世界が凍るその前に
「来ないで!」
詩織は一声叫ぶと手に持つ写真を降りてくる怪物に掲げる。
もしも、あれがウェンディゴであるのなら効果があるはず、と祐也は思う。詩織も同じことを思ったのだろう。
だが、怪物は何事もないように階段を一段降りる。
ギシリ
階段が軋り不愉快な音をたてた。青白い炎の領域も一段拡がる。
炎が詩織の足を舐める。
「あ!?」
詩織は下を向き驚きの声を上げる。瞬きするほどの間に詩織の下半身が凍りつく。そして、氷結部分は太股、腰、腹と目に見える速度で上半身に広がっていく。
「た、助けて、加奈……」
半身を捻り、加奈子達に助けを求めようとして詩織は氷の彫像と化す。
ピシリ
甲高い音と共に凍りついた詩織の体に無数のヒビが入る。
助けを求めようと伸ばして凍りついた腕が砕け、ついで腰から上が割れ、床に落ちてゴナゴナに散乱する。
「いや!詩織!」
加奈子は叫び、詩織に駆け寄ろうとするが、それを祐也は強引に引き戻す。
抵抗する加奈子を抱きかかえ、祐也は耳元で怒鳴る。
「ヤバイ。あの青いやつに触れるのはヤバイぞ」
青い炎はゆらゆらと祐也達に近づいてくる。
祐也は加奈子を引きずるようにリビングに逃げた。
ドアを閉め、適当なものでロックする。
どうする?
祐也は自問する。床に転がっている斧に目をやり、すぐに首を振る。
あのウェンディゴの周囲に広がる青白い炎のようなものは瞬時に触れたものを凍らせる。
あんなものがあっては近づくことすら出来ない。手斧一本でどうにかなる相手ではない。
祐也は床に転がっていたイスを拾うとリビングの窓に叩きつけた。しかし、窓は鉄の板のようにびくともしなかった。
何度か力任せに窓に叩きつけたがイスの方がバラバラに砕けた。
「やはりな」
祐也はため息混じりに呟く。
さっき、玄関のドアが開かないのを知った時に薄々予感はしていたが、今は確信に変わっていた。
電気が使えなくなったのと同じで、この山荘には結界のようなものが張られ外に出ることが出来なくなっているようだった。
恐らくはウェンディゴ本体を倒さない限り外へは出られない。
「その相手には近づくことすらままならないってか!」
祐也は吐き捨てる。全くの手詰まり状態だった。
「祐也!」
加奈子の声に振り返ると廊下側のドアの表面に真っ白な霜が降りていた。
ドン
ドン ドン
ドアが激しく叩かれる。叩かれる度にドアに小さなヒビが走った。そう長くは持ちそうにない。
「加奈子。プランBだ」
「プランB?プランBってなによ?」
加奈子は怪訝そうに眉ねを上げる。
「最後の手段ってことさ。詳細は、ただ今絶賛賛考え中さ」
バリン
激しい音と共にドアが激しく砕け散った。
「ふしゅぅ~」
白い息と共にウェンディゴは、その骸骨じみた顔を覗かせる。枯れた木の枝のような両足でヨロヨロとリビングに踏みいる。
リビングには誰もいなかった。
ウェンディゴは首を傾け、更にリビングの中へ進む。
「こっちだ!」
声の方へ顔を向けたウェンディゴの額に食器がぶつかり砕け散った。
リビングから食堂へ繋がるドアは開き放たれ、食堂には祐也が仁王立ちしていた。小脇には皿を何枚か抱えていた。
「こっちにこい」
そう言いながら祐也はもう一枚皿を投げつける。皿はウェンディゴの眉間を直撃するが大して効いていない。
ウェンディゴは何事もなかったように祐也に向かい食堂へと足を進める。
ウェンディゴの動きにあわせて揺らめく青い炎も移動する。
祐也は青い炎に触れないように少しずつ後退しながら皿を投げて攻撃する。
ウェンディゴが完全に食堂に入ったのを確認すると祐也は大声で叫ぶ。
「今だ、加奈子!」
叫ぶと台所のドアを閉めてロックする。
ほとんど同時にウェンディゴの背後のドア、リビングへのドアも閉じられた。
倉庫に隠れ、ウェンディゴをやり過ごした加奈子がドアを閉めたのだ。閉めるとこちらもがっちりとドアをロックする。
リビングのドアが乱暴に叩かれる。たちまち、ドアがピシピシと凍りつく。
真っ白に霜がついたドアに大きなヒビが入る。それほど長くはもたないが、加奈子はそんな事に気を止めず手に持った缶の液体をリビングの床に撒き散らす。
