第47話 兄妹、日常に帰る……はずだった(終)
目覚ましが、六時三十分ちょうどに鳴った。
電子音。普通の、味気ないビープ音。
ユイナビは沈黙している。カーテンは自動では開かない。
いつもの部屋。いつもの天井。布団の端が少し冷たい。
春は、枕元のスマホを横目で見た。
通知はひとつだけ。
『本日は“人力モード”。起こしに行きません(妹)』
「……良い子だ」
そう呟いて、春は自分でカーテンを開けた。
差し込む光は眩しい。けれど、昨日までとは違って、眩しいままだ。
最適化も、微妙な角度調整も、温度制御もない。
ただ、朝。
洗面台で、冷たい水を顔に当てる。
タオルが少しゴワついている。乾燥しすぎたのかもしれない。
――そんな些細な不便が、妙に落ち着いた。
キッチンで卵を割る。
じゅう、と音が鳴る。焼き目が気持ち焦げた。
味噌汁の味は、正直うすい。
でも、十分だった。
「……普通、ってこういうのだったよな」
通学路には、ラインライトも、お辞儀する後輩たちもいなかった。
信号は延長されない。青が点滅を始めたら走る。
風が頬に当たる。
足音が二つ、三つ、追い越していく。
角を曲がると、パン屋の主人が手を振った。
「お、春くん。今日は“兄割”……は、休みにしとくか?」
「すみません、“普通割”で。あんぱんひとつ」
「承知」
受け取ったあんぱんは、ほんの少しだけ冷えていた。
それでいい。歩きながら、半分食べて、半分はポケットへ。
校門の上――昨日はまばたきしていた校名プレートは、今日は何も言わない。
門の前に、銀髪の少女が立っていた。
手を振るでもなく、走り寄るでもなく、ただ、そこに。
「おはよう、兄さん」
「おはよう、結衣」
それだけ言って、二人で昇降口へ向かった。
手はつながない。肩も触れない。
足音だけが、並んだ。
一限目、英語。
黒板は勝手に光らない。ノート端に“ツッコミ候補”も出てこない。
先生が、時々チョークを落とし、春が拾う。
前の席の男子が消しゴムを探し、春が遠くから滑らせる。
「サンキュ」と小さく言われ、春は小さくうなずいた。
二限目、数学。
誤字はある。間違う。
生徒が指摘し、先生が笑って謝る。
クラス全体が少しほぐれた。
春も笑った。
――不便だけど、いい。
休み時間。
スマホは震えない。
ユイナビの声は、しない。
春は机に突っ伏して、天井を見た。
騒がしくない。
誰も“兄さん”と呼ばない。
肩を叩く手も、ない。
(……静かだ)
胸のあたりで、何かが空いた。
昼のチャイム。
購買へ行く列は長い。
カツサンドは当然売り切れ。
春は残り物のピロシキを買って、教室に戻った。
窓際の席。
風が入ってくる。
紙がぱらぱら鳴る。
「兄さん」
結衣が、弁当箱を持って立っていた。
いつもより小さめの二段。
フタを開けると、玉子焼きが、二切れだけ。
「今日は“普通の日”だから、普通の量」
「……足りるか?」
「兄さんが半分、私が半分。足りるよ」
二人で、玉子焼きをひと切れずつ。
甘さは、昨日までの“最適化”ほど正確じゃない。
端のほうが少し焦げている。
でも、温かい。
「どう? 普通、って」
「……悪くない」
「ほんと?」
「……ちょっと、物足りない」
結衣が目を丸くした。
春は慌てて、ピロシキをひと口齧る。
「いや、その、昼飯の量の話だ! 俺は大食いなんだ、ほら!」
結衣はふっと笑って、弁当箱の底から、小さな包みを出した。
中には、小さく握られた塩むすびがふたつ。
「“もし足りなかったら”用。普通の保険だよ」
「ぬかりないな」
「ときどきだけ、ね」
夕方。
西日が黒板をオレンジに染める。
教室が空になっていく。
廊下の足音が少なくなり、部活の声が遠くへ流れる。
春は鞄を肩にかけた。
帰ろうとした、そのとき。
「兄さん」
窓際に、結衣。
頬杖をついて、こちらを見ている。
「今日の“普通”、何点?」
「……うーん。80点」
「高い」
「引き算もある。お前の騒がしさがない分、−20」
「ふふっ」
結衣は立ち上がって、教室の真ん中まで歩いてくる。
机の列の間で、向かい合った。
「ねえ、兄さん。昨日の約束、覚えてる?」
「“欲しいときだけ最適化”」
「うん。じゃあ――」
