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第九話 不良債権に使う脳はありません

第九話 不良債権に使う脳はありません


 王宮地下牢は冷えていた。


 石壁には薄く苔が張りつき、湿った空気が肌へまとわりつく。鉄格子の向こうからは、囚人たちの咳払いや鎖の擦れる音が響いていた。


 地下特有の匂い。


 湿気。


 鉄。


 古い血。


 かつて豪奢な公爵邸で暮らしていたルードヴィヒには耐え難い空間だった。


「こんな場所に私を閉じ込めるなど……!」


 彼は牢の中で怒鳴っていた。


 だが返事をする者はいない。


 警備兵たちは冷めた目で見ているだけだ。


 もはや誰も、公爵として扱ってはくれなかった。


 ルードヴィヒの姿はひどいものだった。


 高価だった礼装は泥と埃で汚れ、袖口の金刺繍も擦り切れている。髪は乱れ、目の下には濃い隈。


 数日前まで夜会でふんぞり返っていた男とは別人だった。


「食事だ」


 警備兵が乱暴に木皿を置く。


 黒パン。


 薄い野菜スープ。


 冷えた干し肉。


 ルードヴィヒは顔をしかめた。


「こんなもの食えるか!」


「罪人には十分だ」


 警備兵は鼻で笑う。


「くっ……!」


 ルードヴィヒは拳を握った。


 腹は減っている。


 昨日からまともに食べていない。


 だがこんな粗末な食事を口にするのは屈辱だった。


 その時。


 地下通路に、静かな靴音が響いた。


 カツ、カツ、と規則正しい音。


 警備兵たちが慌てて姿勢を正す。


「王太子殿下」


 アルベルトが現れた。


 黒の軍装外套を羽織り、その隣にはレティシアがいた。


 彼女は深い藍色のドレスに白い毛皮のショールを羽織っている。


 王宮仕立ての冬服は上品で、余計な装飾がないぶん、かえって彼女自身の美しさを際立たせていた。


 ルードヴィヒは目を見開く。


「レティシア……!」


 その瞬間、彼は鉄格子へ縋りついた。


「頼む……!」


 声が裏返る。


「助けてくれ!」


 レティシアは静かに彼を見つめていた。


 怒りも憎しみもない。


 ただ、冷静だった。


「帳簿を書き換えてくれ!」


 ルードヴィヒは必死だった。


「お前ならできるだろ!?」


「財政局も騙せる!」


「王宮認証だって操作できるんだろう!?」


 地下牢に叫び声が響く。


 アルベルトが眉をひそめた。


「見苦しいな」


「うるさい!!」


 ルードヴィヒは怒鳴り返した。


「これは夫婦の問題だ!」


「元、でしょう」


 アルベルトの声は冷たい。


 ルードヴィヒは息を荒げた。


 そして再びレティシアへ縋る。


「頼む……!」


「もう一度やり直そう!」


「帰ってきてくれ!」


 レティシアは瞬きをした。


 まるで理解できない言葉を聞いたような顔だった。


「帰る?」


「ああ!」


 ルードヴィヒは必死に頷く。


「お前は優秀だ!」


「必要なんだよ!」


「お前がいないと駄目なんだ!」


 その言葉に、警備兵たちが呆れた顔をした。


 今さら何を言っているのか、と。


 だがルードヴィヒは気づかない。


 彼はなおも叫ぶ。


「もう一度愛してやるから!」


 沈黙が落ちた。


 地下牢の空気がひどく冷える。


 レティシアは小さく首を傾げた。


「……愛?」


 その声音には、本当に不思議そうな響きがあった。


 まるで知らない単語でも聞いたように。


「ええ!」


 ルードヴィヒは勢いよく頷く。


「私はお前を愛していた!」


「だから戻ってこい!」


 レティシアはしばらく黙っていた。


 湿った石壁から滴る水音だけが響く。


 やがて彼女は静かに口を開く。


「旦那様」


「そうだ!」


「一つ、確認してもよろしいですか」


「なんだ!?」


「私が熱を出した時、あなたは何と仰いました?」


 ルードヴィヒの顔が固まる。


 レティシアは続けた。


「領地収支の再計算をしながら三日徹夜した時」


「倒れた私に、あなたは」


 彼女の声は穏やかだった。


『寝込む暇があるなら数字を合わせろ』


 静かな地下牢に、その言葉が響く。


 ルードヴィヒが息を呑んだ。


「そ、それは……」


「私の誕生日に、あなたは愛妾へ宝石を贈りましたね」


「違う、あれは社交上――」


「冬祭りの日、厨房予算削減のため私が食事を抜いていたことをご存じでしたか?」


「…………」


「公爵家の負債を埋めるため、私が自分の宝石を売っていたことは?」


 ルードヴィヒは答えられない。


 いや。


 知らなかった。


 知ろうともしなかった。


 レティシアは静かに微笑んだ。


 だがその笑みは、あまりにも冷たかった。


「残念ですが」


 灰色の瞳がまっすぐ彼を見る。


「私の脳細胞は、あなたのような不良債権に割くリソースを持っておりませんの」


「っ……!」


 その瞬間、ルードヴィヒの顔が絶望に歪んだ。


 初めて理解したのだ。


 彼女はもう、自分へ一切の感情を残していない。


 怒りすらない。


 完全に切り捨てられたのだと。


「ま、待て……!」


 ルードヴィヒは鉄格子へしがみつく。


「レティシア!」


「お願いだ!」


「行かないでくれ!」


 だがレティシアは振り返らなかった。


 藍色のドレスの裾が静かに揺れる。


 アルベルトが彼女の歩幅に合わせて隣を歩いた。


「大丈夫か?」


「ええ」


 レティシアは淡く微笑む。


「ようやく帳簿整理が終わった気分です」


 アルベルトが小さく笑った。


「君らしいな」


 後ろでは、ルードヴィヒの叫び声がまだ響いている。


 だがレティシアはもう足を止めなかった。


 地下牢を出ると、冬の空気が頬を撫でる。


 夜空には白い月。


 冷たい風。


 けれど。


 胸の奥は、不思議なほど軽かった。



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