Prologue それぞれの空
ASTRAとの境界を閉じてから、三か月が過ぎた。
ルティスたちは、小さな町に古い二階建ての家を借りていた。
階段は歩くたびに軋み、窓の立て付けも少し悪い。
雨が強い日には、二階の窓際から水が入り込む。
それでも三人で暮らすには、十分だった。
「ここも駄目だった」
カイルが一枚の紙を机へ置いた。
朝食を終えたばかりのテーブルには、食器と一緒に地図や古い文献の写しが広がっている。
ルティスは紙を手に取った。
「何もなかった?」
「ああ。古い転移魔法の跡は残っていた。でも、境界とは関係なさそうだ」
「そっか……」
向かいに座っていたミナが、頬杖をついた。
壁には何枚もの紙が貼られている。
旅人から聞いた噂。
古い書物から書き写した記録。
世界の境界について書かれた、わずかな文章。
そして地図には、三人がこの三か月で訪れた場所にいくつもの印がつけられていた。
三人は、ただここで暮らしていたわけではない。
噂を聞けば確かめに行った。
古い文献が残っていると知れば探した。
境界に関係する場所があると聞けば、足を運んだ。
けれどASTRAへ続く道は、まだ見つかっていない。
「次は?」
ルティスが尋ねた。
カイルが別の紙を取る。
「北に古い神殿がある。境界に関する記述が残っているらしい」
「遠い?」
「片道半分くらいだ」
ミナが身を乗り出した。
「じゃあ、行ってみようよ」
「ああ。ただ、今日は無理だ」
「仕事?」
「昼から護衛が入ってる」
「そっか」
ミナは少し残念そうに椅子へもたれた。
「じゃあ明日は?」
「戻ってから決めよう」
「うん」
それはこの三か月ですっかり当たり前になった会話だった。
ルティスは地図へ目を落とした。
その端に、一つの文字が書かれている。
――ASTRA。
指先で、その文字に触れる。
あの日、境界の向こうに見えた姿を、ルティスは今でも覚えている。
エレナ。
本当なら、連れて帰るはずだった。
そのために、あそこまで辿り着いたはずだった。
けれど世界を守るために境界を閉じ、ルティスは再び、エレナをASTRAに残した。
――必ず助ける。
そう約束して。
あの旅は、一人で始まった。
魔法学院を追放され、七つの宝玉を巡り、いくつもの街を歩いた。
Ignis。
Aqua。
Gaia。
Aeris。
Volt。
Lumia。
Umbra。
失われた師との再会。
空に浮かぶ都市へ向かい。
雷鳴の響く街を抜け。
光の聖域へ辿り着いた。
八年前の夜。
暁の教団。
七つの宝玉。
世界の境界。
旅を始めた頃には、何一つ知らなかった。
そして今。
ルティスの隣には、カイルとミナがいる。
「……絶対、見つけようね」
ミナが呟いた。
ルティスは顔を上げる。
ミナも、地図の同じ場所を見ていた。
「うん」
それだけ答える。
カイルは何も言わなかった。
ただ、地図を静かに畳んだ。
それで十分だった。
三人とも、一度だって諦めたことはない。
エレナを、ASTRAから連れ戻す。
それはもう、改めて口にするような決意ではなかった。
三人にとって、当たり前のことになっていた。
「じゃあルティス」
「なに?」
「買い物付き合って」
「嫌」
「早いって!」
「荷物持ちでしょ」
「違うよ!」
「じゃあ何?」
「…………」
ルティスが見つめる。
「……ちょっとだけ持ってもらうかもしれないけど」
「やっぱり」
「ちょっとだって!」
カイルが小さく笑った。
「俺は巻き込むなよ」
「カイルも来ればいいじゃん」
「仕事だ」
「じゃあ終わってから」
「なんで俺まで行くんだ」
「三人の方が楽しいでしょ」
「荷物持ちが二人になるからだろ」
「違うってば!」
開け放した窓から、朝の風が入り込んだ。
ミナの赤い髪をひと撫でして、そのまま部屋を抜けていく。
ルティスは、ほんの一瞬だけその風を目で追った。
「……?」
「どうしたの?」
「ううん」
ルティスは立ち上がる。
「なんでもない」
「じゃあ行こう!」
「行くとは言ってない」
「もう立ったじゃん」
「片づけるだけ」
「ついででいいから!」
「嫌」
「ルティスー!」
騒がしい声が、小さな家に響く。
こんな毎日も、悪くない。
ルティスは、そう思っていた。
ただ、この穏やかな日々の先に、まだ続きがあることも知っている。