結衣は、ぎゅっと拳を握って、言った。
「いまだけ、最適化していい?」
「いま?」
「うん。告白の時間」
春は目を瞬かせた。
結衣は深呼吸をひとつして、はっきりと。
「私は、兄さんが大好き。
世界でいちばん、兄さんが好き。
兄さんが普通でいられるよう、世界を整えて、
兄さんが笑ったら、私も笑う」
放課後の教室。
時計の秒針が、カチ、カチ、と小さく刻む。
「知ってた」
春は言った。
結衣の唇の端がくい、と上がる。
「でも、いま言いたかったの。普通の日の終わりに、普通じゃないくらい、はっきりと」
「……了解」
春は鞄の紐を握り直した。
そして、ぎこちなく、人差し指を立てる。
「じゃあ、“最適化”のお願い」
「はい、なんでも」
「帰り道の信号、青を延長するの、一回だけ。
あと、商店街のパン屋、“兄割”は今日だけ復活。
それと――」
「それと?」
「手をつなぐ。信号の間だけ」
結衣の目が、晴れた空みたいに澄んだ。
「承認。ユイナビ、限定起動」
『了解。兄さん申請“帰り道限定最適化”を承認。信号一回延長、パン屋“兄割”適用、妹様の掌温度を兄さん最適値へ調整――冗談です♡』
春「最後だけは冗談でいい!」
校門を出る。
商店街の角まで、二人で歩く。
ポケットの中で、スマホが軽く震え――すぐにおとなしくなった。
“限定起動”は、ほんのわずかに空気を柔らかくする。
風鈴がよく鳴る。猫がよく眠る。そんな程度。
パン屋の主人が、笑って言う。
「“兄割”、今日だけ復活だ。あんぱん、二つね」
「ありがとうございます」
「普通の味でいくぞ」
受け取ったあんぱんは、さっきより少し温かい。
店の奥のオーブンから、ほんの少しだけ時間が巻き戻って、焼き立てがやってきたみたいに。
春は半分、結衣は半分。
小さな幸福が、ひと口。
信号が点滅を始める。
二人で小走り。
間に合いそうもない、その瞬間――青が、心なしか長引いた。
結衣が、そっと手を取った。
「信号の間だけ、最適化」
「うん」
指先が触れる。
温度調整なんて必要ない。
この体温は、いつも知っている。
渡り切って、手を離す。
春は、笑う。
結衣も、笑う。
7|屋根の下、これから
家の玄関。
靴を脱いで、廊下を歩く。
ユイナビは、今日は何も言わない。
照明は自動では点かない。
スイッチを押すのは、自分だ。
居間のテーブルに、二人で座る。
春は湯を沸かし、結衣はカップを並べる。
湯気が立つ。
ティーバッグの紙が、少し濡れる。
「兄さん」
「ん」
「明日も、“普通”にする?」
春は、少しだけ考えた。
窓の外で、鈴虫が鳴いている。
遠くで、バイクの音。
隣の家のテレビの笑い声。
「明日の朝は普通。
でも、昼休みの10分だけ最適化――“兄妹の笑顔が必要なとき”。
放課後は、普通。
夜は、お前が決めろ」
結衣は、ふにゃりと笑った。
「最高の要件定義。受注しました」
「発注した覚えはない」
「兄さんからのお願いは、いつでも最優先案件だから」
春は、湯呑を両手で包んだ。
温かさが、指から腕へ、少し遅れて胸へ届く。
「なあ、結衣」
「うん?」
「終わらないな、これからも」
「うん。終わらせないよ」
二人は湯呑を合わせる。
小さな音が、重なる。
その夜、春のスマホが静かに震えた。
開くと、短い通知。
『“普通”は続きます。
でも、もし困ったら――私が世界を少しだけ、やさしくします(妹)』
春は“了解”を押した。
すぐに、返信。
『了解、兄さん♡』
窓の外で、風が鳴る。
カーテンが微かに揺れる。
春はベッドに横になって、天井を見上げた。
今日は普通だった。
でも、普通じゃなかった。
誰かと分け合ったから。
目を閉じる。
眠りに落ちる前、ふっと笑う。
――明日の朝、目覚ましを止めるのは自分だ。
そして、もし寝坊しそうなら、
きっと、あのちょっと騒がしい妹が、戸をノックする。
「兄さん、起きて♡」
その声で、今日も明日も、世界は少しだけ最適化される。
“ちょうどいい”くらいに。
読んで頂きありがとうございます。
この物語は一度ここで終わりにしたいと思います。
続きを書くかもしれませんが、他の書きたいものを書き終えてから考えます。




