O-8:コーピングは逃げではない
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
(連隊本部・廊下)
昼前。
隊長は、訓練科事務室から出てきた若い陸曹を見て、少しだけ眉をひそめた。
手にはペットボトルの水。
足取りは早いが、顔にははっきり疲労が出ている。
さっきも見た気がする。
その前も見た気がする。
「……最近の若いのは、よう席外すなぁ」
独り言のつもりだったが、背後から即座に返ってきた。
「そうやって全部サボり扱いするから、黙って潰れるんですよ」
振り返ると、補給科長がいた。
「お前、いきなり刺してくるなや」
「独り言にしとくには雑すぎたんで」
「わしは、勤務中にちょこちょこ席外すのがどうなんやって言うとるだけや」
補給科長は、隊長の隣に並んで若い陸曹の背中を見た。
「顔見ました?」
「疲れとるな、とは思った」
「でしょうね。
あの顔で机に縫い付けといて、精度の高い仕事だけ出せは無理でしょう」
「でも勤務中やぞ」
「勤務中ですよ。
だからこそ、壊れる前に戻すんです」
隊長は少しだけ嫌そうな顔をした。
「また専門用語が出る流れか?」
「そらそうでしょうね」
「嫌な肯定やな」
「今の話、雑に言うとコーピングです」
「出たな」
「逃げんでください。
今回は、わりと大事です」
(隊長室)
隊長は、補給科長を向かいの椅子に座らせ、自分も応接セットに腰を下ろした。
「で、コーピングって何や。
前から聞くには聞くけど、正直、意識高い人が好きそうな言葉にしか聞こえん」
補給科長は、ほんの少しだけ眉を上げた。
「その理解はだいぶ解像度が低いですね。ガラケーのカメラの方がまだマシなレベルです」
「言い方」
「コーピングって、雑に言うとストレス対処です」
「ストレス対処」
「ええ。
圧がかかった時に、壊れる前に少し戻す手段のことです」
「……そんなもん、昔はなかったやろ。わしらはそれでもやれてたで?」
「名前がついただけです。
昔から皆やってますよ」
「例えば?」
「缶コーヒー飲む。
煙草吸いに行く。
廊下を歩く。
トイレで一息つく。
自販機の前で雑談する。
水を飲む。
深呼吸する。
メモに書き出す。
人に愚痴る。
全部、昔からあるでしょう」
「……まあ、あるな」
「あるのに、“コーピング”って横文字がついた瞬間、急に甘えてるって言い出すのが年寄りの面白いところですね」
「言い方」
「でも本質でしょう」
補給科長は、何でもない顔で続けた。
「コーピングって、仕事から逃げるための行動やないんですよ」
「ほう」
「仕事を続けるために、一回戻すんです」
「戻す?」
「ええ。
顔が死んだまま続けさせて、確認漏れと誤記だらけの資料を出させる方が、よほど非効率でしょう」
隊長は少し黙った。
「……それはそうやな」
「一回5分、10分くらいの水分補給や短い離席を惜しんで、半日分の精度を落とす方が損です」
「うわ、現実的やな」
「現場ですからね。実際に各事務所覗いて、みんながどんなコーピングをやっているか見てみましょうか」
「よさそうやな。行ってみるか」
隊長と補給科長が各事務所を覗いてみるために、隊長室を出ると目の前に補給陸曹がいた。
「科長、すみません。今、よろしいでしょうか?」
焦った様子で話しかける補給陸曹。だが、いつもより明らかに顔色が悪い。
資料を持つ手も、少しだけ力んで見える。
「科長、本管中隊から返ってきた備品なんですが……」
補給科長は資料を受け取る前に、補給陸曹の顔を見た。
「補給陸曹」
「はい」
「今、頭回ってませんね」
補給陸曹が、一瞬だけ固まった。
「……顔に出てますか」
「顔にも出てますし、資料の揃え方にも出てます。
今その状態で続けても精度落ちるだけです。
この件、今すぐ5分10分を争う話ですか?」
「いえ、そこまでは……」
「では、資料を机に置いて、5分だけ外歩いてから私の机まで持ってきてください。時間は空けておきます」
隊長は思わず口を挟んだ。
「休ませるんか?」
補給科長は、ちらりと隊長を見た。
「休ませるんやなくて、戻してるんです」
補給陸曹は少しだけ困ったように笑った。
「……すみません。さっきから本管中隊の方で、数が合わん、書類が違う、いやそっちが悪い、みたいな話が続いてて」
「でしょうね。
その顔で続けたら、今度は補給科が雑になります。
5分でいいです。外でも歩いてきてください」
「はい。すみません」
補給陸曹が去って行くと、隊長はその背中を見たまま言った。
「お前、よう見とるな……」
「管理者なんで」
「便利やな、その言葉」
「便利ですよ。
管理者が“顔死んでるけど頑張れ”をやり始めたら終わりです」
(連隊本部・廊下)
補給科長は、そのまま歩きながら続けた。
「コーピングで大事なんは2つです」
「今度は2つか」
「たまには減らします」
「さよか」
「1つ、効くこと。
2つ、被害を広げんことです」
「被害?」
「ええ。
ストレス対処してるつもりで、周りに被害撒くやつおるでしょう」
隊長は少し考えてから、嫌そうな顔をした。
「……酒とかか」
「酒、暴食、怒鳴る、八つ当たり、机叩く、黙り込む、運転荒くなる、その辺ですね」
「最後の方、だいぶ嫌やな」
「嫌ですよ。
