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9 うどんと犬公爵

 鏡花の部屋は、伊吹の部屋の直ぐ近く6畳ほどの落ち着く広さの部屋だった。清潔な畳の香りと、最高級の布団、誰も使っていないからか文机も本棚も空っぽだった。化粧台にはいくつかの化粧品が並んでいたが、そのうちのいくつかを鏡花は知っていた。

 昔、すみれが母におねだりをして買ってもらっていた高級化粧水。風呂上がりに使えばたちまち肌が潤うというハイカラなものでかなりの高級品だ。

 3種類の口紅、頬紅に化粧用の刷毛。どれもこれも鏡花は買ってもらえなかったものだ。


「失礼するよ」


 低く響くような声がして、鏡花は「はい」と答えた。襖が開いて、顔を見せたのは虎尾伊吹だった。彼は御盆の上にどんぶりを乗せていた。


「眠れたかい?」

「はい、少し……」

「そうか、ならよかった。これ、紬が作った肉うどん。よかったら食べてくれ。ちなみにふわふわの卵が最高に美味しいから俺のおすすめだよ」


 伊吹は部屋の真ん中にあるちゃぶ台に盆ごと置いた。甘い醤油だしの香りに鏡花は自然と腹が減る。うどんの上にたっぷりの薄い肉とふわふわの卵が乗っており、細かく切られたネギが良い彩りを加えている。


「ありがとう、いただきます」


 手を合わせ、それから箸とレンゲを取って出汁をいただく。甘い醤油とほのかな魚介の出汁、肉の旨味がたっぷりと滲み出てコクが強い。それから、うどんを啜って、ほろほろの肉を口に入れる。ふわふわの卵は美味しいお出汁を吸っていて驚くほどに美味だった。


「美味しいだろう、美味しいだろう?」


 鏡花が満足げな表情をし、箸が一切止まらないのを見て伊吹は心底嬉しい気持ちになった。というのも、肉うどんを提案したのは彼自身だったからだ。


「美味しいです」

「俺も体調を崩した時はこれを食べるんだ。うどんはスルスルと口の中に入っていくし、この甘くてしょっぱくて肉の旨味が滲み出た出汁が本当に好きでさ」

「本当にこんなに美味しいおうどんは初めて食べました」

「鏡花は好きな食べ物はあるか?」

「好きな……食べ物ですか」


 そんなことで悩む彼女を見て伊吹は胸を締め付けられるような気持ちになった。彼女が実家でどんな扱いを受けていたのか、好きな食べ物すらわからないなんて伊吹には信じられなかったのだ。


「……あまり、ないですね。ここへ来る前は食事をすることがあまり好きではなかったので」

「もし、よければ話を聞くよ」

「えっ?」

「だから、君が遊馬家でどんな生活を送ってきたのか」

「それは……」


 鏡花は少し考えてから、また愛想笑いをして


「家の中のことを上級の貴族様にお話しするのはお恥ずかしいです。家族のことを裏切っているような気がして……」

「そうか……いつか、もしも話してくれる気になったらでいい」

「すみません。お気遣い頂いたのに。あの、ご馳走様でした」


 鏡花がうどんを完食し、伊吹は安心した。


「あの、一つ聞いてもいいですか?」

「ん? なんでも聞いてくれ」

「伊吹は、どうして私に優しくしてくれるのですか? 私はあの山の中で行き倒れていた身分も何もわからない人間。もしかしたら、私は貴方の命を狙った刺客かもしれないでしょう? なのに……」

「うーん、君が悪い奴じゃないってことは匂いでわかる」

「匂い?」

「あぁ、言ったろう? 俺は狼の妖の血を引いているから、鼻が効くんだ。悪意の匂い、嘘の匂い。人間にはわからないそういう匂いがね。鏡花からはそんな匂いはしなかった」

「だとしても……助ける義理はなかったでしょうに」

「うーん、そう言われるとそうなんだが、家に一人でも住んでいる者が多い方がいいだろう? 森で怪我をした動物や人間を保護して彼らが元気になって帰るまでここにいてもらう。そんなことを先代の時からやってるんだ。そして、帰る場所のない者はここに住む。紬や葉がその類さ」

「私は……帰る場所がありません。遊馬家にはもう帰れません。きっと、遊馬鏡花は亡き者になっているはず……」


 鏡花はぐっと拳を握って、唇を噛み締めた。


「何があったか、聞いてもいいか」


 鏡花はじっと伊吹を見つめた。彼は黄金色の瞳でじっと鏡花を見つめている。彼なら信用できるだろうかと迷う鏡花に伊吹は一歩近づいた。そして、伊吹は黒い狼の姿に変身して鏡花の隣にぴったりと座り、ふわふわした尻尾を振った。


「うぅ……わん」


 唸り声のような優しい鳴き声を出し、鏡花の手に頬擦りをする。ふわふわでしっかりした毛の感触が心地よく、鏡花は彼のおでこから耳をそっと撫でた。伊吹は気持ちよさそうに首を伸ばし、目を閉じた。


「ワフッ」


 伊吹は小さく息を吐くとおすわりの状態から伏せて、顎を畳にくっつけるようにして横になった。鏡花は彼の頭を撫でながら心を落ち着ける。柔らかくてツヤツヤで、芯のある毛皮に触れていると次第に緊張がほぐれ、心音がゆっくりに変わっていく。


「ここにいるのは、公爵ではなく優しくて可愛らしい狼なのね」

「ウゥ、ワフッ」


 まるで返事をするように伊吹は吠えた。鏡花は彼の優しさに触れて自然と微笑みが溢れる。彼の意図を汲み取って、鏡花は少しずつ話し始めた。


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