十 今来むと
☾玉日女命☽
【6月 29日 月曜日 一日目】
『お姉ちゃんは……好きな人と離ればなれになって、寂しくないの?』
『そうですね。ちょっと、寂しいですね。でも……』
――――……。
一日経ってもまだ、私は鮫さんとのデートが忘れられませんでした。
あの時の、どこかふわふわした気持ちが今も残っています。
(昨日は、楽しかったな……)
散歩中も、ずっと頭の中はそのことばかりでした。
「あれ、タマヒメ?」
だから、顔に出ていたのでしょうか。
「タマヒメ……なんか、いいことでもあった?」
偶然会ったヨドヒメさんに、そんなことを聞かれてしまいました。
私は昨日のことをつまびらかに話しました。恥ずかしいことでしたけど、それと同じくらい、友達のヨドヒメさんには知っていてほしかったんです。助言ももらったことですし、なにも言わないのは不義理だと思ったのもあります。
「へえ。この初心なタマヒメをそこまで本気にさせたのか。あの男、やるねえ」
ヨドヒメさんはそう言ってくつくつと喉を鳴らしました。
本気。その言葉の裏には、やはり色恋の意味合いが強く込められているんだと思います。
「いえ、でも……やっぱり、まだ分からなくて」
しかしその方面の話になると、私はたちまち自信がなくなってしまいます。まだよく分からない。それは照れ隠しでもなく、誤魔化しでもなく、私の紛れもない本音でした。
「そうなんだ。まあ、好きなら告白断らないか」
「っ……は、はい」
あまり思い出したくないことを思い出してしまいます。デートの最後、鮫さんはまた私に気持ちを伝えてくれました。けれども私はそれを拒絶してしまった。まだどうしても怖くて、一歩が踏み出せないから。
鮫さんに、なんの問題もありません。ただ私がいけないんです。私の決心がついていないから、曖昧な返事で大事な決断の時期を延ばそうとしているんです。
「でもさ、それならいっそ断ったら?」
「え……」
基本的にヨドヒメさんは、私とは物の考え方が大きく異なる方です。もちろん、だから嫌っているということはなく、むしろ私に常に新鮮な視点を与えてくれる方として、私はヨドヒメさんを頼ることさえあります。
今回も、私やサグメちゃんで話していたらとても出てこないような意見を出してくれました。
「だって、今のところ付き合う気はないんでしょ?」
「それは……」
少なくとも現時点において、その質問に対する私の答えは明確でした。私はそれを口にすべきでした。しかし私は言霊を操る巫女でもあります。そんな私が明確な答えを口にしてしまったことによる影響を――それは考えるまでもなく杞憂なんですけど――考えた時、私はどうしても答えることができなくなってしまいました。ようするに私には、一縷の希望を手放す勇気が足りなかったんです。
ヨドヒメさんは私の沈黙を肯定と受け取ったのか、話を続けます。
「なら、いつまでも気を持たせ続けるのもかわいそうよ。あぁもちろん、タマヒメに付き合う気があるなら別だけどね?」
ヨドヒメさんはすっきりした人です。その物言いはいつも決断力に満ちていて、私の強く羨望するところにありました。
そのヨドヒメさんからしたら、私の行為は、鮫さんに気を持たせているようなもの……。
「だって……タマヒメからデートに誘って、手も繋いだんでしょ?」
言われて、なるほど確かに私はそういう素振りを見せていた、と思い至りました。これが酸いも甘いも噛み締めた大人同士の恋愛ならば、特段気にすることでもない駆け引きの一つで済ませられたのかもしれません。けれども、私たちはお互いにそんな経験はなく、すべてが初めてで驚きに満ちた新境地を歩いています。私と鮫さんにとってそれは、善かれ悪しかれ、とても大きな反響を呼ぶものだったのかもしれません。
「ま、あたしのこれはあくまで一般論だからさ。あの男もなんか風変りだったし、これには当てはまらないかもしれないから、そんな気にしないでほしいんだけど」
「いえ……参考になりました」
「そう?」
軽い様子で相槌を打つヨドヒメさんですが、それが全く私への慮りからきている振る舞いだということに気づかないほど、私も図太くはありません。
(……話さなきゃ。鮫さんと……)
それだけは明らかでした。そしてそこから先は何も決まっていませんでした。鮫さんと話して……謝る? 告白への返事を伝える? 分かりません。自分がどうしたいのか、いまひとつ納得のいく答えが見つかりません。一体私は人間との恋を怖がっています。ですからそれも相まって、素直に鮫さんという人に向き合うことが、そんな簡単なことが難しいんです。
それでもとりあえず、なにかを言わなければいけない。
鮫さんは、ここのところ毎日私に会いに来てくれている。だから今日もきっと来てくれる。
私は館にて、その来訪をずっと待っていました。
【6月 30日 火曜日 二日目】
(昨日は鮫さん、来なかったな……)
朝。
どことなく憂鬱な曇り空の下、私はぼんやりとそんなことを考えていました。
あのデートの日までは、鮫さんと出会ってからずっと、一日も欠かさずこちらに来ていたのに。
それが途切れてしまった……
「いえ……よくよく考えてみたら、毎日来るのは変ですよ、鮫さん」
すぐにそう思い直します。そうです。そんな義務も必要もないのに、毎日来ていた鮫さんが少し変わっていたんです。それに私もすっかり慣れてしまっていたから、たった一日彼が姿を見せなかっただけで、それを異変だと感じてしまった。尋常と異常の区別がつかなくなってしまった自分がおかしくて、わたしは一人、小さな笑みを浮かべていました。
鮫さんは待っていればいつか来るだろうということで、ひとまず納得しました。
「……サグメちゃんはどうしてるんだろう」
鮫さんと同じくらい気になったのは、サグメちゃん。三日前にこの高天原を追放処分になった、私の親友です。今は『中史』の庇護の下、葦原で暮らしています。
今までずっと一緒に暮らしていたので、三日顔を合わせないだけでなんだか心配になってきます。私よりはずっとしっかりした子ではありますが、なんだかんだで飄々と生きていそうな性格ではありますが、サグメちゃんが時折見せる、再会の約束をした恋人を待つような、恋しそうな遠い目が、私になんだかこの子はそのまま放っておいたらいけない子なんだという情を抱かせます。その目がまた、タケイナダさんの帰りを待っていたお姉ちゃんのそれと重なって、無性に心配になります。
大丈夫でしょうか。ちゃんとやれているでしょうか。気になります。
「……会いに行こうかな」
別に私はサグメちゃんと違って、好きなようにこちらとあちらを移動できますから、顔を見たくなったら直接会いに行けばいいだけです。
