プロローグ 筒井筒
通常、人間の脳が記憶を失うということはない。
脳は11次元の構造を持つブラックボックスであり、その小さな頭の中には果てしない記憶領域が存在する。
物忘れと言ってもそれはただ記憶の引き出しが開きにくくなっているだけで、本当にニューロンが記憶を忘却したわけではないのだ。
それと同じことが、記憶喪失――重度の健忘症にも言える。
記憶喪失と言っても、それは様々な要因により特定の記憶に鍵がかかり、記憶を引き出すことができなくなっているに過ぎない。記憶のバケツをひっくり返してみれば、どこかに探していた記憶は存在するはずなのだ。
だから、記憶喪失で記憶を喪失することはない。それはどこまでいっても健忘でしかなく、脳細胞が物理的なダメージを負いでもしない限り、記憶が脳内から完全に消えることはないということだ。
それでも。その上で本当に記憶を喪失しているのだとしたら……そいつはきっと魔術師だろう。
俺は記憶を喪失している。正しく記憶喪失だ。
脳内をくまなく探したところで、それはもう二度と戻ることのない、かつての中史時。
――エピソード記憶の空白期間である、五歳から九歳までの四年間。
その間、俺は――僕は一体、どこで誰と、何をしていたんだろう?
☽
「ねえ、トキ」
「なに?」
「将来の夢って、ある? なりたいもの」
「ポ〇モンマスターとか、石油王とか、そういうの?」
「うん」
「公務い」
「公務員っていう一番つまらない定番回答以外で」
「……そんなこと言ったって。そういうルリは、どうなの?」
「ボクは、いつも言ってるじゃん。トキのお嫁さん」
「それも公務員と同じくらい定番回答だと思うけど……」
「だとしても、それが今のボクが一番なりたいものなんだもん。いいじゃん」
「嬉しくないわけじゃないけど、ずるいよ。ちゃんと考えてよ」
「うんうん。……というか、意外だったね。トキだから、正義のヒーローとか言うと思ったよ」
「……正義のヒーローは、僕は嫌いだな」
「へぇ、なんで?」
「僕がなりたいのは、最強無敵の救世主だよ。いかなる困難が迫ろうと、いかなる危機に陥ろうと、落ち着いた心で、眉一つ動かさず、ただ目の前を問題を解決する万能超人。最後には全員が幸せそうに笑っていて、そこに不幸は存在しない。だっていうのに、まずあいつらは、負けることがある。倒すべき相手を前にして、無様にも地に膝をつく。それが些事での敗北ならまだいいのかもしれない。だけど、そんな醜態を何度も晒していたら、いつか本当に守りたい人を失うかもしれない。そんな人間にはなりたくないよ」
「そっか。あとは?」
「あとは……あいつらは自らに正義があると思い込んでるんだ。正義という名の下に、好き勝手に力を振るうんだよ。そんなのは、あいつらが敵だとして戦っているやつらとなにも変わらない。自らのエゴを盾に力を振りかざしているだけだ。そのエゴの内容が正義か悪かという違いでしかない。そんな自己矛盾にも気づけないような、バカで傲慢な存在には、僕はなりたくない。だから僕は――」
「ボクだけのヒーローに、なってくれる?」
「悪いけど、ちょっと違うよ。僕は『正義のヒーロー』は心底嫌いだけど、一つだけ見習うべき点がある。どんなに絶望的な状況でも戦うその胆力だけは、尊敬してる。大好きなんだ。だから僕は、『ヒーロー』になりたい」
「正義の、じゃなくて?」
「うん。ヒーロー。善人も悪人もみんな助ける。そこには正義も情義も何もないんだ。自分に義があるだなんて傲岸な思い違いはしない。ただ助けるために助ける。ルリを失いたくないから、助ける。僕が抱いてるのは、そんなヒーロー像だよ」
「でもそれも、結局はエゴイズムじゃない? トキがなにかを助けたいから、そのために現実に干渉して、『他人の救済』っていう現実改変を行ってるじゃん。それは紛れもない利己主義者の行動じゃないの?」
「僕は、エゴイズム自体を批判してるわけじゃないよ。人間が人間である限り、利己主義からは抜け出せない。この世界に完全な利他主義者がいたとしたら、きっとそいつの体には血が通ってないだろうね」
「主張は分かったけど……そんなことを続けてたら、いつか負けちゃうよ、トキ」
「だから僕は、僕が『中史』の家に生まれたことをこの上ない幸福だと思ってるよ」
「……でも。それでも、そのせいでトキが危ない目に遭うのは、ヤだよ」
