三十話 この世界で生きるために
すみません、一日空いてしまいました……。
長い、長い夢を見ていた……そんな感覚だ。
その瞬間、肌が世界の空気を感じ取り、全身の毛が逆立った気がした。
懐かしい、懐かしい匂いだ。
深呼吸を一つ、自分がこの世界の人間なのだと、自覚する。
転移時に御魂が酔ったのか……頭痛がひどいのが惜しいんだが、ひとまず。
「帰ってきたな……」
郷愁にあふれた、温かい太陽の光。
頬を撫でる、穏やかな卯月のそよ風。
間違いようがない。
俺が生まれ、生きてきたこの世界に……帰ってきたのだ。
「痛っ……」
横から、声がする。
俺と共にこの世界に来ると言った、輝夜だ。
輝夜も同様に御魂が酔っているのか、頭を押さえて呻いている。
ちゃんとこっちの世界に来れたみたいだな。
帰還の感動に浸っていることしばらく、頭痛も和らいできたらしい輝夜が、俺に話しかける。
「ここが……トキの世界?」
「ああ。間違いない」
断言してから、辺りを見回す。
視界に飛び込んできたのは、あざやかな葉桜の小山。ところどころ桜色の木が残っている、雄大な自然だ。
その山の手前には、川が流れている。涼し気な印象を与える河川はよどみなく、燦燦と輝く陽光を反射させ、きらきらと瞬いている。
そして……その川に架かる、一本の橋。一見木造に見える、弓状の桁橋には……平日の昼間にしては、多くの通行人が確認できる。
俺たちが転移したのは、小石などが敷き詰められた水辺だ。
「すごくきれい……。だけど、ここはどこ?」
眼前の景色を眺める輝夜が、訊ねる。
その答えには……この景色を見て、すぐに思い当たった。
どうしてこの場所に転移したのかは、分からないが……
「……京都の嵐山だ」
未だ多くの神社仏閣や古代日本の面影を残す――古都・京都。
正式な名称は右京区と言うが、ここを指すときはもっぱら嵐山という名前が用いられる、有名な観光名所だ。
そうとなれば、目の前の風景の詳細も分かってくる。
後ろにそびえるのが嵐山で、この川は桂川。
嵐山を背景に、桂川に架かる橋と言えば、当然そんなものは一つだけ。渡月橋だ。
パンフレットなどでよく目にするのと、まったく同じ景色を望める場所に、俺達は転移していた。
「京都……。トキの世界って、どこもこんなに自然豊かなの?」
「いや、ここが特別なんだ。この国は日本というんだが……日本の大部分は、高層ビル群をバックに住宅街が広がる人工の国だ」
そう説明してから、立ち上がり、これからのことについて考える。
ひとまず服装がロングコートから学生服に戻っていたので、ポケットに入っていたスマホで日付を確認する。
「四月七日の火曜日……?」
俺が異世界に転移したのは、高校の始業式があった四月六日だ。つまり、こっちの世界では俺が異世界転移してから一日しか経っていないことになる。
普通ならパニックになるところだが……この理由に心当たりがあった俺は、納得する。
これは以前聞いたことだが、ツクヨミの神術《月渡》は、時空間転移の魔術。
時空間、だ。空間だけじゃなく。
こっちの世界と流離世界では、時間の流れが異なるということも考えられるが……妥当なのは、事態を大きくしないために、ツクヨミが気を利かせて中史時失踪翌日に送ってくれたってセンだな。
『おかえり、トキ。輝夜は、ようこそ?』
何もない空中から姿を現したツクヨミが、開口一番、俺たちにそう挨拶をする。
「ただいま、ツクヨミ」
『帰ってこれた』
そう言いながら、ツクヨミは宙に浮いたまま俺の頭をぎゅうっと抱きしめる。本人曰く、親子のスキンシップ。
「んー、ん~ッ!」
そして当然、俺の顔が、ツクヨミの露出した腹部に……こいつ、見事なイカ腹体型だから、通常よりも深くうずめられて……い、息が……!