……でも、三日会わないだけで心配になって会いにきた、なんて。そんなことを言ったら、サグメちゃんは絶対馬鹿にしてきます。それは嫌なので、また、これからはこれくらいの距離感が普通になるんですから、それに慣れるという意味でも、今はやめておくことにしました。
それにサグメちゃん、なんだかんだ言いながら、鮫さんに感謝していました。きっと葦原でも、鮫さんと交流しているはずです。
鮫さんがこちらに来た時に、サグメちゃんの近況を訊ねればいい話でした。
つまるところ、その日も私はいつも通りに一日を過ごしながら、心のどこかで鮫さんが来るのを待っていたんです。
【7月 1日 水曜日 三日目】
数日に一度の頻度で、私は居館の庭先で食事を摂るようにしていました。私たち神霊は、元は自然の一部です。その大自然に囲まれながらの食事というのは、どこか心が洗われる、大仰な表現をすれば、神聖な行為なのでした。
食事を終えた後の時間は、一日で一番、気が緩みます。生の野望も懊悩もぜんぶ放擲して、時間が流れるのに身を任せたくなる。
そんな心持だったので、ついぽろっと口に出てしまいました。
「今日も来ないのかな……」
ここに私の他には神はいなくて、それは私だけが聞いていればいいことだったので、誰が、と明示する必要もありませんでした。それは裏を返せば、私がふとした時に待っているのがただその人であることを認めるようなものでした。
領巾の裾を握る手に力が入る。今まであれほど身勝手に、私のところへやって来ては歯の浮くような台詞を並べて私の心をあんなにも搔き乱していたというのに、いざ私が会おうと準備をしてみれば、ぱったり姿を見せなくなった。ずるいです。
「三日会わなくても……まだ、普通ですよね」
どこか自分に言い聞かせるようだったのは、私の心の弱さの表れでした。
そういう経緯でまたあの人に関する一通りの思考を終えようという時、ズシンと地響きがしました。揺れています。この高天原が揺れています。次いで地響きに爆発音のようなものも混ざり始め、空を鳥たちが逃げるように羽ばたいていきます。だんだん近づいてくる地鳴りは、ついに私の居館のすぐそこまで到達し――
天地開闢のごとき轟音が鳴り響き、私の館の背後に位置していた山が一つ、真っ二つに割れてしまいました。
木々が根元から落ち土砂が飛び散り、その被害は私の館のすぐ近くまで及びました。
凄まじい砂塵が視界を奪う中、真っ二つに割れた山の中心に、なにか影が立っているのに気づきました。
「うぃ~……」
視界が晴れて視認が可能になれば、それは先の騒動の被害者であったタヂカラオさんでした。どうやらこの山を割ったのはタヂカラオさんの拳だったようです。高天原一の剛力ならば、それくらい可能なんだと思います。同じ神でも私には到底不可能な所業ですけど。
「え、えっと……タヂカラオさん?」
「ん~……? うぇぷ」
彼は私を一瞥した後、鳶のように首を傾げながらその場にばたんとうつ伏せで倒れてしまいました。
彼が手にしていた徳利がころころと私の足元まで転がってきます。泥酔して、酔いつぶれてしまったようです。
事情は分かりませんでしたが、とりあえず家に上げて介抱しました。
しばらくして意識を取り戻したタヂカラオさんに、私は事情を聞きました。
「いやな。この間会った水遥っていただろ」
腹の奥から心臓を突き上げられたような静かな衝撃を受けました。まさか彼の口から鮫さんの名前が出るとは思っていなかった私は、心の備えをしていなかったんです。
「あいつ、久々になかなかやる奴みたいだったからな。葦原に居着いちまった建御雷、建御名方の代わりの喧嘩相手になるんじゃねえかと思って、鍛えてたんだよ。酒はほんの景気づけのつもりだったんだが、ちと飲み過ぎたな」
呵呵と笑うタヂカラオさんは、すでに快復したのか布団から起き出て歩き出します。
「面倒見てくれたのは礼を言うぜ、ありがとな。……じゃ、目ぇ覚めたから、もういっちょ行ってくるぜ」
そう言って、私に背を向けたまま手を振って出ていってしまいました。
「あ……お酒」
臥所の傍には、タヂカラオさんが持ってきていた神酒が置かれたままでした。置き忘れてしまったようです。
まだタヂカラオさんは家の近くにいるでしょうし、すぐに声を掛けて届けよう。そう思って彼の去った方へ手を伸ばそうとして……私の目は再度その神酒を捉えました。その時私の中に些細な邪な思いが湧いてしまいました。
「……ちょっとだけなら、いいよね」
どこか心と体が一致しないようなぎこちなさを覚えながら、私は盃を探していきます。
普段あまりお酒は飲まない方ですが、飲めないわけではありません。ただあまり良さが分からないので、自分から積極的に飲むことはありませんでした。
しかしこの時ばかりは無性にその酒の魔力に頼りたくなりました。来るかどうか分からない未来のことで頭を悩ませるのが、いい加減無意味なことに思えてきたんです。
タヂカラオさんには、後で正直に言って謝ればいい――言い訳はすぐに思い浮かびました。もうこうなれば私の意思を阻むものはなにもありませんでした。私は念のため戸をきっちり閉めて、光さえ差し込まないうす暗い家の中、盃に酒をとくとくと注いでいきます。
「こんな昼間からお酒なんて、初めてだな……」
なみなみと注がれた透明な液体に、私は恐る恐る口を付けました。
「んっ……んく……」
室内は全くの静寂だったので、自分の喉の鳴る音が鮮明に聞こえます。
やはり特に美味しくはないその酒を、私は一気に飲み干しました。
「…………」
いつもならここでやめていたのかもしれませんが、今日は事情が違いました。
私はなにかに魅入られたように迷いない動作で次の酒を注ぎ、また浴びるように飲んでいきました。
それを繰り返していくうちに、心のどこかに微醺を帯びてきているような気がし始めました。それほどすぐに酔いが回るはずはないので気のせいであることに間違いはないのですが、それでも気分は高揚し、それで勢いづいた私は、更に神酒を煽っていきます。
「もし今鮫さんが来たら、幻滅されちゃうのかな……」
そう考えるうちに、本当に酔いが回ってきたようでした。体が熱くなって、何も考える気が起きなくなる。酒を飲むという行為そのものがどこか楽しくなって、徳利の中身はあっという間に空になってしまいました。人間ならば健康に支障をきたすような速度で飲み干してしまいましたが、私は神なのでこれくらいなんてことありません。
ふわふわとした酩酊感が心地よくで、私は意味もなくくすくすと笑ってしました。
その笑いが更なる喜楽の感情の呼び水となって、神御衣もそのままにその場に寝ころびます。
大丈夫。鮫さんはきっと来る。その確信がありました。ちゃんと来てくれるから、そうしたら、会って、話さなきゃ。なにを? 何を話すべきかよく思い出せません。でも、それもきっと平気です。鮫さんに聞いてみましょう。そうすればきっと答えてくれます。
