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砂の花  作者: 高千穂ゆずる
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はじまり 第8話

 窓の外は昨日と同じ悪天候で、冷たいみぞれが降り続いている。

 レナはぼんやりと手元のコーヒーメーカーを見つめていた。目の覚めるような香ばしいコーヒー豆の香りが、レナの思考を少しずつ覚醒させてくれる。それと同時に、ボディシャンプーの爽快な匂いがキッチンへ入り込んできた。

「いい香りだ」

 ルイスはシャワーで温まった腕をレナに絡ませ抱きしめると、その頬へキスをした。

「やはりミッテではなくてここへ戻ってきて正解だったな」

「今日は刑事部に顔を出していたんでしょ? ミッテの方が近いのに。物好きね」

「向こうに向かっていたらレナとすれ違っていた。だから今日はミッテのアパートに戻らなくて正解なんだ」

「じゃあいっしょに暮らそうかって言わせようとしているのなら、残念でした。あたしは言わないから。それより朝食がもうすぐできるからテーブルで待っていて」

 視線で向こうへ行けと合図する。

「それならコーヒーは俺が持っていく」

 サラダに取り掛かったレナの横で、ルイスはコーヒーをカップに注いだ。少し暖まっただけの部屋に、白い湯気がゆっくりと上っていく。

 レナが住んでいるこのビルは三階建ての古い建物で、一階が古書店、二階に住居、三階は倉庫兼書庫となっている。

 ワンフロアの事務所だった二階を、住居用に内装から手掛けたのはレナだった。南向きの窓は天井まであり、日当たりもよくて開放的な空間はお気に入りだ。

 三階へ通じる螺旋階段はこの窓の傍にあり、真鍮製の手すりがぐるりと円を描いて天井へと上っている。

 テーブルとソファは自然光が届く範囲に据えられていた。足元には毛足の長いラグがゆったりと敷かれている。ルイスはコの字型のソファへ腰を下ろし、両手のカップをテーブルへ置いた。

 いつもの習慣でテレビを点ける。どのニュースも似たり寄ったりで興味をそそられるものはない。視線をテレビ画面からテーブルへ戻すと、見慣れないものをそこに見つけた。

 こんな違和感のあるものに気づかなかったとは。いや、女性の部屋なのだから置かれていてもおかしくはないが。

 ルイスは戸惑いの表情を浮かべてグラスに挿された花をみつめた。白い花びらに手を伸ばしてそっと触れてみる。生き生きとした真新しい生花だ。

 ルイスはそこでようやく気付いた。

 部屋に花を飾る習慣は自分にはないが、思い当たる人物はいた。

 そういえば犬を引き取りたいと言っていたな、とベッドでの会話を思い出す。むくりと頭をもたげてくる昔と変わらない嫉妬心に、ルイスは先ほどまでの甘い感情が色褪せていくのを感じた。

「父さんが来たのか?」

「いきなりなに言ってんの?」

 レナは朝食が乗った皿をテーブルへ置きながら頓狂な声をあげた。

「早く食べようよ」

 白磁のプレートにはレバーペーストが塗られた黒ライ麦パンが乗っている。塩漬けされた牛の薄切り肉がスライスオニオンといっしょに添えられている。

「部屋中に花が飾られているなんて、今までなかったじゃないか。まるで父さんといっしょに暮していた頃みたいだ」

 ルイスはレナと目を合わせずに皿の縁を何度も指でなぞった。

「花? ああ、これね」

 自分の皿を手にしたまま、レナはルイスの横へ腰を下ろした。

 ソファの背もたれに寄りかかり、ライ麦パンを一口頬張った。唇の端についたレバーペーストを親指の先で拭い取り、

「店で観葉植物をレンタルしてるんだけど、その花屋がね。よくくれるのよ。余りものだって言うし、捨てちゃうなんて可哀そうでしょ。タダだし」

 嬉しそうに、タダだし、ともう一度繰り返す。その様子からベンジャミンがここを訪れていないことも、花屋から余りものをもらっているのも本当のことのようだ。安堵している自分に呆れながら、ルイスは平静を装った。

「この間、外から大声でレナを呼んでいたヤツか」

「そうそう、ラファエルっていうんだけど、彼がまた気のいい男でさ。花のアレンジなんかもセンスいいし、本ばっかりで飾りっ気がなかった店だけど観葉植物とアレンジメントを置くようになってからは客の評判もよくなったのよ」