エレナを連れ戻すまで。
あの旅は、まだ終わっていない。
空の色が違う。
雲の形も。
大地の匂いも。
遠くに見える山々も。
夜になれば、星の並びさえ違って見える。
――ASTRA。
エレナは高台に立ち、遠くの空を眺めていた。
ここへ来て、八年以上の月日が流れた。
もう見慣れたはずの景色なのに、時々ひどく遠い場所へ来てしまったように感じる。
いや。
実際、遠いのだろう。
山を越えれば帰れるわけではない。
海を渡れば辿り着けるわけでもない。
世界そのものが、違う。
エレナは空を見上げた。
この空のどこかに、ルティスたちの世界があるわけではない。
そんなことは分かっている。
それでも空を見上げると、思い出す。
ルティス。
八年前、自分の封じられた記憶。
それを自ら取り戻し、あの子はとうとうASTRAまで辿り着いた。
久しぶりに見たルティスは、エレナの記憶に残っていた少女とは少し違っていた。
強くなった。
随分、頼もしくなった。
それでも――
あの目だけは、昔と変わっていなかった。
「…………」
エレナの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「また向こうのこと考えてたの?」
背後から声がした。
エレナは振り返る。
一人の少女が立っていた。
淡い銀青色の髪。
澄んだ青い瞳。
エレナがASTRAへ来てから出会った少女だった。
「……分かる?」
「なんとなく」
少女はエレナの隣まで来る。
「空を見てる時は、だいたいそうだから」
「そんなに?」
「うん」
「そっか……」
二人で、同じ空を見る。
「帰りたい?」
少女が尋ねた。
「帰るよ」
エレナは答えた。
迷いはなかった。
「いつかじゃない」
少女がエレナを見る。
「絶対に帰るって決めたの」
それから、少しだけ間を置いて。
「みんなのところへ」
少女は何も言わなかった。
ただ、小さく笑った。
エレナも笑い返す。
この少女と出会ったのは、ASTRAへ来てからだった。
最初から、こんなふうに話せたわけではない。
今では、二人で過ごす時間も増えた。
当然と言えば当然だ。
ASTRAに来てから出会えた人間は彼女だけだからだ。
「そろそろ戻ろうか」
少女が言った。
「うん」
二人は高台を下り始めた。
しばらく歩くと、静かな水辺へ出る。
ASTRAの空を映した水面が、淡い光を揺らしていた。
少女がその横を歩いていく。
エレナも後に続く。
――ぽつ。
小さな音がした。
エレナが足を止める。
「……?」
水面に、小さな波紋が広がっている。
何か落ちたのだろう。
そう思って、歩き出そうとした。
その時。
一滴の水が、水面から離れた。
「…………?」
エレナは目を凝らす。
見間違いではない。
水滴が、宙に浮いている。
そして、ゆっくりと動き始めた。
前を歩く、少女の方へ。
「…………」
水滴が、エレナの横を通り過ぎる。
そのまま――
少女の頬に触れた。
「ん?」
小さく弾ける。
少女が立ち止まり、頬へ手をやった。
「……水?」
振り返る。
「どうしたの?」
エレナは答えなかった。
少女を見る。
水面を見る。
そして、もう一度少女を見る。
「エレナ?」
「…………」
何だったのだろう。
ただ水が跳ねただけ。
そう言われれば、それだけのことにも思える。
「……ううん」
エレナは首を横に振った。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
二人は、また歩き始める。
少女はもう気にしていない。
けれどエレナは一度だけ、振り返った。
静かな水面。
淡い光。
何も変わらない、ASTRAの景色。
それでも。
胸の奥に、小さな違和感だけが残っていた。
二つの世界。
その間には、今も境界がある。
こちら側では、
ルティスがエレナへ続く道を探している。
ASTRAでは、
エレナが帰る道を探している。
互いの声は届かない。
互いの姿も見えない。
それでも。
二人は、同じものを諦めてはいなかった。
そして。
そのすぐそばで起きた、
ほんの小さな出来事。
ルティスが目で追った、
一瞬の風。
エレナが目にした、
一滴の水。
その意味を――
まだ、誰も知らない。
―― Prologue END ――