ああ、なんだか、今までの悩みが馬鹿らしく思えてきました、鮫さん、今なら私、あなたの気持ちを受け入れられる気がします。どうして今この場に居合わせなかったんでしょう、運のない人です。私はあなたの事、嫌いじゃないのに。むしろ好きですよ。それがただ、そういう好きかどうか分からないだけです。かっこよくて、私のことを思ってくれて、気遣いもできる、素敵な人だと思います。ヨドヒメさんも、タヂカラオさんも、あなたのこと褒めていました。
ですからきっと大丈夫です。全部ぜんぶなんとかなります。ですので早く来てください。
【7月 2日 木曜日 四日目】
昨日のことははっきりと覚えています。
「……馬鹿。馬鹿、馬鹿……」
それはほとんど自傷行為でした。そして臆病な現実逃避でした。
お酒の力で悩みを忘れようだなんて。自分がそんな行動を取ってしまったことがとても衝撃的で、私は自分の道徳や倫理観などそういうものが分からなくなりました。信じられなくなりました。
ひどい頭痛と嘔吐感がして、布団の中から身体を起こすので精いっぱいです。これが、いわゆる二日酔いの症状なんでしょうか。初めてのことで、なんだか怖い。体調がすこぶる悪くて、このまま死んでしまうのではないかと不安になる。そんなことはないと言い聞かせても、心は独りでに揺れてしまいます。
「………………」
でも……悪いことばかりでもないですね。
すっきりしました。
不満を吐き出せました。
冷静になって考えてみると、そうですね。鮫さん、あなたも少し悪いです。
次にいつ会いに来てくれるのか、言ってくれたらよかった。
そうすれば、こんなに気に病むこともなかったんです。
いえ、そもそも……
どうして私はそんなに鮫さんのことを気にしているんでしょうか。
また会える保証なんて何もない、まして再会を約束したわけでもないです。
たとえ約束をしていたとしても、どうして私が律儀に待つ必要があるんでしょう。
そんな義理、ないです。
思い返せば、鮫さんはいつも勝手に来ていただけです。
別に私には話す理由もなければ、話したいとも思っていませんでした。
ただ話しかけられたから、それに答えていただけです。
鮫さんのやりたいことに、付き合ってあげていたのに。
鮫さんの要望に、応えてあげていたのに。
それなのにもう会いに来ないなんて、なんて不義理。
別に私はあなたのこと、待っていないんですよ。
これだけ会いに来なかったら、すぐにあなたのことなんて忘れてしまいます。
それでもいいなら、会いに来る必要はありませんけど。
でも、違いますよね?
鮫さん、私のこと好きなんですよね。
なら、私に忘れられたら困るはずです。
だって、私のこと好きなんですから。
ほら、鮫さん。私があなたのこと待っていてあげてる間に、早く来てください。
今日だけはもう一日中待っていてあげます。一睡もせずにあなたを待っていてあげます。
だから来てください。
私に忘れられてもいいというなら、来なくてもいいですけど。そんなことないですよね。
来ないと鮫さん、後悔しても知らないですからね。
【7月 3日 金曜日 五日目】
時間の感覚も薄れてきた暗い室内で、私はゆっくりと口を開きました。
「なに、やってるんだろ……」
本当に一睡もせずに今日を迎えた私は、呆然自失としてそこに立っていました。おそらくもうお昼を過ぎています。
酔いによる昂揚感からの二日酔いで、私は正気を失っていました。冷静じゃありませんでした。
私は昨日の私の考えたことが信じられませんでした。
あんな。あんな……他力本願で、自分は何も悪くないような気でいた昨日の私が、あれが私なの?
自分の臆病を他人のせいにして、自分は何もせずに家で寝ていただけの。
それが本当の私? わがままで、傲慢で、女の嫌なところを寄せ集めたようなあれが?
もしかしたら、そうなのかもしれない。鮫さんはそれを見破って、もう私のことなんて見限ったのかもしれない。飽きられたのかもしれない。
私はそれを信じたくありませんでした。せめて清い心でありたかったんです。
気づけばもう二日ほど外に出ていません。私は重い体を無理やり起こして、久方ぶりに太陽の光を浴びました。
二日前にお酒を飲んだきりで、まともに食事を摂っていません。
栄養が足りないと不健康になるのは人も神も変わりません。御魂がどこか不安定で、館の近くを散歩するだけでもふらついてしまう。
外出したところで、考えることは同じでした。鮫さんのことです。
どれだけ思考を巡らして、いろんな可能性を考えたところで、鮫さんがもう五日も姿を見せていないのは覆せぬ事実。様々な曖昧な現実の中で、それだけははっきりしていて、だからこそ私をこんなにも苦しめる。ままならない――
「タ、タマヒメ!? どうしたの、すごい顔色悪いわよ!?」
声を掛けられました。正面にヨドヒメさんがいました。
「あ、ヨドヒメさん……。鮫さんが、もう五日も会いに来てくれないんです。でも普通ですよね? 五日くらい来なくても、普通のことですよね?」
「……タマヒメ」
どういうわけか、ヨドヒメさんは答えてくれませんでした。その代わり、なにやら私を心配するような目で優しくしてくれました。ヨドヒメさんは、やっぱりいい神です。
外に出れば気分が晴れるかもしれないと思ったけど、そんなことは全然なかった。
どの道を通ったかも覚えてないけど、私は自分の居館に戻ってきていた。
心を覆いつくす虚無感から布団に入ってみるけれど、まったく眠気が起きない。体は確実に疲れているはずなのに、ぜんぜん眠くない。根拠のない前向きな気持ちが涌き出てきて、それどころじゃない。
それも全部嘘だって、分かってるのに。
「……なんだっけ」
頭の中でぐるぐると渦巻くなにかが思考の邪魔をして、そもそも私は何を考えていたのかも忘れる。元々私は一体なにで悩んでいたんだっけ。鮫さんが来ないから悲しい? なら待てばいいのに。これじゃない。じゃななんだろう。……ああ、そうだ。サグメちゃん。サグメちゃんと会って話したかったんだ。もう一週間近く会ってないな。なんで会いにいかなかったんだっけ。……あれ? ほんとにこれが正しい? 私はそんなことで悩んでた? そうじゃない気がする。もっと、こう、根本的な……鮫さんが、えっと……
「……話」
そう。話がある。
鮫さんに、話がある!
……何の話だっけ。
思い出せない。思い出したくない。
でも、会えば思い出すかもしれない。
ともかく鮫さん、あなたが来てくれればいい。それで万事解決なのに。
なんで来てくれないの?
私、ずっとずっと待ってる。
あなたをずっと待ってるのに。
なのに――
会いたい。
会いたい会いたい会いたい会いたい。
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい――
なんで来てくれないの?
