアイツと別れるとは限らないからな」

「でも、おばさんがいい顔しないよ」

「そのときはいっしょにベンの家へ行こう」

「なんでアンタまで来るのよ」

 レナとローランの、二人だけの秘密ができた。ベンジャミンにも、もちろんルイスにも明かさない。

「冷たいこと言うなよ。レナの安全が確保されるまでは、俺の責任で守るから」

「責任っておおげさ」

「親友ならそうするもんだろ」

 親友という言葉にレナはなにも言い返せなかった。その言葉はレナの胸に熱を持ってじわりと沁み込んだ。


 夕暮れになってようやく晴れ間が出てきた。風はさらに強く吹き、ベランダの薄いカーテンの裾をなんどもはためかせていた。


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