第弐話 御先(ミサキ)
境内を出て石段を下りはじめたところで、わたしは草むらに分け入る小径を見つけた。
金属の看板に書かれた案内文は、錆びて読み取れなかった。
「このあたりの海では、江戸時代から明治初期まで沿岸捕鯨が盛んに行われていました。この先には、沖に現れる鯨を漁師たちが見張っていた場所があるのです」
さびれた参道が大通りに見えるほどの悪路で、ひいきめに言っても獣道がいいところだ。なのに、なぜだか行かなければならない場所だと思った。
そんなわたしの背中を、彼の声が押した。
「すごくいい景色ですよ。さあ、行きましょう」
彼に促されて、わたしはその道に足を踏み入れた。
サンダルの足が、黄色いテープのようなものを踏んで、カサリと音を立てた。
道は尾根をたどり、やがて馬の背のような場所に出た。
人ひとりがやっと歩ける幅を残して、両側は海食崖の下に落ち込んでいる。目もくらむような断崖の下で、波が白く砕けた。
柵が設えてあったようだけど、台風に壊されたのか、大部分は崖下に崩落していた。
道を踏み外せば、助からないだろう。
「気をつけてくださいね。すこし前に、ここで転落事故があったらしいので」
「らしいって、どういうこと?」
「目撃者だという女性が錯乱状態で、まともな事情聴取ができなかったんです。ただ、彼女の着衣が乱れていたので、事故ではないかということになって。それで警察と消防が捜索はしたんですけど、死体は見つからなかったんです。結局、事件にはならず、それでおしまいです。ただ……」
そういう話は、先にしておいて欲しかった。
先に行くのをやめようかと思ったけど、目的地はすぐそこに見えていた。
話の続きを聞いてから決めてもいいか、とわたしは思った。
「それからどうなったの?」
「後日のことですが、目撃者の女性は自殺してしまったんです。せっかく助かったのに、どうしてでしょうね……」
わたしが彼とともにたどり着いたところは、切り立った断崖の突端だった。
四、五人が立てるかどうかという場所を柵で囲っただけの展望台だが、そこにあったのは、目を奪われるほどの絶景だった。
木の間ごしの視界を占めるのは、海と波だけ。よけいなものなどなにもない。灯台から見るよりずっと深い青が、静かに広がっていた。
それは、悲しみすら湛えているようで。
わたしは、その景色に感動した。
そして、思った。
うん、ここでいい、よね。
遺書もデスクの抽斗に置いてきたし、おあつらえむきに目撃者もいる。わたしが自殺したことは、確実に職場に伝わるはずだ。
あの人は、長く付き合っていた私を捨てて、部下についた若い女――会社の重役の娘に乗り換えた。それは職場のみんなが知ってるから、二人そろって白い目で見られるはずだ。
いい気味だ。少しくらいは傷ついてもらわないと。このままじゃ、わたし、浮かばれないもの。
そう思ったときだった。
彼が、わたしの背後から、べったりと腕を回してきた。
その気配の異様さに、ぞわりと身の毛がよだった。
「ばかだなぁ、君は」
まるで、何年も付き合った恋人にささやくように。
なれなれしく、彼は言った。
「くだらない男にだまされて、捨てられて。それで自殺なんて、だめだよ……」
え、わたし、そんな話してないのに。どうして知ってるの?
でも、自殺って、なんのこと?
わたしの問いは言葉にならない。なのに。
「君の命は、君のものだと思ってるだろう? でも、それは違うよ」
はっ、何かと思えば。
いまさら、そんな月並みな説教なんて……。
「だって君は、僕のものなんだからね」
その言葉には、わたしに欲情している生臭さと、わたしを見下す傲慢さが混ざり合っていた。
冗談やめてよ。たしかに、死にたいって打ち明けて、泣くのに胸は借りたけど、なに勘違いしてるんだか。
それに、結局、そういうことなんだ。
いいわよ、べつに。好きにすれば。
ああ、でも、遺体に変なモノを残したら、分析されて警察に捕まるかもしれないわよ。
そこまで考えて、わたしは気がついた。
もしそれがみんなに知られたら、どうなるの? 口さがない人たちの話題にされて、尾ひれがついて……。
それじゃ、せっかくのわたしの最期が――あの人たちへの復讐が、だいなしじゃない。
そんなのは嫌だ。絶対に。
「いやよっ。……助けてっ、だれかぁ」
「無駄だよ」
ああ、そうだ。わかっている。
声を限りに叫んでも、だれにも聞こえない。だれも、こんなところに来ない。
だから、ここがよかったんだものね。お互いに。
彼の手が、わたしの赤いワンピースを引き裂いた。
前合わせのボタンがはじけ飛び、上半身が下着まであらわになった。
「やめてよっ。けがらわしい」
なに、なんなの、これ。
わたしじゃない、よね?