やっぱり私がなにかしたから?
この間のデートでなにかいけなかったから?
告白を断ったから?
そうだ。絶対そうだ。
私が告白を断ったから。普通に考えればすぐ分かることだ。
断ったんだから、私が自分から拒絶したんだから。
だから鮫さんが、私のことを諦めた。だから来ない。
とても自然な流れ。
だとしたら、ひどい。
ひどいひどい。
今、私、こんなにあなたを待ってるのに。
今、私、こんなにあなたに会いたいのに。
会いたいときに限って、いてくれない。
会いたい。
会いたい。
会いたい会いたい会いたい。
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい――
なのに、私が断ったから会いに来てくれない!
『そう決めつけるのは、些か早計ではないか?』
「……え」
……鮫さん?
『言ったはずだろう。君に振り向いてもらうため、努力を続けるのだとな』
……鮫さん。鮫さん。鮫さん!
『君を諦めるなど、無理な話だ』
「鮫さん! やっと会いに来てくれたんですね!」
その声を聞いて、私はようやく救われた気持ちになった。
ずっと待っていてよかった。まだ見捨てられてなかった。
『長らくこちらに来れない事情があってな。すまなかった』
「あ……いえ。それは、私が悪いんです。私があなたの告白を断ったりしたから……」
私がそう言うと、鮫さんは笑って、
『君が気に病む必要など、万に一つもありはしない。決心がついていないのは、仕方のないことだからな』
こんな私を、許してくれる。
とても、優しい人。
「そ……そうです! 私、なんとか答えを出そうと頑張ったんです! がんばって……でも、どうしても無理で――」
私がいくら弱みを吐いても、鮫さんは幻滅したりしない。
そんな私を受け入れてくれる。
『君は頑張った。ならば、今無理に変わる必要はない。僕は、今のままの君を愛しているのだから』
誉めてくれた。
私の頑張り、褒めてくれた。
「ホントですか? 私、このままでもいいんですか? それでも、鮫さんは見捨てたり……」
結局ダメだったけど、変われなかったけど。
そんな私にも、鮫さんは失望したりしない!
『するわけがないだろう?』
「は、はい! 嬉しいです! 私も、鮫さんのこと――…………」
…………。
………………。
…………………………え?
このままの私も……こんな独善的な私でも、鮫さんは愛してくれる?
今、そう言ったの? 鮫さんは――
「…………いや」
……違う。
違う。
違う!
「――鮫さんは、そんな風に私を甘やかさない! あなたは誰!?」
嬉しい気持ちも幸せな気分も死ぬ気で噛み殺して、私は叫ぶ。
『なにを――』
そして、咄嗟に魔術の波を送る。
――ブゥン……
すると、そこに立っていた鮫さんらしきものの影は、霧のようにさぁっと消えてしまった。
「は……はぁ……はぁ」
何が起きたのか。私は何を見ていたのか理解できなくて、息が上がる。
それでも思考を止めてしまったら、それこそ本当の終わりだ。
「……今のは……」
断定はできない。けどあれは、人じゃない。神でもない。
この世ならざる異形。
(……妖)
私は疲れているのだろう。
そんなの、幻覚だ。
妖の多くは、思いに引き寄せられる。
私がおかしなことばかり考えていたから、なにかよからぬものを引き付けてしまった。
怪異についての知識は、人並にあるから分かる。
あれは上閇村遠野郷に伝わる『オマク』――その亜種だ。
オマクは人の思いが霊体となったもの。普通に考えれば鮫さんの思いがオマクとなって私に会いに来たことになる。でも今のはきっと逆。私の鮫さんへの思いがそのままオマクとなっただけ。
ようするに、私が生み出した幻覚。
私が、変なことを考えなければ――
「……もう、なんなの…………っ」
涙が流れた。
臥所にぽたぽたと、小さな染みが広がっていく。
つらい。
つらくて寂しくて苦しい。
もうこんなのやだよ。
「……ぅ……ぅぇ」
視界がぼんやりとして、熱い涙が流れていく。
なんだか、踏んだり蹴ったりだ。
「ぅぐ……ぁ……あぁっ……」
鮫さんの偽物。それも私が作った偽物。
そんなので私は喜んだ。ぬか喜び。
一人で、なにやってるだろう。
「タマヒメ、いる? なんか心配になって、来たんだけど……――タマヒメ!? ちょっと、なにがあったの!?」
激しい音を立てて、館の戸が開かれた。
誰かが私に駆け寄ってきた。
――ぎゅっ。
あたたかい。
なにかのぬくもりを感じた。
どうしてか、息が少し苦しい気がする。
「ヨ……ヨドヒメさんっ……! 私、わたし……もう……!」
私はとにかくそれにしがみついて、わんわん泣いた。
その方の服の袖を濡らしていく。
「タマヒメ……大丈夫だよ。ゆっくりでいいから、私に話を聞かせて?」
ぽんぽんと、頭を撫でられた。
泣き疲れた私は、いつの間にか寝てしまっていた――
【7月 4日 土曜日 六日目】
ヨドヒメさんには、本当に感謝しないといけません。
昨日は、私が寝るまで傍にいてくれたようでした。朝起きたとき、机には体を大事にしろという旨の置手紙と、朝食の作り置きが置いてありました。……こういう時、彼女の素っ気ない優しさが心に沁みます。今度なにか、お礼をしなくてはなりません。
たっぷりと睡眠をとったことで体調と精神状態はおおむね回復したようです。……そうは言っても、昨日までも自分は冷静だと思いながらあのようなことを考えていたので、あまりこの自覚はあてにならないかもしれません。
私は清潔な服に着替え、ヨドヒメさんの用意してくれた朝食を食べ終えると、外に出ました。
私は庭先まで歩いて、そこで立ち止まります。
数日前、私はここで鮫さんの来訪を待っていました。
その気持ち自体は、今も変わりません。
鮫さんに来てほしいというのは、私の確かな思いです。
ただ、昨日までのような偏執狂のごとき心は薄まっていました。
そうしてまたしばらくその場に立っていると、背後で何者かが砂利を踏む音がしました。
「――鮫さん?」
私は直前までその人のことを考えていたのと、無意識にその人の来訪を望んでいたという二つの理由から、咄嗟にそう呟いてしまいました。
しかし私が振り返った時、そこに立っていたのは別の人。
「あ、中史さん……と、月読様……?」
鮫さんの朋友で、『中史』の嫡子である中史時さん。
私が現在仕えている、三貴子の一柱、月読命。
まさかここに来るなどとは予想もしていなかった二人でした。
「悪いな、ミズじゃなくて」
「あ、い、いいえっ!」
どうやら私の声が聞こえていたようで、中史さんが申し訳なさそうに言います。
そんな顔をされると、私の方が申し訳なく思えてきます。私は必死になって断りました。
「え、えっと……中史さんは、どうしてここに……?」
月読様はともかく、中史さんが私になんらかの用というのは、あまり想像がつきません。
私はなにごとかと勘案しながら、中史さんの回答を待っていました。
「いや、大した用事じゃないんですけどね。このままだと、流石にあいつが不憫だと思いまして」