でも現実にあるでしょう」
「……あるな」
「だから、ストレス対処してるつもりで他人に被害出してるやつは、コーピングやなくて事故です」
「言い切るなぁ……」
「言い切れます。
自分を戻すための行動なのに、周りを削ってどうするんです」
隊長は、少しだけうなずいた。
「じゃあ、ええコーピングって何や」
「人によります」
「そこは人によるんか」
「当たり前でしょう。
一人で落ち着く人もいれば、少し喋った方が戻る人もいる。
甘いもんで戻る人もいれば、水だけで十分な人もいる。
さっきの補給陸曹の場合は、少し外の空気を吸う、ですね。
だから、管理者はそこを見といた方がいいです」
「そこまでか?」
「そこまでです。
部下が煮え始めた時に、何させたら少し戻るか知らん上司は弱いです」
「うわ、刺さる……」
「“頑張れ”しか言えんのなら、別に上司じゃなくてもいいでしょう」
「ほんま、お前は容赦ないな」
「仕事なんで」
(補給科事務室)
10分後、補給陸曹が書類を持って科長の席を訪れた。
さっきより顔色は少しマシだった。
「失礼します。頭冷えました」
「よろしい。
では、今度は資料を見せてください」
補給科長は表を受け取ると、ざっと目を通した。
「ええですね。
どこが未確認で、どこが確定か分かる形にはなってます」
「外歩いて、未確認のまま確定欄に入れかけてたところが見えました」
「でしょうね。
今の10分で、防げたミスが1個あったわけです」
補給陸曹は、少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
「こういうのがコーピングです。
仕事を止めたんやなくて、雑になる前に戻したんです」
隊長は、それを聞いて少し黙った。
なるほど。
サボりではない。
少なくとも、今のやり取りを見る限りでは、そうだった。
「では、本管中隊との再確認に行ってきます」
「お願いします」
補給陸曹が出て行くと、隊長は缶コーヒーを見下ろした。
「……さっきの10分、惜しんだら逆に高くついたわけか」
「そういうことです」
「でもなあ、あれを全部許し始めたら、だらけんか?」
補給科長は、少しだけ呆れた顔をした。
「そこを全部同じに見るから雑なんです」
「また雑って言う」
「雑なんで」
「で、どう違うんや」
「戻るために外してるか、逃げるために外してるか、です」
「見分けつくんか」
「だいたいは」
「だいたいかい」
「万能な上司なんておらんでしょう。
でも、少なくとも“席外した=サボり”で全部切るよりはマシです」
「……なるほどな」
「あと、コーピングって、弱いやつだけのもんでもないです」
「ほう」
「むしろ、ちゃんと働き続ける人ほど、自分の戻し方を持ってます」
隊長は、少しだけ目を細めた。
「……そういうもんか」
「そういうもんです。
気合いだけで保つやつは、だいたいどこかでまとめて折れます」
「嫌な言い方やな」
「でも、経験ありません?」
隊長はそこで黙った。
ある。
だいぶある。
ずっと平気そうにしていたやつが、ある日急に崩れる。
その手の話に、見覚えがないわけがなかった。
「……あるな」
「でしょうね」
しばらく沈黙が落ちた。
「なあ」
「何でしょう」
「じゃあ、コーピングって、弱いやつのための特別措置やないんやな」
「違います。
壊れんように働くための技術です」
「技術、か」
「ええ。
気合いも根性も否定しませんよ。
でも、それだけで全部持たせようとすると、最後に管理職が泣きます」
「なんで管理職が泣くんや」
「潰れた部下の穴埋めと、遅れた仕事と、後から出てくる事故の処理を全部やるの、誰やと思ってるんです」
「……各科長、か」
「やっと分かりましたか。隊長が気合いで部隊を回そうとした場合、我々がその尻を拭く便所紙みたいな仕事せなならんのです」
「腹立つなぁ……」
補給科長は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「で、こういう話の次に、隊長はだいたいこう言うんですよ」
「なんや」
「“深呼吸とかマインドフルネスって実際どうなんや”って」
隊長は、少しだけ目を逸らした。
「……言おうと思っとった」
「でしょうね」
「なんで分かるんや」
「浅い理解のまま横文字に飛びつきそうな顔してるんで」
「最後まで言い方が腹立つ」
「でも、ちょうどいいでしょう。
次はそこです」
補給科長は立ち上がった。
「では、私は仕事に戻りますんで、隊長室にお帰りください」
「おう」
「今日は、隊長が“席外すやつはサボり”で最後まで押し切らんかったので上出来です」
「評価の仕方が腹立つんやわ!」
二人の間に、少しだけ乾いた笑いが落ちた。
コーピング。
それは、仕事から逃げるための言い訳ではなく、壊れる前に戻すための技術なのかもしれなかった。
隊長は、手の中の缶コーヒーを見ながら、小さく呟いた。
「……気合いだけで保つやつが、最後にまとめて折れる、か」
その独り言に返事はなかったが、補給科事務室の奥で補給陸曹に指示を出す補給科長の声は、少しだけ満足そうにも聞こえた。
2026.3.16
全話くらいから、メタな視点を入れてコント形式の解説小説にすることにしました。
2026.3.22全面改稿