液体は灯油だ。同じことを祐也が台所でやっている。
二人は灯油を巻きながら階段近くの廊下で合流する。
ほどなく食堂とリビングの間のドアが粉砕される音がした。
カツン、カツンと杖をつくような音をたてウェンディゴが廊下に姿を現す。
左右を見て祐也達を探す。
「こっちだ」
祐也の声にウェンディゴは上を見る。2階へ登る階段の所に二人はいた。祐也の手にはランプが握られている。
「これでも食らえ」
祐也はランプを廊下に叩きつける。廊下に撒き散らした灯油に火がつきたちまち廊下は燃え上がった。
「ぐあぁあぁ」
炎に包まれウェンディゴは悲鳴を上げる。
「上へ!」
ウェンディゴが炎に包まれるのを確認すると祐也は加奈子に2階へ上がるように促す。
2階へ上がると適当な部屋に入り、鍵をかけた。
すぐに窓に手をかけ開けようと試みたがピクリとも動かなかった。まだ、結界が効いているようだ。
ドアの隙間から白い煙が侵入してくる。
「ゴホ、ゴホッ。どう、開く?」
咳き込みながら加奈子が聞いてきた。
「いや、駄目だ。開かない」
祐也は答える。
ウェンディゴが生きている限り窓が開くことは無いだろう。
これは一か八かの賭けだった。
山荘が燃え尽くす前にウェンディゴが死ねば、祐也達にも脱出のチャンスがある。逆にウェンディゴが全身を火に包まれても死なないような本物の化け物ならば祐也達は助からない。
分の悪い賭けではあったが手持ちの道具でウェンディゴに対抗する手段はこれしかなかった。
火の回りは予想以上で、既に祐也達のいる部屋は黒い煙で目も開けられない状態になりつつあった。
祐也は苦しげにあえぐ加奈子を抱き寄せる。
階下は既に火の海なのだろう床下から焙られ耐え難い熱さになっていた。
「すまん。このまま死ぬことになるかもしれない」
「ううん。私こそ、ごめん。
祐也を巻き込んでごめんね」
苦しい所を加奈子は無理に微笑んで見せてくれ、祐也は愛しさが込み上げてきた。思わず、そっと口付けをする。
その時。ポケットの中で何が震えた。
スマートフォンだ。
取り出し片目で確認すると起動中の画面になっていた。
電気が戻って来ている。
それが意味することは!
祐也は加奈子から体を離すと渾身の力でイスを窓に向けて投げつけた。
ガシャンと派手な音をたて、窓ガラスが割れ、イスが外に放り出される。
「勝った!」
祐也は叫ぶと加奈子を連れ窓際に移動する。冷たい空気を肺一杯に吸い込み一息つく。
窓の外、数メートル先に木が立っていた。
「跳べるか?」
「無理」
祐也の問いにひきつった薄ら笑いを浮かべる加奈子。祐也もまた凶悪な笑いで答える。
「無理でもやるんだ」
「ちょ、ちょ、ちょっとタンマ」
有無を言わせず窓の外に押し出され、加奈子は焦る。
「跳べ!」
祐也の大声に加奈子は懸命に木に向かいジャンプした。なんとか木にとりつくがずりずりと滑り落ちる。
それを確認すると祐也も窓から木に向かって跳んだ。木にたどり着くと、夢中で木の枝を掴む。掴むことは出来たが運悪く枝は折れ、そのまま、無様に落下する。
それでも落下速度が殺されて衝撃はそれほどでもなかった。雪が積もっていたのも幸いした。
祐也は雪の上で大の字になり、少しぼうっとした。
「加奈子、生きてるか?」
少ししてから加奈子に問いかける。
「生きてるよ」
少し間を置き、加奈子が答えた。
「ふはははは」
祐也は笑い始めた。
「あはははは」
加奈子も笑う。
二人は燃え盛る山荘の前で積った雪の上に大の字になってしばらくの間狂ったように笑い続けた。
「ふう」
祐也はどっかとソファに腰を降ろし一息ついた。
冷蔵庫から取り出したペットボトルを飲む。
背後から微かにシャワーの音が聞こえてくる。
祐也は弄んでいたリモコンを操作してテレビをつける。
そこは郊外のラブホテルだった。
燃え盛る山荘を後にして5時間ほど歩いて、ようやく見つけた休めそうな場所がラブホだった。本来なら警察に駆け込むべきなのだろうが、二人とも精神的、肉体的に限界を越えていたのでどちらが言うでもなくラブホに飛び込んだ訳だ。3時間ほど寝て、さっき起きたところだった。加奈子は寒いから熱いお風呂に入りたいと言って今、入浴中だった。