果たして返ってきた答えは、ひどく曖昧なものでした。
しかし、あいつ――明らかに含みのある人称代名詞に、私は一も二もなく飛びついてしまいます。
「あいつって、鮫さんのことですか!?」
私は一縷の望みを託して尋ねました。
「はい。あいつ、もう一週間も貴女に会いに来てないそうですね」
中史さんは肯定しました。それはつまり中史さんが、鮫さんの話をしにここへ来たということを意味していました。しかも、鮫さんがこちらへ一週間近く姿を見せていないことを知っている。
私は内なる興奮を抑えつつ答えていきます。
「は、はい……あの、中史さんは鮫さんから、何か聞いてませんか? 急に姿を見せなくなったので、心配になってしまって……」
鮫さんは、もう六日ここに来ていない。その理由を中史さんが知っているというなら、是非知りたかったのです。しかしその思惑がそのまま中史さんに伝わってしまうのは少し恥ずかしいものがあったので、私はそんな遠回しな言い方をしてしまいました。
「それだけですか?」
中史さんの鋭い双眸が、私の目を覗き込むようにします。彼がそうしていると、まるで心の底まで見透かされているような、すべてを丸裸にされているような、不思議な感覚に陥りました。天照様や月読様とお話をしている時に感じるものと同様の、それはきっと上に立つ者としての驚異的な素質。
「えっと……?」
その視線に晒された私は、ただ聞き返すしかありませんでした。
「ここに来る前に、與止日女命という神から聞きました。貴女――ミズが来なくて、泣いていたそうじゃないですか」
「っ! それは、そのぉ……」
ヨドヒメさんが、昨日の話を中史さんにしていた。
昨日の私の事情を把握されていたことを知って、私は途端羞恥心が沸き上がってきました。
どうにかして誤魔化すことはできないかと、考えを巡らします。
「本当に心配だけですか? その間、あいつに会いたいとか思わなかったんですか?」
しかしそんなことは許さないとばかりに、中史さんは矢継ぎ早に質問を重ねます。
「それは……思いました、けど」
私はついその勢いに呑まれてしまいました。考えのまとまっていない無防備な状態で、私は強制的に肯定させられてしまいました。
「じゃあ、どうして会えなかったんですかね」
「そ、それは……鮫さんが、来ないから」
そう。私が六日間待っていても、鮫さんは来なかった。
私はその理由を知りたい。
「まあそうですね。一週間も貴女を放っておくミズもミズです。けど――」
中史さんも昨日までの私と同じことを思っていたのだと知って少し安心しました。
「――なんで自分から会いには行かないんだ? 天探女のような例外を除けば、神の出入りは自由なはずだろ」
そして次の瞬間、私はまったく心の構えのできないうちに、中史さんに心の臓を握られていました。
「……っ」
まったくの埒外から、ぽんと一つの回答を投げ込まれてしまいました。
私はそれをどうするべきか分からなくて、完全に思考が停止してしまいます。
頭の中が真っ白になる。そんな私の様子を知ってか知らでか、中史さんは次なる質問を与えてきます。
「そんなに嫌いなのか? ミズのことが」
「ち、違います! それだけは――それだけは絶対に違います!」
反射、でした。ぜんぜん頭が回っていなくて、なんらの理性の邪魔もない状態で紡がれた本音です。
「じゃあ、どうしてだ? どうしてあんたは待ってるだけなんだ。自分から行動を起こさない」
「そ、それは……」
これまで一度も考えていなかったことです。指摘されて初めて、私は考え始めました。
中史さんの言っていたことは、恐らく正しい。待つだけじゃなく、自分からも会いに行けばいいというのは、常人ならば一番初めに思いつく選択のはずです。私はそれを思いつかなかった。
いえ、厳密には違います。私はサグメちゃんに対する選択に対しては、その回答を用意できていた事実があります。
けれどその対象が鮫さんになった途端、私はその選択が見えなくなってしまっていたということです。
「ミズは優しいから、それでもいいんだろうけどな。俺はあんたに対してなんの感情も抱いてないから、ちゃんと客観的評価をするぞ」
その話を聞きながら、私はあまりに今更な疑問を抱きます。
どうして中史さんは、私のことをまるで見てきたみたいに言うのだろう、と。
「――あんたのそれは、ただの甘えだ」
「…………っ」
それはとても手厳しい指摘で――それでいてなによりも正しい指摘でした。
いつまでも待っていてくれる鮫さんへの、甘え。それはずっと私が考えないようにしてきたことでした。私は幾度も鮫さんの来訪を待ち、それが実現しない理由を邪推しながら、どこかで鮫さんを批難していました。自分から歩み寄ろうという思考を、完全に捨てていたのです。
「相手がいつまでも言い寄ってくるから。何度振っても諦めないでいてくれるから、それにつけこんで自分からは何もしない。そのくせ相手がちょっと自分に会いにこないと、それが不満だとして相手のせいにする」
でも――
どうしてそれを、中史さんが指摘するんでしょうか。
言っていることは、正しいのかもしれません。
でもなにか、筋が違う。
「ミズの優しさに甘えるのもいい加減にしろ、臆病者」
それを言うべきは、あなたじゃないはずです。
もっと別の人であったはずです。
だというのに、どうして――
「な――なにも知らないあなたに、そんなことを言われる筋合いはありませんっ!」
自分でも驚きました。私はこんなに大声を出せるのだと知りました。
勢い任せに叫んだそれを、しかし撤回する気にはなれませんでした。
これで中史さんに私の気持ちが少しでも伝われば、そこから話の方向を変えていくこともできないことではないと考えてのことでした。
「よく分かってるじゃないか」
しかし中史さんは表情一つ変えず、冷徹なまでに単調な抑揚で話を続けます。
「え……」
最初、彼には私の気持ちが何も通じていないのかと疑いました。中史さんが鈍感で、私の怒りを理解していないのではないかと。しかしそんな考えは、彼の『中史』という名の前にたちまちに雲散します。そんなわけがない。中史さんは全部分かった上で続けている――その結論に至るまでにそれほど長くはかかりませんでした。
「俺は何も知らない――俺も、他ならぬミズさえも、あんたの事情なんて知らないんだ」
「み、鮫さんには私のことを、ちゃんと――」
私は心の中で反発します。
中史さんの言っていることは正しいかもしれないけれど、彼はどこまでいっても当事者ではないのです。
それに私は鮫さんには、事情を話しています。
あなたとは違う――
「話してるのか? 『恋山説話』や玉姫のことについて言ってるなら、そんなの『話した』の範疇に入らないぞ。あんなのネットで検索かければ三秒で手に入る情報だ」
しかし中史さんはそれすらも承知の上だったようです。
「それは――そうです、けど……!」
彼の言葉がそのまま私の鏡でした。
私が鮫さんに与えてきたもの。私が鮫さんと少しでも築けていたと思っていた独自の距離感。