『月科区に帰ろう』
なんとかもがいて、脱出しようとするが……
こんな見た目のくせに、仮にも神だから、力が強い……! びくともしないぞ……!
他に手はないかと思考をめぐらすも……幼児特有のミルクみたいな甘い匂いが、ぷっくりとふくらんだやわらかなお腹からほんのりと感じられて、脳が、麻痺して……ダメだ、頭が回らない……っ!
『駅の切符買ってきた。嵯峨野線で京都駅まで』
酸素……さんそが…………あ……
「ツ、ツクヨミ……? それはいいんだけど、トキがぐったりして……あ、身体から力が抜けて………………トキ? トキ⁉ しっかりして! 返事をして、トキ‼」
☽
魔王やクラインには圧勝した俺も、幼女のイカ腹にはなすすべもなく気絶させられてしまった。
俺を倒したいんだったら、水晶や籠手なんかじゃなくて、幼女を装備してくるんだったな、クラインは。
『此方の指定した転移先は、松尾大社摂社・月読神社』
意識を取り戻した今は、ツクヨミになぜ京都に転移してきたのかを問い質しているところだ。
「あそこか。なんでまた」
『神術の性質ゆえ』
月読神社は、京都は嵐山に位置する松尾大社という、大きな神社の外にある神社――それを境外摂社という――だ。
名前から分かる通り、月読命を祭神とする代表的な神社の一つで、ツクヨミもよく境内で遊んだりしている。
『《月渡》は、此方と縁の深い地と地を渡る』
なるほど。それで自分を祀る神社の近くに転移してきたってわけか。
『でも此方は境内に転移するつもりだった』
表情筋が死滅した仏頂面で、淡々と語る。
『座標軸にズレが生じた』
と言って……なんだ? 一瞬、輝夜を一瞥したぞ、ツクヨミのやつ。
「……輝夜が、どうかしたのか?」
幸い、輝夜が気づいた様子はない。
俺は傍により、ツクヨミにだけ聞こえる声量で訊ねるが、
『あとで』
流されてしまった。
ここでは話しづらいことなのか?
「これが……駅?」
そんなことを考えているうちに、目的地に着いたようだ。
異世界人の輝夜には物珍しいものばかりなのか、先程から三つ歩みを進めては立ち止まり周囲の景色をキョロキョロと見渡している。そういうオモチャみたいだな。
切符を改札に通して駅のホームに出ると、まず最初に輝夜が注目したのは自動販売機。
これは何をするものなのか、と目の前に佇む謎の直方体を眺めている。
「なにか飲みたいものがあるのか?」
「飲む? この箱を飲むの?」
真剣にこれを言っているのがとても面白い。
「違う、これは現金を入れると中に入ってる飲み物が出てくるんだ。缶っていう容器に入ってる」
「……ずっと中に入れてたら、腐らない? 魔法で冷却してるの?」
「この世界は、魔法は一部の人間にしか知られてないからそれは違う。その代わりになる科学技術が発展した世界だ」
「ヴェレクトレイトみたいな国なのね? 中に人が入ってるわけでもないみたい……」
そろそろ周囲からの好奇の目が気になってくる頃なので、俺は硬貨を自販機に入れ、適当にボタンを押して出てきた缶を輝夜に手渡した。
レモンスカッシュを手渡された輝夜は、缶を両手で握って矯めつ眇めつ、ひっくり返したり振ったりする。
「出てこないわ……」
開いてないからな。
☽
JR線を走る鉄の箱に揺られながら、人目を憚って浮くことはせず、座席にちょこんと腰かけているツクヨミが口を開く。
『輝夜の戸籍がいる』
戸籍か。確かにこれから日本で生きるとなれば、それはないと困るものだろう。
「偽の戸籍を作るくらい、なんとかなるだろ。中史なら」
『然りや。其は問題ない。もーまんたい?』
なるべく現代風の喋り方をするように心掛けているツクヨミは、現代語と古語が混じることがよくある。
「言い直さなくていいぞ」
