8章
スイは病室を出て、ユリアから聞いた通りに、廊下の突き当たりのバスルームに行った。広い建物内だったが、何故か廊下には誰もおらず、薄暗く非常口灯の光だけが不気味にまたたいており、そして静かであった。
バスルームの前に立つと、自動でドアが開いた。中に入ると、またしても自動で照明が付き、そこには洗面台がいくつかと、シャワーもトイレも設備されていた。
洗面台に手を差し出すと、勝手に水や泡石鹸が出てくる仕組みに驚きつつサインペンのインクに染まった親指を洗い、そしてデフテロと同調していた時の、水の中にいた浮遊感を思い出していた。
赤い水の中は温かくて、静かで、何故か安心していられた。ところがこの洗面台の水は冷たくて、ごうごうと音を立てながら、泡や汚れもすべて取り込んで、そのまま排水口へと流れていく。スイは水にささやかな恐怖のような、ひんやりした感情を抱いた。
「スイ」
誰かが自分を呼んだ。だがバスルーム内には、スイを除いて誰もいない。
「誰?」
「僕だよ。聞こえる?」
スイはバスルームから出た。声は止んだが、目の前には非常口灯に照らされている金属製の非常扉があった。
恐る恐る扉を開けると、ここも薄暗い中、階段が上下に続いていた。
何故かスイは下に降りてみようと思った。誰もいなそうだが、あの声の主が誰なのか気になっていた。
階段は螺旋状になっており、途中途中で扉があった。恐らく下の階に通じる扉なのだろう。
スイはどんどん下へ降りて行った。気付けばかなり下まで降りてきたらしい。スイは降りながら扉をいくつ見つけたのか忘れてしまった。
「ここは何なんだろ?」
やがて階段の最下層まで達したスイは、恐々と階段の終着地点にあった扉を開けてみた。その中もスイが来た階同様、目の前にバスルームがあった。だが廊下は元いた階よりも更に暗く静かで、非常口灯の光も弱々しかった。
ほぼ真っ黒闇の廊下に出て、少し進んでいくと、微かな光が廊下の床を照らしている場所が見えた。
スイは光が見えた辺りまで来てみた。そこは部屋があり、入り口は開いていた。恐る恐る中を覗きみるスイ。
「何これ…」
部屋の中央には巨大な水槽があり、水槽は赤っぽい透き通った液体で充ちていた。水槽は天井から蛍光灯の光が当てられており、スイが部屋の外から見たのはその光であった。水槽の周りは囲む様に何台もの機械やコンピュータが並んでおり、床には手書きのメモやレポート用紙が散乱していた。水槽の液体の中には一人の少年がまるでホルマリン漬けの標本の様に、目を閉じたまま浮き沈みしていた。
「人形かな?」
スイは部屋の中を見渡した。誰もいないようだ。スイはこっそり部屋の中に忍び込むと、水槽に近づいてみた。
「何の装置だろう?」
水槽はブゥーンと聞こえるか聞こえないかわからない程に静かな音を立てており、細かい泡が水槽の中で水とともに循環している様子が見えた。少年はスイとほぼ同じ位の年代の様だが、若干大人びた顔つきをしていた。両目は閉じたまま、口元が微かに動いている様にも見えた。
「スイ」
突然男の声で名前を呼ばれて、スイはギョッとした。さっきバスルームから聞こえたのと同じ声だ。不審そうに辺りを見回してみるが、やはり誰もいない。
「誰?」
「僕だよ。君の目の前にいる」
スイは水槽の中の少年を再び見た。今まで良くできた人形かと思われていた少年が、水槽の中で微かに笑ったようにも見えた。
「貴方なの?」
スイは恐る恐る水槽に近づいて、中の少年をまじまじと見た。
「そうだよ。君を呼んだのは僕だ」
「貴方はだれ? 何故私を知ってるの?」
「僕は…」
「そこにいるのは誰!?」
スイの背後からいきなり女性の声がした。驚いてスイは振り向くと、そこには一人の初老の女性が右手にコーヒーカップを、左手に書類の束を持って立っていた。
「あ、あの…」
スイが咄嗟に何か言い訳をしようと口を開きかけたが、女性は目を見開き、わなわなと震えている様にも見えた。
「ああ、まさか…あの時の子どもがいるの…?」
女性の左手から書類が1枚、2枚とひらひら溢れるかの様に落ちた。
「す、すみませんっ。私、道に迷ってしまって。何かこの中の彼に呼ばれた様な気がして…」
「呼ばれた、ですって?」
その時、女性の左手首のスマートウォッチが電子音を発した。
「はい、私よ?」
「…すみません、母さん。チーム6で担当が決まった新しい被験者が行方不明なの」
「ユリア、被験者は黒髪で青い目をした女の子?」
「青、というか紫がかった青だったような…でも何故?」
「今、彼女が私の前にいるわ」