そんなものはまやかしだったのだと、私の弱い心の見せた幻想だったのだと思い知らされました。
「つまり、あんたの過去の情報量に関して、俺とあいつにそこまでの差はないんだよ。そんな状態で、ふつうの人間なら呆れるような状態で、あいつは耐えてるんだ。例え本人にその自覚がなくてもな」
私はずっと待っているだけ。鮫さん本人にはその自覚がない。だからこそ、中史さんの指摘の通りに、私は彼に甘えてしまう。鮫さんが最も嫌っていたそれを、私は率先して行っていたのだということに気づいた時、私は取り返しのつかない愚かなことをしていたのだと自覚しました。
さらに中史さんは続けます。
「受け入れるなら受け入れろ。振るなら振れ。きっぱりと」
私の前に、あまりに明確な二つの選択肢を置きます。
「きっぱりって……どうやってですか」
「分からないふりをするなよ。昔、和邇相手にしたのと同じことをすればいいんだ。あいつの通り道を塞いで、二度と自分のところまで来れないようにしてやればいい」
やはり中史さんは、全部お見通しだった。私の愚かなこと、臆病なこと、全部理解していてここに来ていた。彼の前で何かを秘匿するなど無理だったんです。私がなにかとぼけようとしても、見逃してくれない。的確に痛いところをついてくる。
それでも私は言葉を懸命に探し出し、なけなしの気力で反論を行います。
「でも、そんなことをしたら鮫さんを傷つけてしまいますっ! なによりそれは、真剣な想いをぶつけてくれてる鮫さんへの、裏切りですっ!」
「口頭でなんとなく断り続けられるより、よっぽどマシだろ」
「それはッ……!」
事ここに至って、中史さんは鮫さんの朋友であったことを強く意識させられました。
彼は私なんかより、鮫さんのことについていくらも詳しい。私が及ばないのは必然なのでした。
「……今日はそれ言いに来ただけです。これでも俺はあいつの友達なんでね。ちょっと他人の人間関係に土足で踏み入らせてもらいました。いろいろ偉そうなこと言いましたけど……まあ、あんまりあいつを弄ぶようなことは、控えてくれると助かります」
「も、弄ぶ――⁉︎ え、あ、いや、そんなっ……!」
最後の最後で、とんでもないことを言われてしまいます。全くそんなつもりはなかった――とは言い切れませんでした。つい先日、ヨドヒメさんにもそのようなことを言われたばかりだったからです。ただ、それは私なんかがしていいことではないことだけは確かだったので、必死に否定しました。
「じゃあ、そういうことで」
「あっ……」
もう用は済んだとばかりに、中史さんは私に背を向けて去っていきます。
私は返す言葉が見つからず、黙っているほかに仕方がありませんでした。
【7月 5日 日曜日 七日目】
とうとう鮫さんとデートした日から、一週間が経過してしまった。
時が経てば経つほど、中史さんの言葉はより意味を持って私の頭を悩ませるようになりました。
すべてがすべて、正論でした。私はなにも言い返すことができませんでした。
怖い。
あれほど待ち望んでいた鮫さんの来訪が、今はとても怖い。
彼がここに来たとして、その時私は確かな答えを持って彼に応えられるか、不安だったからです。
頭が上手く働きません。皮膚の下を通る血潮の巡りが、鈍く、鈍く、まるで石でも詰まってしまったかのようです。いつのまにか、私の心は石のように硬く動かなくなってしまった。
中史さんの言葉が頭を巡る。
嗚呼、どうか――来ないでください、鮫さん。
私はあなたへの言葉を何も持っていない。
あなたとお話をすることができない。
それより辛いことなんてきっとなにもありません。
☾鮫 水遥☽
昨夜はサグメの態度が急激に軟化するなど、些細なトラブルがあったことを除けば概ねスムーズに事を運べた。
なんらの憂いのない清々しい月曜の朝だ。僕はいつものように制服に着替え、家を出ようとした。のだが。
「みずはる? あたしをこの家に一人にするつもりか?」
サグメに玄関口で制服の裾をぎゅっと握られ、放してくれなかった。最初はじゃれているのかと思い適当に対応していたのだが、いつまでも力を緩める気がないのを見て、本気なのだと悟った。神の力で引き止められては敵わない。仕方なしに連れていくこととなった。度々月読命が教室に現れても何も文句を言われないのだ、一日くらいは理事長も見逃してくれるだろう。
「おはよう諸君、我が同胞たちよ。今日も清々しい朝であることだな」
教室に着いて開口一番、僕は朗らかにクラスメイトへ挨拶をする。
「あーうん、おはよー」「おはよ」
クラスメイト達も、ここ二週間で僕のこの調子には慣れてくれたようで、特に驚くこともなく挨拶を返してくれる。
この一年間、僕は長らく己を律して生きていた。『生』への自己啓発を行う日々であった。
だがもう、それも終いである。僕はタマヒメという女性に出会った。向かうべき地点が定まった。
ならば、僕が鮫水遥を主張して何が悪いだろう。
そういう経緯の末の変化に、クラスメイト達は拒否感を示すでもなく受け入れてくれた。人の変化を受け入れるというのは、そう簡単なことではない。それを当たり前のように成し得てくれたクラスメイト達に、僕は最大の敬意を払って接しなければなるまい。
「おはよー、水遥くん!」
さっそくその敬愛するクラスメイトの一人が、こちらに駆け寄ってくる。
葛城奏。身長145cmほどの、すばしっこい小動物のような小柄な生徒だ。
「おはよう、葛城奏よ。日下部日向も、今日という日の気候は一週間の始まりを彩る月曜日によくマッチした、実に爽やかなものだな」
「ああ、おはよう」
葛城奏がこちらに来れば、当然その隣には日下部日向が並んでいた。陸上部に所属する彼女は、直前まで朝練に勤しんでいたのだろう、制汗剤の匂いやかなシトラスの香りが鼻孔をくすぐる。
二人の胸元には、イルカを模したシルバーネックレスが揺れている。我が校は自由な校風ゆえ、罰されることもない。
朝の挨拶も終え、通常なら僕はこの後、自席へと向かうのだが……
「二人は、みずはるの友達か? それとも彼女か?」
今日ばかりは、そうはならなかった。
僕の後ろに付いてきていたサグメが顔を出したのだ。
「ん? 私服だけど、鮫の知り合――あれ?」
サグメを一目見た日下部日向が――固まる。
「み、水遥くん、その子もしかして……」
わなわなと震えた様子で、葛城奏は顔の下半分を両手で隠すようにする。
「お、おい鮫……今の声って……」「聞き間違いじゃねえよな?」「そういえばお前、あれから何があったのか知らされてないんだが……」
二人を中心として、クラス中に騒ぎが伝播していく。彼らの目は僕の背後に立つサグメに向けられる。どうやら、気づいたようだ。
「ミズ! このロリ、この前クラスの壁に大穴開けた暴力女神じゃん! なんでそんな奴連れて来たの!?」
代表としてアズマが、皆の気持ちを代弁する。
「わけあって、今は僕の家に居候している。安心したまえ、もう君たちに危害を加えることはない」
僕はアズマに応えつつも、クラス全体に伝わるように説明する。
