五話 九年越しの記憶に触れて
その日は、妙に寝起きが悪かった。
四月上旬だと言うのに空は曇っていて微妙に肌寒く、布団から出るのに普段の三倍の気力を要したほどだ。むしろ立ち上がることのできた俺を誰か褒めてほしい。こんな苦行を毎朝続けているから、現代には鬱病が多いのだ。
そんな悪態をあくまでも心の中で吐きつつ、輝夜と共に生暖かい風が吹き付ける通学路を歩く。
「結局、トキって何部に入ってるの?」
昨夜、俺のPCでネットを使って部活動について調べていた輝夜が訊く。
「『幽霊研究部』っていう文化系の部活だ。まあ……あまり名前と活動が一致してないから、参考にはならないけどな」
「ふうん?」
☽
学校に着くと、校舎内はやけに騒々しかった。
「「「…………」」」
――ザッザッ――ザッザッ――
俺たちが歩みを進めると、それだけで大音量の足音が校内に響く。
「「「…………」」」
――ザッザッ――ザッザッ――
それはもちろん、俺たちの体重が竜脚類レベルに増加したからというわけではない。つまり――この音は、俺たちの足音ではないということだ。
「ね、ねえトキ……」
輝夜が、極力見ないように見ないように努力しつつも……結局は後ろに視線をやってしまい、ボソッと俺の名前を呼ぶ。
「私たちの後ろ、人がいっぱいついてきてるわよ……?」
――それは、約二百人ほどの、男子生徒の足音。
俺たちが登校してきたのを聞きつけたこいつらは、輝夜姫に会うためにわざわざ玄関まで下りてきて、俺たちを待ち構えていたのだ。それで今は、俺たちの後ろをついてきている、と。
――ザッザッ――ザッザッ――
軍隊のような寸分違わぬ行進をする男子共を一瞥する。
――キッ――!!!
すると、戦艦大和の装甲すら貫けそうな鋭い眼光で俺を睨みつけてきた。あいつら、俺と輝夜が二人一緒に登校してきたことで、完全に俺たちが付き合っていると勘違いしてやがる。
俺はすぐに視線を前方に戻し、今見た光景は忘れようと心に決め――――ようとしたが無理だ。いやなんだよあれ。あの列どこまで続いてんだよ。果てが見えなかったぞ。
その騒ぎは、校舎内に入っても続いた。
「ん……あれは……?」
「姫様だ!」
「かぐや姫!」
廊下で立ち話をしていた連中は俺たちの姿を見た途端に私語をぴたりと止め、物音ひとつ立てない厳かな挙措で廊下の端に下がると……その場で、土下座をし始めた。
大名行列かな。
「姫様っ!」
土下座した男子の一人が、頭を地面に擦りつけたまま輝夜を呼ぶので、俺たち(約二百人)は仕方なく歩みを止めた。
見れば男の前には、丁寧なラッピングがなされた小箱が置いてある。
「これは昨夜、銀座の老舗和菓子屋で購入した最高級の和菓子にございます! ぜひ姫様に献上したくっ、この度持参した次第ですっっ!!!」
――それは慟哭。
移ろいゆく時代の中で日本人の心から忘れ去られてしまったはずの、悲しいまでに真摯で気高き、純然たる直心であった。大名行列であった。
「えっと……私に、くれるの?」
献上品というわけだ。
輝夜はその小包みに手を伸ばす。
「やめとけ、輝夜」
が、俺はその手を掴んで止めた。
「邪魔をするなっ、中史!」
男は顔を上げ、閻魔の形相で俺を睨み上げつつ罵声を浴びせる。
こういう反応をされることは分かっていたので、
「――誰が面を上げろと言った。無礼であるぞ」
とか適当に言ってあしらい……輝夜に向かう。
「いいか輝夜。アイドルは事務所を通した物しか受け取っちゃいけないんだ」
「私、あいどるじゃない……」
「姫だったか。どっちも同じだ。……行くぞ」
そのまま輝夜の手を引いて教室内へと入る。
背後から献上品を持参していた男が「お、おい中史っ、姫様の真玉手をそんなに気安く触るな!」と怒鳴っていたが……
悪いな、輝夜はまだこの世界に疎いんだ。『知らない人から物を貰っちゃいけない』という教育の礎となってくれ、モブ男Aよ。
というわけで教室に入っていく俺と輝夜。それを見たモブ男B~Hあたりから、
「月見山さんを独り占めする気か、中史!」
などと叫ばれるが、無論そんなつもりは毫もない。
輝夜が輝夜として、自分で物事の良し悪しを判断できるようになった、その時は……自由にアプローチでもなんでもすればいい。そこに俺は干渉しないし、そもそもその頃には、中史は輝夜から距離を取っていることだろう。輝夜が、俺を必要としなくなるだろうからな。
でも今はダメだ。今の輝夜は幼児。恋愛の「れ」の字どころか、右も左も分からない幼女だ。
だから何かやらかさないように、大人が隣で見守ってやらなくちゃならない、そういう時期なんだよ、今は。
☽
A組に着くと、案の定とげとげしい視線が俺を迎えた。
「俺と中史、どうして差がついたのか……容姿、血筋の違い」「クソ、俺も神の血を引いてれば正面からボコせたのに……!」
一日経ったものの、未だ輝夜姫ブームは去っていない。男子共からの視線が痛いのなんの。
「…………」
だが……この状況は捉えようによっては、良いことだとも言える。
あいつらは今、勝手に俺と輝夜が恋仲……とまではいかなくとも、懇意な間柄であると勘違いしている。