祐也はこれからどうするべきかと悩んでいた。
現在、自分達はとてもまずい状況に置かれているのを実感していた。
今回起きたことを正直に話したとして、警察が信じてくれるとは思えない。恐らくは自分達が教授達を殺して証拠隠滅のため火をつけたと思われるだろう。
かといって、バックレる訳にもいかない。
山荘に加奈子達がいたことはすぐわかるし、一人足りない事も、足りないのが加奈子だと言うことも分かるだろう。
加奈子だけなら資料を取りに大学に戻っていた、だから山荘で何が起きたか知りませんと言うことはできなくはないが、自分の車を山荘で大破させているのが痛い。当然、事件との関連性を疑われて自分の身元が特定される。
加奈子との関係だってすぐに知られることになるだろう。
正直に話して頭がおかしいと疑われるか、嘘をついて教授達を惨殺した疑いをかけられるか。
究極の選択だった。
『……先程、正式に戒厳令が発動されたもようです』
緊張した顔で女性キャスターはテレビカメラに向かって話しているのがテレビから流れてきた。物騒な単語に一瞬、祐也の注意がテレビに移る。
最初、ドラマかなにかのワンシーンかと思ったがどうやら本物のテレビ中継のようだ。
画面の右上にはケペックと表示されていた。
「ケペックってカナダだよな」
祐也はカナダと言う単語に不吉な引っ掛かりを覚えた。
『……昨夜からの市民の暴動は鎮静化するどころか規模を拡大しております。先程、カナダ政府は戒厳令を発令。暴動鎮圧に軍隊が投入されました。暴動の原因は全く不明で政府関係者からも困惑の声が聞こえてきます。
それでは一旦、カメラをスタジオにお返しします。』
テレビ画面が日本のスタジオらしき場所に切り替わる。
メインキャスターとおぼしき人物が喋り始める。
『今回の突然の暴動。テロの可能性はないのでしょうか?』
『現地の情報が錯綜しておりなんとも言えませんが送られてきた映像を見る限り一般市民が突然凶暴化しているように見えます。従いましてテロの可能性は低いのではないかと思います』
キャスターの横に座る白髪の男が神妙な顔つきで応える。
画像が切り替わる。
ブレブレの動画だった。ハンディカメラか携帯で撮られたものだろう。
現地から送られてきた映像だろうか。
何人もの男や女が歯を剥き出し無差別に襲いかかっている映像が写っていた。近くの人間に襲いかかり、噛みつく人達の映像。
再び画面がスタジオに戻る。
『まるでゾンビ映画のワンシーンを見ているような映像です』
キャスターの声を聞きながら祐也は目眩のような既視感に襲われる。
(ゾンビ映画だと?)
つい、数時間前に自分達が直面した出来事と全く同じじゃないか。
(俺はあの教授が元凶だと思っていた。だか、本当にそうなのか?)
祐也は加奈子の言葉を懸命に思い出す。
カナダのどこかの洞窟で死蝋を見つけたとかいってた。その洞窟や死蝋が全ての始まりだとしたら、今、死蝋はどこにあるんだ。
加奈子は何て言っていた?
思い出せない。いや、なにも言っていなかったか?
とにかくカナダのどこかの大学か研究機関にあると考えるべきか。なら、そこを起点に俺達が体験したようなことが起きるかもしれない。
いや、起きたのだ。
祐也の頭にウェンディゴの青白い炎が甦る。
世界が凍りつく。そんなフレーズか頭を過る。
ガチャリとバスルームの開く音がした。
近づいてくる足音を背後に感じ、祐也は立ち上がり振り向く。
「加奈子。大変なことになっている……」
加奈子はタオルも巻かず、一糸纏わぬ裸身で立っていた。ポタリポタリと滴が床に落ちるのも構わずに。
「ううぅ」
低く唸る声。
白目を剥いた、生気のない顔。
ゆっくりと口が開かれる。
「そんな、まさか、そんなことが……」
祐也は言葉を失う。
「ああああ」
『加奈子』だったものが一声叫び、驚きで固まった祐也に猛然と襲いかかってきた。
2018/04/01 初稿
2018/05/07 誤字修正。後書きの最後の『?』も修正
これにて完結です。
最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
次回も宜しくお願い致します。