「いや、そうは言ってもな……」「やられたら3倍にしてやり返すのが魔術師だしなぁ……」
もう危険性はないと言ってもすぐには受け入れられないのか、彼らの反応は微妙だ。
「あ、えっと……あたしは天探女だ。この間は、悪かったな」
彼らが何について困惑しているのか察したサグメが、自己紹介を交えて、バツが悪そうにしつつも素直に頭を下げた。
サグメからすれば、壁の穴は僕を狙う上で出してしまった二次被害だ。申し訳ない気持ちでいっぱいだろう。
「「…………」」
悪気のなさそうなサグメの対応に、いよいよ態度に困ったクラスメイト達。
基本的には好戦的で人の命を何とも思っていない奴らではあるが、気のいい奴らでもある。もう殺意などは抱いていないだろう。かといって、急にすべてを許して優しくなるのも難しい。
彼らは皆サグメへの態度を決めかねていた。
――状況が停滞へと入りかけたのを見かね、僕が口を開こうとした時だ。
「さっき言ってたこと、ホント?」
一人の少女が、サグメに歩み寄った。
葛城奏だ。
「水遥くんが言ってたこと」
珍しく自分よりも背の小さい相手を前にした彼女は、膝に手をついてサグメと視線を合わせる。サグメが僕の背中で及び腰になっていたのもあり、それでちょうど目線がぶつかった。
「ほ、本当だぞ。……あのな、別にあたしのことは許してくれなくていいんだ。それ相応のことをしたと思ってるからな。けど、みずはるの言葉は信じてやってくれ。みずはるは、嘘つかない奴なんだ」
ばつが悪く感じながらも、サグメは伝えたいことを伝えていく。
葛城奏は真剣な表情でそれを聞いていた。
「そっか。それなら私は、水遥くんはもちろん、あなたのことも信じるよ、サグメちゃん!」
葛城奏はきわめて純粋な人物だ。相手の心に歩み寄り、寄り添うことのできる少女だ。
だからこそ、サグメの表層の言動には騙されない。
「自分より誰かを優先できる子が、悪い子なわけないもんね! ね、日向!」
「そう易々と人を信じるなと言いたいとこだが……そうだな。こいつは信じてもよさそうだ」
葛城より笑顔を向けられた日下部も、柔らかな表情でサグメを受け入れる。
「そ、そうか……お前たち、いい奴らだな」
最初の一歩、最初の一人さえ現れてしまえば、あとは流れだ。
クラス全体にサグメを歓迎する雰囲気が広がっていき、いくらもしないうちにサグメは打ち解けていた。
元々、魔術師にとって争いごとなど日常茶飯事なのだ。建築物一つ傷つけられた程度のことで一々腹を立てていては、気が休まらないだろう。要するに皆、敵と打ち解けるきっかけを欲していたのだ。
「それで、具体的にはどういう経緯で和解したの?」
騒ぎが収まってきたあたりで、アズマが僕に訊ねてくる。
「なんということはない。サグメが僕を暗殺しに来たので、軽く半縊り殺しにして対話を持ちかけてやったに過ぎない」
「喧嘩したら仲良くなるヤンキー理論?」
「そのようなものだ」
わざわざタマヒメの過去がどうのと事情を説明する必要もない。それは彼らにとってはどうでもいいことだ。ただ後で、サグメの神格くらいは説明してやった方がいいだろう。
それと念のため、アズマには事情を話しておこうか。トキがいれば話が早かったのだが、生憎今日は欠席のようだしな。
――ともかくこれにて、サグメの計略により尾を引いていた事態は、完全に一段落したと見ていいだろう。
あとはタマヒメ、君だけだ。
――僕は放課後を待ち、八日振りに彼女へ会いに往った。
☽
「《天浮橋》」
まばゆい光が視界を包み込むと、次の瞬間には僕は高天原に転移していた。
転移先はもちろん、タマヒメの居館。
柵にて囲われた清庭の一角、木製のテーブルとチェアの設けられた食事用スペース。
そこに、タマヒメは座っていた。
約一週間振りの、想い人の姿。いつにもまして、なんと美しいことか。
「…………鮫さん」
そんなはやる気持ちを抑えていた僕とは違い、タマヒメの方は反応が薄かった。……いや、違うな。気持ちが深く沈んでいるのだ。
「まずは謝ろう、タマヒメ。君に何も言わずに八日も時が経ってしまったことを。すまなかった」
「ほんとうですよ」
ノータイムでそう返され、僕もさすがに面食らう。
「――え。あ、違うんですっ! ごめんなさい!」
しかしすぐに我に返ったように、タマヒメは先の言葉を訂正し出す。今のは無意識下での返答だったか。
サグメから話には聞いていたが、少々心が乱れているようだ。
「落ち着いて、自分の心に素直になることだ。僕はここにいる」
そう語りかけながら、僕はタマヒメに近づいていった。
歩幅三つ分ほどまで近寄り、タマヒメを見つめる。
「あ…………その、鮫さん。私、えっと…………」
喜怒哀楽のどれともつかぬ表情で、しどろもどろになるタマヒメ。
いまだ、心の整理がついていないように思える。
自分の思いがまとまっていないのだろう。
「……ああ、そうです」
などと考えていると、タマヒメの様子が僅かに変化した。
「私――――ずっとあなたに会いたかった」
すっと目から光が消え、今度は恐ろしいほどによどみなく、語りだす。
「会いたかった。あなたに来ないでほしかった。会いたくなかった。あなたが憎らしかった。サグメちゃんのことを聞きたかった。来ない理由を聞きたかった。あなたの声なんて聞きたくなかった。もっと早く来てほしかった。今日は来ないでほしかった――――」
僕はその言葉を聞きながら……
ビリビリと、静電気のようなものが、大気に奔るのを感じ取る。
魔力だ。魔力が、タマヒメの口元に集っているのだ。
「――――《泣き虫女神は袂を濡らす》」
――これは、言霊だ。
なにかがトリガーとなって、タマヒメの心を動かした。僕の言動――などではない。もっと根本的な話で、それは察するに、僕自身。僕がタマヒメの前に姿を見せたことそのものが、心を一つに決めあぐねていたタマヒメの、最後の一押しとなってしまった。
「――《あなたは最後まで諦めなかった。だから私は、あなたの往く先を塞ぐのです》」
数舜先の未来に待ち受ける命の危機に、身震いをする。
僕は全身の力を抜いて、玉日女命と対峙する。
「――――《八尋岩戸》」
世界が闇に包まれた。――否。大地に影が差しているだけだ。
突如として、空を覆うほどの大岩が出現していたのだ。
「私は、あなたとは付き合えない。だから逃げてください」
僕は返事をせず、黙って大岩を注視する。
あれから目を逸らしてはダメだ。
「死にますよ」
「…………」
それでも返事をしない僕を見かねたタマヒメは、魔力を大きく膨らませる。
大岩に纏った銀の魔力が煌めき、まるで粉雪のように広がっていく。
「もう一度言いますよ、鮫さん。私はあなたとは付き合えない。だから逃げてください。じゃないと死にます。いいんですか?」
僕は答えない。両の目に魔力を送り、タマヒメと大岩の動きをミリ単位で把握する。
無視されているとでも思ったのだろう。
精神の不安定なタマヒメの怒りが、爆発する。
「どうしてっ、あなたはっ!」
彼女の怒りと共に――大岩の制御が崩れ、落ちる、落ちる。
――ゴオオオォォォォォォォ――……!!!
