4、「……熱い、って」
事務所へ戻ると、志織はすでにスマホを開いていた。
保は何をどう誤解したのか、スズナに「大人の女ってのはな」などと絶対に教えなくていいことを語ろうとして、駿平に本気で脛を蹴られていた。
「静かに」
私が言うと、三人とも一秒だけ固まった。
保だけが「なんで俺だけ怒られてるの?」という顔をしていたが、それは普段の行いの総決算である。
本室に戻る。
志織が画面をこちらへ向けた。
「ざっと見ました。通話履歴とメッセージは、目立つものはありません」
「“ざっと”の基準が信用できないな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてはいない」
琴巴が疲れた顔で椅子に座る。
さっきの小部屋を見たあとだからか、最初より静かだった。
「位置情報は」
「一昨日から昨夜までの移動を並べると、職場と自宅以外で不自然な寄り道が二回あります」
志織は言った。
「一度はすずらん通りの裏。もう一度は、その近くのコインパーキング脇。滞在時間はいずれも短いです」
「誰かと会うには十分だな」
「決済履歴もあります。コンビニ、ドラッグストア、缶コーヒー、自販機。大きな出費はありません」
「金を払って薬を買った形跡はない、と」
「少なくともスマホ上は」
志織はさらに画面を切り替えた。
「カメラロールに画像が三枚。意図して撮影したというより、誤操作に近いです」
一枚目は、ぶれたアスファルト。
二枚目は、どこかの壁。
三枚目で、ようやく意味のありそうなものが映っていた。
ビニールの保冷ケース。
ファスナーが半分だけ開いており、中に細長いガラス容器のようなものが見える。ラベルはない。
写真としては失敗だが、写っているものは十分に嫌だった。
「アンプル、ですか」
琴巴が言う。
「たぶん」
志織が頷く。
「医療用として整った管理下にあるものには見えません」
私はワイシャツの袖を机に置いた。
さっき見つけた小さな血痕を指で示す。
「こっちは現場の衣類だ。左腕の内側に、ごく小さい穿刺痕らしきものがある」
琴巴が顔をしかめた。
「……じゃあ本当に、打たれてる」
「可能性は高い」
私は言った。
「少なくとも、飲んだだけでは説明しづらい」
「別件の中溝淳の方は」
志織が尋ねた。
「まだ会ってない。今から聞く。そっちの女も、同じ壊れ方なら線が太くなる」
しばらくして、鬼面組からこちらに来るよう言われていた中溝淳ごと、顔の右半分をまだきれいに腫らしたまま事務所に現れた。
瑠衣の紹介というだけで十分に嫌そうな顔をしていたが、こちらも別に好かれようとは思っていない。
「……あんたら、警察じゃないんすよね」
「見ての通りだ」
「見ても分からないですけど」
「それなら君の観察眼は健康だ」
中溝は納得していない顔で椅子に座った。
琴巴が横で静かにお茶を出し、相手の手の震えに気づいて、こぼれないようそっと奥へ押しやった。
そういう細い気遣いは、彼女の長所だ。
「犬塚紫乃という女に会ったな」
「会いましたけど……」
中溝は視線を泳がせた。
「その、俺ら、別に大したことしてないっていうか」
「その前置きで“大したことをしていない人間”だった試しはあまりない」
「……ちょっと脅しただけです」
「はい、駄目」
琴巴が即座に言った。
「そこを“だけ”で済ませないでください」
「いやでも、あっちもそういう感じだったし」
「“そういう感じ”を便利に使うな」
彼は完全に琴巴を予想していなかったらしく、一瞬だけ怯んだ。
私は話を戻す。
「会った時の女の様子は」
「最初は、ぼーっとしてました。なんか、こっち見てるようで見てないっていうか。話も半分くらい上の空で。で、路地の奥の方行って、ちょっと壁にもたれてて」
「酔っていた?」
「いや、酒って感じじゃないです。むしろ具合悪そうで……何回か腕を押さえてた」
「腕のどこだ」
「え、そこまで見てないっすけど……たぶん、このへん」
彼は自分の左肘の内側あたりを曖昧に叩いた。
私は志織と視線を交わした。
十分だった。
「で、どう変わった」
「急に、です」
中溝の顔が、思い出しただけで少し青くなる。
「なんか、目つきが変わって。さっきまでふらふらしてたのに、急にまっすぐ立って。で、こっちの連れが肩つかんだ瞬間、もう……」
「殴られた」
「殴られたっていうか、飛んだんすよ」
中溝は言った。
「女の動きじゃなかった。いや、女とか男とかじゃなくて……なんか、こっちが思うタイミングと違うところから来るんです。蹴られて、壁にぶつかって、もう一人も一瞬で転がされて」
同じだ。
力任せというより、制御の基準そのものが違っている。
「他に何か言っていたか」
「……熱い、って」
中溝は眉を寄せた。
「あと、腹が減ったみたいなことも。意味分かんなかったですけど」
私は少しだけ息を止めた。
小部屋で聞いた証言と、ほぼ同じだ。
「その女はどこへ行った」
「知らないっす。暴れたあと、ふらつきながら逃げて……追う気にもならなかったし」
「賢明だな」
「いやもう、ほんとに死ぬかと……」
「死ななくてよかったですね。――人を脅しに行って返り討ちに遭っただけで済んで」
琴巴が平坦に言った。
「その言い方きつくないすか」
「わりと温めてます」
中溝はそれ以上反論しなかった。
賢明な日は、誰にでもたまにある。
話が終わって中溝を帰したあと、しばらく机の上には沈黙だけが残った。
くるみ餅はまだ残っている。
だが、この段階まで来ると甘味はあまり機能しない。
琴巴が小さく言った。
「同じですね」
「何が」
「さっきの鬼面組の人の話と、中溝さんの話」
彼女は指を折るみたいに、ひとつずつ確認した。
「急に動きが変わる。変に速い。熱いって言う。お腹が空いたみたいなことを言う。腕を気にしてる。 ……偶然にしては、重なりすぎです」
「成長したな」
私は言った。
「褒めてもたぶん嬉しくないです」
「その反応込みで、だ」
志織が画面を閉じた。
「少なくとも、末端で同じものが起きています」
「売人を探す話ではないな」
私は言った。
「え?」
琴巴が顔を上げる。
「普通のドラッグなら、まず売る奴が目立つ。だが今回は、そこが見えない。代わりに見えているのは、短時間の接触と、その直後の急変だけだ」
「つまり」
「薬を売っているんじゃない」
私はワイシャツの袖の血痕を見た。
「誰かが、打って回っている」
別室から、スズナの笑う声がした。
ひどくのどかで、こっちの机の上の陰惨な事実とはまるで噛み合わない音だった。
私は封筒を静かに閉じる。
錠剤なら、もっと雑に広がる。
粉なら、もっと痕が残る。
だが注射は違う。そこには必ず、静脈へ的確に狙いを定める『打つ手』が要る。
つまり我々が探すべきは、薬そのものより先に、街角で他人の腕に針を滑り込ませている人間の姿だった。