彼の手を振りほどいて、わたしは馬の背に逃げた。
彼は、嗤いながら追ってきた。その手がまた、わたしの肩を掴む。引き戻されそうになって、もみあいになって。
わたしは、力の限りに彼を振り払った。
「なぜ……」
彼は掠れた声を上げた。
「愛して、いるのに」
彼の声が遠くなっていく。
うわぁ、という叫び声が最後だった。
わたしはそこで、我にかえった。
ひとりでぽつんと、馬の背に立っていた。
あれは、なんだったの?
わたしがされたこと、それとも、ただの白昼夢?
足元の岩礁で波の砕ける音が、聞こえていた。
そうだ、彼はどこにいったのだろう。
まさか……。
血の気が引いた。
おそるおそる崖下にやった目が、それを見てしまった。
人が。
あんなところに、人が横たわっている。
男性のようで、その周囲に赤黒いものが飛び散っている。
その人はぴくりとも動かず。
大きな波が岩礁を洗い、その引き波にさらわれるように。彼の姿は海中に消えた。
理解が現実に追いつかない。
まっ白になって、思考が混乱する。
わたしがやったの?
彼を突き落としたというの?
でも、だって……あれは。
海風が梢や草を鳴らす。
その音が、彼の声のように聞こえて。
わたしは怖くなって、無我夢中で走りだした。
鳥居まで戻ったところで、わたしは足を止めた。
息が切れていたし、足ももつれていた。
ここまでくれば、観光客のいる灯台も近い。彼も、もう追いかけてこないだろう。
いや、そうじゃない。
わたしの脳裏に、海に飲まれた彼の姿がフラッシュバックした。
彼はもう、追いかけてこられないのだった。
そうだ。わたしは、彼を……。
どうしよう。
わたしは思った。繰り返し、繰り返し。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
その言葉しか、思い浮かばない。
参道には、だれの姿もなかった。
だれかひとりでも、来ていたら。来てくれていたら。あんなことにならずにすんだのに。
だれも?
わたし今、なにか大事なことに……。
ああ、そうだ。
わたしの思考が、くるりと暗転した。
だれも来ていない、だれにも会っていない。つまり、だれも見ていない。
黙っていれば。
わたしが黙っていれば、なにもなかったことに、なるんじゃないの?
わたしはそのとき、悪魔だかなんだかわからないものに、良心を売り渡した。
そう、彼はあぶない場所に行って、勝手に転落したんだ。わたしは、なにもしていないし、なにも知らない。
ぺたり。
え、なに?
背後に、何者かの気配がした。
腰のあたりから、ぞわぞわと悪寒が背筋を這い上ってくる。
『逃がしませんよ』
彼の声が、聞こえたようで……。
わたしは、思わず振り返る。
参道にはもちろん、だれの姿もなかった。
蝉しぐれが降り注ぐだけだ。
なのに。
ぺたり、と。
足元の石敷きに、足跡がついた。
あたしに向かって、ぺたり、ぺたり、と足跡が追ってくる。
わたしの足より大きくて、指のかたちから土踏まずまで、はっきりとわかる。まちがいなく裸足だ。
わたしの足は、サンダルを履いている。
ならば、これは……。
彼、なの?
わたしはもう、一歩も動けなかった。
その足跡を見つめながら、わたしは必死に思いをめぐらせていた。どうしても思い出せないことがあるのだ。
彼って、だれ?
わたしはここに、だれと来たの?
立ちつくすわたしの足元に、またひとつ、足跡が増えた。
(了)