「だから……僕はたまに、自分が神だったらと思う」
「うわ……早期の中二病だね」
「そうであってほしいよ。これが一過性のもので、大人になったら冷めている感情なんだったら、まだいいんだろうけど。だけど今はただ、自分の無力が許せない。――目の前で困っている人を助けたい。いじめられている学生がいたら、いじめている側も含めて救済してあげたい。虐待を受けている子供がいたら、虐待をしている親も含めて、幸福な生き方を教えてあげたい。地球の裏側でいつまでも続いている戦争を終わらせたい。自害しようとするジュリエットに、ロミオは生きているんだと伝えたい。――月の使者から、かぐや姫を守ってやりたい」
「……その本は?」
「『竹取物語』だよ。昨日、寝る前にパパに読み聞かせてもらったんだ。内容はもともと、知ってたけど」
「ボクも、あらすじくらいなら分かるよ。月から来たかぐや姫が、地球で暮らすけど、結局は月の使者が現れて、月に帰っちゃう話」
「うん。昨日、この話を聞いて……僕は、僕が翁だったら、って思った」
「えと……トキが翁だったら、月の使者にかぐや姫を連れ去られる時に、かぐや姫を守れてたから? ……そんな創作の悲劇までを真面目に考えてたら、キリないよ? それともトキは、過去に戻ってすべての悲しい歴史を変える旅にでも出たい? ……うわ、出たいって顔してるね」
「出たいよ。ルリと話している今この時に、地球上のどこかではきっと、人が死のうとしてる。その中にはきっと、望まれない死がある。紛争によってかもしれない。事故によってかもしれない」
「……それなのにトキは、ここで握りこぶしをつくることしかできない――ってこと?」
「うん。どうして僕がこんな気持ちを抱くのかは分からないんだけどね。中史の血がそうさせているのかもしれないけど……多分、これは生来のもので……だから僕は僕のために、自己満足のために世界を救うヒーローになりたいんだよ。この世界から、すべての悲劇をなくしたいんだよ」
「……それがトキの、将来の夢なんだ」
「うん」
「……最大多数の最大幸福って言葉、知ってる?」
「絶対言うと思った! そうだよ、こんなのただの自己犠牲以外の何ものでもないよ! 悪い!?」
「いやそんなムキにならなくてもいいんだけど……分かってるならいいや」
「……え? いいの? 許してくれる?」
「仕方ないから、許すよ。こういう時のトキは、そんな簡単に意見を変えるような人間じゃないからね。……それに、ボクのトキならできるって、それを確かに完遂してくれるって、信じてるから」
「ありがとう、ルリ! 頑張るよ!」
「…………えー」
「……どうしたの? 不満そうな声上げて」
「……もう。どうしたじゃないよ、トキ。ボクがトキのこと理解してても、トキはボクのこと、全然分かってくれてないじゃん。それは一方通行みたいで、ヤだよ、なんか」
「どういうこと?」
「『頑張るよ』って、まるで一人ですることみたいじゃん。――ヒーローの隣には、ヒロインがいるものでしょ?」
「……それって」
「トキの夢の半分、ボクに分けてよ。ボクもトキの隣に立って、世界を救うヒロインになるからさ」
「……あのさ、ルリ」
「あのさじゃない」
「でも」
「でももダメ。――っはい、トキ! もう何回聞いたか分からないけど、質問! 世界とボク、どちらかしか救えなかったらどちらを選ぶ?」
「ルリ。ルリのいない世界に価値はないよ。世界を救いたい気持ちはすごく強いけど、僕のエゴイズムはそれよりももっと強くルリを必要としてる。なによりもルリを愛してる」
「……あ、ありがと……。じゃ、じゃなくて、えっと――なら否定しないでよ! ボクは常にトキと一緒に生きていたい。ボクはトキのお嫁さんになって、トキはボクの夫になって、一緒に世界を救うんだよ。これより幸せな夢がある? ないよね? ないよ」
「…………」
「トキ? もしかして、ダメ?」
「そうじゃないよ。ただ、驚いてたんだ。……ルリは、すごいね。内心、世界を救うヒーローになるだなんて言った僕は傲慢だと思ってたけど――もっと欲張りな人が目の前にいたよ」
「ちょっと言い過ぎたかな」
「ううん。……なろう、ルリ。一緒に、世界を救おう。かぐや姫を助けよう。もう二度と、この世界に悲しい涙が流れないように」
――というわけで、今日からまた投稿していきます! よろしくお願いします!