「――――――!」
観測する世界の中で、大岩がゆっくりと落下する。スロー映像のようにごく微細な動きも判別できる。
僕は、一歩前に出る。そしてわずかに右にズレる。さらに4時の方向に、3cm――南南東方面へ5mm――
――……ここだ。
「――ふっ!」
――ッッドガアアァァァァァン――……!!!
僕は片手を伸ばし、その大岩を迎え撃った。
そこは、大岩の心臓部。落下の勢いが最も強いその部位を、ピンポイントで押し返した。
それによって大岩の衝撃は分散することなく、僕の体を入射した角度のまま直線状に貫いていく。
僕は予め落下の軌道を予測し、衝撃を一身に受け止めた。下手に衝撃が分散すると、却って防御しずらいためだ。
これだけの条件が揃えば、あとは魔力を纏った僕の地力ならば、問題なく止められる。
「《八岐大蛇》」
僕の周囲に、半透明の大蛇たちが顕現する。
彼らはするすると身体を伸ばし、大岩に食らいついていく。
八つ首の大蛇がとぐろを巻き、牙を剥き、大岩を覆い――
ついにその大岩を穿つに至る。
「僕は僕を押し通すためには何物も惜しまない。これしきの神術で諦めろというのは、無理な話だぞ、タマヒメよ」
ガラガラと激しい音を立てて、もはやただの岩となったそれらが崩れ落ちていく。
「嘘……そんな……!!」
かつて奥出雲の恋山にて、和邇からの求婚を拒絶した神通力。
そこには絶対の確信があったのだろう。それを使えば僕が諦め、やがては姿を見せなくなるのだと。
しかし、僕はそれを打ち破って見せた。
だからいつも通り、僕は再びタマヒメを振り向かせるための努力を続けようとする。
「……とはいえ。君のその気持ちを汲まなくては独善となるのも必定」
「もう……私は、どうすればいいんですかっ!? 私は――!」
なすすべなく、意志を示しても意味がない――自暴自棄のような状態となったタマヒメが叫ぶのを聞きながら、僕は彼女に歩み寄り――
「断ったのに! なのにあなたは――」
「タマヒメ」
彼女を抱き寄せて、その名前を呼ぶ。
「放してくださいっ! もう私にあなたと一緒にいていい理由なんてないんです! だから――」
「君に、僕の実家に来てほしい」
「えっ――えぇっ!?」
予想だにしなかっただろう提案に、タマヒメは激情を乱され、呆気にとられてしまったようだ。
「ど、どういうことですかっ! 今の話の流れというか、雰囲気で、なにを考えてそんなこと――」
「お前に選択権はない。黙って言うことに従え」
「……っ! はっ…………はい……」
タマヒメはびっくりしたような、しかし仄かに赤くなった顔で、胸の辺りに手をあてて頷いた。
……気弱なタマヒメに言うことを聞かせるには、このように脅迫まがいの強気な姿勢で話すのが最善だ。そうすれば大抵のことは強引に押し通すことができるだろう。それはタマヒメと初めて会った日から思っていたことだ。
だがそれはあまりに乱暴で品がなく、なにより相手の気持ちを軽んじる行為だ。できることなら避けたい手段だったので、恋山説話のことを聞き出した時以外、使うことはなかった。
今回はそうする他なかった。
それはある意味では、僕の敗北でもある。
僕は強い力でタマヒメの手を引き、如月駅へと向かっていった。
じゅ、十話で終わりませんでした……タマヒメが想定よりも面倒臭い女だったので……
後二話だけ続きます。
【用語解説】
『松浦佐用姫伝説』
朝鮮へ征くこととなった夫を見送る佐用姫が、悲しみに暮れて領巾を振り泣き続け、果ては石になってしまったという北九州の伝説。今回タマヒメが過ごした一週間のモチーフ。
『肥前国風土記』の伝承では夫と別れてから五日後、蛇が夫に化けて佐用姫に会いに来たという話が残されています。下記にて説明している、ミズの姿をしたオマクはそれが元ネタです。
『……上閇村遠野郷に伝わる『オマク』……』
岩手県は遠野に伝わる心霊現象。病に倒れ床に伏しているはずの少女が、近くの工事現場で目撃され、その翌日に亡くなった……という、柳田國男の『遠野物語』の話が有名ですね。
タマヒメも言っているように、『オマク』は生者死者問わず、その者の強い想いが霊体のようなものとなって具現化する現象のことです。今回はかなりの特殊ケースで、本来タマヒメがミズを想う気持ちが霊体となったなら、それはタマヒメの姿をしているはずでした。しかしあの時のタマヒメは自身の恋心に気づいておらず、『鮫さんは自分のことが大好きなのだから私に会いに来てくれるはず』という屈折した傲慢な気持ちがそのまま具現化したため、タマヒメの想いにより作られたミズの霊体、という歪なオマクが現れたのです。
オマクの語源に関しては、「思惑」と「枕」の二つの説があるらしいです。思惑はそのまま転訛したものですね。枕は元々神霊の居場所である「真座」であったというところからきているそうです。作中では「枕」は加納諸平の『枕詞考』にある、単に布を体に巻いて寝る場所を指す「纒坐」が語源だという説を取り、オマクの語源は「思惑」である、ということにしています。タマヒメもその認識のようですね。