俺の左隣では、プルタブの存在に気づいたことでレモンスカッシュを開けるのに成功した賢い賢い輝夜姫が、缶を両手で持ち、上を向いてごくごくと飲み……始めたと思ったら、すぐに飲み口から口を離した。
「あうぅ……ひたがいふぁい……」
舌が痛いそうだ。輝夜は炭酸一気飲みできないタイプみたいだな。
「じゃあ、何が問題なんだ」
『苗字が決まってない』
そういえばそうだ。
飛鳥時代での一件以来、さなぎだった少女は見事輝夜という蝶へと生まれ変わることができたが、まだ苗字は決まっていなかった。
「『中史』、じゃダメなの?」
「……っ、それはやめておけ」
少し考えたが、それが輝夜に明るい未来をもたらすとは思えなかった。
「中史」の氏名が持つ重みを、輝夜はまだ理解していない。
「よく考えてみろよ。輝夜だって、いずれはこの世界に順応して、俺やツクヨミ、つまり中史とは関係のない人生を歩むことになるんだ。そうなったとき、苗字が中史だといろいろ面倒が付いて回る」
そうだ。
当面の間は、流離世界同様、俺は輝夜と共に生活を送ることになるだろう。
しかしそれはあくまで輝夜がこの世界に慣れるまでのこと。それ以降は、俺なんかと関わっていたって悪影響しかない。今はそうでなくとも、いずれ輝夜は中史から離れていく。
「……じゃあ、なんて苗字にするの?」
『輝夜が決めていい』
「って言っても、私はこの世界の一般的な感性を持ってないのよ? だから、トキが決めて」
また俺か。結局「輝夜」も、成り行きで俺が決めたみたいになっちゃったけど。
「……分かった」
人の苗字を決めるなどというイベントが起きるなどとは思ってもみなかった。小説でも書いてれば話は違ってくるだろうが、生憎と俺は読み専である。
これは何というか、言葉以上に重大な行為だな。
もちろん、今後結婚の時くらいしか変わることのないだろう名前を付けるというのは、それだけでも十分に重大なイベントなのだが、それだけではなく。
流離世界で記憶喪失となった輝夜は、その自己同一性を自らを象徴する名前に強く求めている節がある。
俺が少女を輝夜と呼んだ時、こいつがちょっと引くくらいはしゃいでいたのは恐らくそれが理由だろう。
記憶がなく、存在がないに等しく、触れれば消えてしまいそうな自身の身体。そんな状態の少女に与えられた、自己を自己として呼称してくれる唯一の名詞。輝夜。
それと同等の重要性を持つ名を、俺は今から決めなければならないということで、つまりとても気が重い。
俺は脳内の苗字メモリに検索をかける。
どうせつけるなら、珍しい名前がいい。田中とか山田とかありがちな名前じゃつまらない。
アニオタの俺にとって、物珍しい苗字を脳内に羅列するのはそう難しいことじゃなかった。
中学生の頃に調べた「珍しい苗字ランキング」からも、引っ張り出してこよう。
小鳥遊、四月一日、春夏冬、栗花落……いくつか思い浮かぶが、どれも「輝夜」の上に付けるものとしてはいまひとつ協調性に欠ける。
というわけで、中史時のCPUが悲鳴を上げ、冷却ファンがうるさいくらいに回り始めた頃、それはようやく決まった。
「……『月見里』、っていうのはどうだ?」
「やまなし?」
「ああ。月、見る、里、で『やまなし』と読む。月を見ることのできる里は開けていて、山がないという意味でこう読むんだ」
「月見里……」
輝夜がその名を呟く。
「お前は、元はかぐや姫だろ? なんとなくお月見のイメージあるし、ぴったりだろ」
「月見里……輝夜。月見里、輝夜」
心の中で反芻するように、何度か口にする。
「……分かったわ。私は、月見里輝夜! 今日からそれが、私だわ!」
そして、こっちの世界に戻ってきてから初めて、俺の大好きな笑顔を、浮かべてくれたのだった。
次回、一章エピローグです!




