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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その7 中身違い

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4、「……熱い、って」




 事務所へ戻ると、志織はすでにスマホを開いていた。


 保は何をどう誤解したのか、スズナに「大人の女ってのはな」などと絶対に教えなくていいことを語ろうとして、駿平に本気で脛を蹴られていた。


「静かに」


 私が言うと、三人とも一秒だけ固まった。


 保だけが「なんで俺だけ怒られてるの?」という顔をしていたが、それは普段の行いの総決算である。


 本室に戻る。

 志織が画面をこちらへ向けた。


「ざっと見ました。通話履歴とメッセージは、目立つものはありません」


「“ざっと”の基準が信用できないな」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてはいない」


 琴巴が疲れた顔で椅子に座る。

 さっきの小部屋を見たあとだからか、最初より静かだった。


「位置情報は」


「一昨日から昨夜までの移動を並べると、職場と自宅以外で不自然な寄り道が二回あります」


 志織は言った。


「一度はすずらん通りの裏。もう一度は、その近くのコインパーキング脇。滞在時間はいずれも短いです」


「誰かと会うには十分だな」


「決済履歴もあります。コンビニ、ドラッグストア、缶コーヒー、自販機。大きな出費はありません」


「金を払って薬を買った形跡はない、と」


「少なくともスマホ上は」


 志織はさらに画面を切り替えた。


「カメラロールに画像が三枚。意図して撮影したというより、誤操作に近いです」


 一枚目は、ぶれたアスファルト。

 二枚目は、どこかの壁。

 三枚目で、ようやく意味のありそうなものが映っていた。


 ビニールの保冷ケース。

 ファスナーが半分だけ開いており、中に細長いガラス容器のようなものが見える。ラベルはない。

 写真としては失敗だが、写っているものは十分に嫌だった。


「アンプル、ですか」


 琴巴が言う。


「たぶん」


 志織が頷く。


「医療用として整った管理下にあるものには見えません」


 私はワイシャツの袖を机に置いた。

 さっき見つけた小さな血痕を指で示す。


「こっちは現場の衣類だ。左腕の内側に、ごく小さい穿刺痕らしきものがある」


 琴巴が顔をしかめた。


「……じゃあ本当に、打たれてる」


「可能性は高い」


 私は言った。


「少なくとも、飲んだだけでは説明しづらい」


「別件の中溝なかみぞ)あつし)の方は」


 志織が尋ねた。


「まだ会ってない。今から聞く。そっちの女も、同じ壊れ方なら線が太くなる」




 しばらくして、鬼面組からこちらに来るよう言われていた中溝淳ごと、顔の右半分をまだきれいに腫らしたまま事務所に現れた。


 瑠衣の紹介というだけで十分に嫌そうな顔をしていたが、こちらも別に好かれようとは思っていない。


「……あんたら、警察じゃないんすよね」


「見ての通りだ」


「見ても分からないですけど」


「それなら君の観察眼は健康だ」


 中溝は納得していない顔で椅子に座った。

 琴巴が横で静かにお茶を出し、相手の手の震えに気づいて、こぼれないようそっと奥へ押しやった。

 そういう細い気遣いは、彼女の長所だ。


犬塚いぬづか紫乃しのという女に会ったな」


「会いましたけど……」


 中溝は視線を泳がせた。


「その、俺ら、別に大したことしてないっていうか」


「その前置きで“大したことをしていない人間”だった試しはあまりない」


「……ちょっと脅しただけです」


「はい、駄目」


 琴巴が即座に言った。


「そこを“だけ”で済ませないでください」


「いやでも、あっちもそういう感じだったし」


「“そういう感じ”を便利に使うな」


 彼は完全に琴巴を予想していなかったらしく、一瞬だけ怯んだ。

 私は話を戻す。


「会った時の女の様子は」


「最初は、ぼーっとしてました。なんか、こっち見てるようで見てないっていうか。話も半分くらい上の空で。で、路地の奥の方行って、ちょっと壁にもたれてて」


「酔っていた?」


「いや、酒って感じじゃないです。むしろ具合悪そうで……何回か腕を押さえてた」


「腕のどこだ」


「え、そこまで見てないっすけど……たぶん、このへん」


 彼は自分の左肘の内側あたりを曖昧に叩いた。


 私は志織と視線を交わした。

 十分だった。


「で、どう変わった」


「急に、です」


 中溝の顔が、思い出しただけで少し青くなる。


「なんか、目つきが変わって。さっきまでふらふらしてたのに、急にまっすぐ立って。で、こっちの連れが肩つかんだ瞬間、もう……」


「殴られた」


「殴られたっていうか、飛んだんすよ」


 中溝は言った。


「女の動きじゃなかった。いや、女とか男とかじゃなくて……なんか、こっちが思うタイミングと違うところから来るんです。蹴られて、壁にぶつかって、もう一人も一瞬で転がされて」


 同じだ。

 力任せというより、制御の基準そのものが違っている。


「他に何か言っていたか」


「……熱い、って」


 中溝は眉を寄せた。


「あと、腹が減ったみたいなことも。意味分かんなかったですけど」


 私は少しだけ息を止めた。

 小部屋で聞いた証言と、ほぼ同じだ。


「その女はどこへ行った」


「知らないっす。暴れたあと、ふらつきながら逃げて……追う気にもならなかったし」


「賢明だな」


「いやもう、ほんとに死ぬかと……」


「死ななくてよかったですね。――人を脅しに行って返り討ちに遭っただけで済んで」


 琴巴が平坦に言った。


「その言い方きつくないすか」


「わりと温めてます」


 中溝はそれ以上反論しなかった。

 賢明な日は、誰にでもたまにある。


 話が終わって中溝を帰したあと、しばらく机の上には沈黙だけが残った。


 くるみ餅はまだ残っている。

 だが、この段階まで来ると甘味はあまり機能しない。


 琴巴が小さく言った。


「同じですね」


「何が」


「さっきの鬼面組の人の話と、中溝さんの話」


 彼女は指を折るみたいに、ひとつずつ確認した。


「急に動きが変わる。変に速い。熱いって言う。お腹が空いたみたいなことを言う。腕を気にしてる。 ……偶然にしては、重なりすぎです」


「成長したな」


 私は言った。


「褒めてもたぶん嬉しくないです」


「その反応込みで、だ」


 志織が画面を閉じた。


「少なくとも、末端で同じものが起きています」


「売人を探す話ではないな」


 私は言った。


「え?」


 琴巴が顔を上げる。


「普通のドラッグなら、まず売る奴が目立つ。だが今回は、そこが見えない。代わりに見えているのは、短時間の接触と、その直後の急変だけだ」


「つまり」


「薬を売っているんじゃない」


 私はワイシャツの袖の血痕を見た。


「誰かが、打って回っている」


 別室から、スズナの笑う声がした。

ひどくのどかで、こっちの机の上の陰惨な事実とはまるで噛み合わない音だった。


 私は封筒を静かに閉じる。


 錠剤なら、もっと雑に広がる。

 粉なら、もっと痕が残る。


 だが注射は違う。そこには必ず、静脈へ的確に狙いを定める『打つ手』が要る。


 つまり我々が探すべきは、薬そのものより先に、街角で他人の腕に針を滑り込ませている人間の姿だった。




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