 レナはもう一口パンを頬張った。咀嚼のたびに動く唇にルイスは見惚れたが、バレないように唇を一心に引き締める。

「なにその顔。花にまでやきもち妬いちゃうわけ?」

 不機嫌そうに見えたらしく、レナはそう言って声を立てて笑った。

 悪いか、と開き直ったルイスがレナを抱き寄せた。体勢を崩したレナはうっかり食べかけのパンを落としかけて慌てたが、すぐにいつもの笑顔を見せた。恋人の腕の中から顔を上向かせる。

「せっかく作ったのに食べないの?」

「もちろん食べるさ、その手から」

 ルイスはレナが持っている食べかけのライ麦パンに齧りついた。やっぱり口の端にレバーペーストが付いたが無視した。

「自分のを食べなさいよ」

「レナの方が美味そうだったから仕方ない」

 ふふんとなぜか得意げなルイス。

「唇の横、ペーストが付いてるわよ」

「俺は今手が塞がってる」

「まるで子供ね」

 どう見たってルイスの両手が塞がっているようには見えないが、甘えられるのは嫌いじゃない。レナは上半身を伸ばしてルイスの唇の端を舐めると、そのまま義弟をみつめた。

 暖かな春の空のような青い瞳がうっとりとレナを見下ろしている。

「今日は休もうかな。一日ルイスとまったり過ごすのも悪くないよね」

「実は俺もそうして欲しいと思っていたところだ」

 蕩けるような視線を互いに絡めさせる甘い雰囲気は、テーブルに置いたままだった携帯電話の着信で終わりを告げた。鳴ったのはルイスの携帯だ。

 ローランからで、これからここへ来るという連絡だった。

「ローランが、なに?」

「レナから少し話が聞きたいらしい」

 へぇ、とレナは軽く返した。

 刑事が聴取をしにやってくることに、欠片も動揺を見せない。たとえ無実であっても多少の動揺は見せるものだ。ルイスは複雑な面持ちで、コーヒーカップへ手を伸ばすレナをみつめた。

 連絡があってから三十分足らずでローランが現れた。よお、と軽く手を挙げた友人のすぐ後ろに若い刑事の顔をみつける。

「ルイスの相棒ってローランじゃなかった?」

 コイツ誰よ、と言いたげに初対面の若造をきっちり指差してレナは首を傾げた。しかし、すぐに得心がいき苦笑を浮かべた。

「ルイスがあたしの恋人だからね」

 くしゃりと前髪をかき上げた。

 どこか悔しそうにも見える表情に、ルイスは黙って肩を抱いた。

「入って」

 レナの言葉に若い刑事が反応して一歩踏み出すと、ローランはすぐにそれを制した。

「悪いけどルイス。席を外してくれるかな。一応、捜査の一環なわけだから」

 柔らかな笑顔はいつもと同じローランだが、その声には否を言わせないものがあった。

「俺がいては不都合があるということか」

 眉を寄せ不愉快そうにルイスが言う。

「言わせるなよ、わかるだろ? そもそもルイスはこの捜査から外されてるんだから、ここにいちゃダメでしょ」

 駄々をこねる末っ子でも宥めるように、微苦笑を浮かべて指を突き出すローラン。このやりとりに即席の相棒は状況が読めず、目を白黒させている。

「べつに口を挟むつもりはない。傍にいる、それだけでもダメなのか?」

「聴取内容を知られるのもまずいんだから当然だろ。それがわからないルイスじゃないと俺は思うけど」

 ローランは肩を竦めた。

 すっとアンティークデザインの鍵が左右にゆれながら二人の間に現れた。

「これ、店の鍵」

 見かねたレナがローランへ助け船を出す。

「終わったら声かけるから、それまで階下で適当に時間を潰していてくれる?」

 ほら、そんな顔しないでと唇を尖らせかけた恋人の頬を両手で挟む。

「そうそう、俺とおまえらの仲じゃないかァ」

 割って入るようにローランはレナの肩に腕を回すと乱暴に揺さぶった。軽口を言い終えると、笑みを残した口元とは対照的に青い双眸へ強い光が宿る。

「捜査を外れたからって仕事がゼロになったわけじゃない。書類整理にデータ整理。俺は嫌いだけどおまえはそういうの得意だろ」

 確かにローランの言うことはもっともだった。手が足りていない市警察の事件はほかにいくらもある。

 完全に納得したわけではなかったが、しつこくゴネたところで自分の思うようになることはない。

 ルイスはレナが差し出した鍵は受け取らず、署に顔を出してくると言った。

 コート掛けからコートを取り、ルイスはベルリン州刑事部へ向かった。


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