そんな雰囲気が蔓延している中で、輝夜に本気で好意をぶつけてくるような猛者はそうそういないだろう。
これを利用して、見知らぬ人間だろうと二つ返事でOKを出しそうなチョロカワ輝夜姫を、害虫から守ろうというわけだ。
「……(シュッ)」
「おい、誰だ今ナイフ投げてきた奴」
ときどき命を捕られそうになるのが玉に瑕だが、中史的には許容範囲。中史として生きていると、稀にすれ違いざまにビル倒壊級の大魔術を撃たれることがある。それに比べたらかわいいものだろう。
席に着くと、蘆屋とアズマが話しかけてきた。
「……男子みんなバカなの」
蘆屋はあまり感情が表情や声に出ない方だから分かりにくいが、どうやら男子の醜態にご立腹な様子だ。両手を腰に当て、汚物でも見るような目をオスに向けている。
「本音を言うと僕もあっちに混ざりた――」
「……何か言った?」
アズマがぽろっと零した言葉を、綺麗なのに恐ろしいという不思議な声色で牽制する蘆屋。彼女は自然な動作で背中に隠し持っている拳銃を取り出そうとする。
「どぅどぅ」
それをなんとか未然に防いだアズマが冷や汗を垂らしながら、後退していく。
別にこのクラス自体は全員が魔術師の家系の生まれなので、拳銃の一丁や二丁出しても問題はないが……銃声がほかのクラスに響いたら、協力者たちに気づかれるからな。アイツらの中には、警視総監や都銀の頭取、経団連の重鎮などを親に持つ生徒もいる。そういった正義側の手合いは、蘆屋の帯銃を快く思っていないことも少なくない。
だから基本的に、旧校舎以外での戦闘は禁止されているのだ。
「……逃がさないよ」
蘆屋は逃げていくアズマを追って、教室の対角線上に行ってしまった。
「相変わらず騒がしいな、あの二人は……」
「お前が言うというのか、それを」
左隣の席を見れば、机で英単語帳を開いていたミズが俺を何とも言えない目で見ていた。チラと目に入ったその単語帳の題には、日本で一番難しい大学の名前が書いてあった。鉄壁のように分厚い英単語帳だなあ。
その鼻にかけられた眼鏡は二重の意味で伊達ではない、成績学年一位の鮫水遥である。
――キーンコーンカーンコーン……
「はーい、皆さんおはようございます」
チャイムと共に七海先生が教室に現れると、あれだけ騒いでいた連中はどこへやら、みんな静かに着席し、七海先生の御言の葉を今か今かと待っている。
怒ると怖いタイプの先生でこの現象が起こるのはよく見るが……美人だからという理由でこうなるのは、この人くらいなものだろう。
そんな七海先生はというと……なんだ? なんだかキマリの悪そうな顔で笑いながら、口を開く。
……嫌な予感がするぞ。
「えーっとー……昨日の今日で、すごい偶然だなって先生も思うんだけど……」
と前口上を述べて、
「今日も、A組に転入生が来ています」
クラス中から驚きの声が上がる。
そりゃそうだ。二日連続で、しかも同じクラスに転入生が来るなんて普通ではありえない。普段は静かなHRが喧噪で包まれるのもむべなるかなというものだ。
……などと客観的に分析している俺も、かくいう驚いている。
輝夜は事前に知っていたからノーカウントだとして、今日の転入生は俺のあずかり知らぬところだ。様々な事件でなにかしら関係してくる中史も、今回に関しては全くの無関係だ……多分。
どんな子だろう、と輝夜の時には抱くことのできなかった疑問を抱く。
美少女だったら嬉しい。楽しい男でも大歓迎、もしくは外国人とか――
「では、どうぞ」
「――はい」
思考が中断された。
転校生が入室すると、クラスのあちこちから感嘆の声を上げた。
結論から言うと、その生徒は輝夜に負けず劣らずの美少女だった。
昨日同様、男子が咆哮する。女子がひかえめに嬉しがる。
だが……そんなクラスメイト達の声が、何一つ、耳に入らない。
俺の視線が、俺の意識が、俺の心が……その女生徒の姿に、釘付けになっていたからだ。
――青みがかった髪の、二つ結びのおさげ。
――澄んだ泉のように静謐で、ぱっちりとした瞳。
――筋の通った鼻に、桜色に潤った唇。
――セーラー服に包まれた身体は、触れたら崩れてしまいそうなほどに華奢だ。
心臓が早鐘を打つ。
無意識に拳に力が入って、体が上手く動かせなくなる。
御魂が熱く燃えたぎる。
「――はじめまして、空波るりです。昨年度までは岩手にいました」
一体……いったい、なんだ、この感覚は。
どんな強敵を前にした時も、これほど強い感情を抱いたことはない。
不思議と居心地の悪い感じはしない。
悲哀、憐憫、痛惜、憤懣、嫉妬――そのどれでもない。そんな暗い気持ちではない。
これは、もっと前向きな感情。
嬉しい。
それが最も近い。だが、その三文字で表すには、あまりにこの感情は大きすぎる。
……なぜだ。
俺は彼女を知らない。知らない……はずだ。
この顔に見覚えはない。俺の記憶に、彼女の影はない。
それなのに――
「それで、あとは――」
――それなのに、その生徒は、俺を指して言うのだ。
「そこに座ってる中史時くんの、幼馴染です」
そうして俺を見ると、喜色を湛えた顔で微笑むのだ。
「……九年ぶりだね、トキ」
――と。




