E-1:「人間関係」では、どうしようもないもの
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
(本部管理中隊・居室)
それは、補給科長が嫌な予感を口にしてから、数日後の週末。
課業外。
金曜の夜。
本部管理中隊の若い隊員たちが、駐屯地すぐ横の安い居酒屋で飲んでいた。
歓送迎会でもなければ、何かの打ち上げでもない。
理由のない飲み会は、たいてい理由がないからこそ気楽で、そして気が緩む。
先輩陸士長は、その日、最初から少し機嫌が悪かった。
声がやや大きい。
笑い方が雑。
酒のペースも早い。
後輩1士は、最初のうちはそれを深く気にしなかった。
この人は酔うと少し面倒くさい。
それくらいの認識だった。
だが、二杯目か三杯目あたりから、話題が妙な方へ流れた。
「お前さぁ」
先輩陸士長が、ジョッキを片手に後輩1士へ顔を寄せる。
「最近、彼女できたんやって?」
後輩1士は、少しだけ困ったように笑った。
「はい、まあ……」
「写真ある?」
「いや、ちょっと……」
「見せろって」
後輩1士は、渋々スマホを出した。
先輩陸士長は、それを覗き込んで、数秒黙ったあと、鼻で笑った。
「……え、お前の恋人、不細工やな」
卓の空気が、一瞬だけ止まった。
後輩1士は、固まったあとで、苦笑いを作った。
「いやいや、酷いこと言わないでくださいよ」
「いや、ほんまに。
お前、もっと上いけたやろ」
「俺にはとても可愛く見えるからええんすよ」
「いや、逆によう付き合ったなと思って。
優しいんか、妥協したんか知らんけど」
笑いながら言っている。
言っている本人は、たぶん半分くらい冗談のつもりなのだろう。
後輩1士は、最初は笑顔で流そうとした。だが、出来なかった。
「もうやめてくださいって」
「なんや、そんな本気で怒るなや」
「怒りますよ、そら」
「いや、お前も酔ったら正直になるタイプやと思ってたわ。
ほんとはちょっと思ってるやろ?」
そこまで来たあたりで、周りの隊員たちも、さすがに少し顔を見合わせ始めた。
だが、酒の席というのは、嫌な流れでも妙に誰も止めきれないことがある。
笑えば流せるかもしれない。
そのうち終わるかもしれない。
空気を壊すほどでもないかもしれない。
そういう雑な期待が、一番危ない。
先輩陸士長は、さらに酒をあおった。
「お前、彼女できて調子乗っとるんやろ。
でもな、顔は選んだ方がええぞ。
子どもできたらどうすんねん」
その瞬間だった。
後輩1士の顔から、笑いが消えた。
「……先輩、それ以上はやめてください」
声の温度が、そこで変わった。
先輩陸士長は、それでも止まらなかった。
酔っている人間は、相手の表情が変わった時ほど、変な方向へ踏み込むことがある。
「何やねん。
図星やから怒っとるんか?」
「やめてくださいって言ってるんです」
「はいはい、怖い怖い。
でも実際、不細工は不細工やろ。
お前も内心——」
そこで、後輩1士が立ち上がった。
止める間もなかった。
拳が一発。
そのあと二発。
三発目で椅子ごと倒れた先輩陸士長を、後輩1士はさらに殴ろうとして、ようやく周りに止められた。
「やめろ!!」
「おい、やめろって!」
「先輩! 大丈夫ですか!」
先輩陸士長は床に倒れたまま、顔を押さえてうめいていた。
口元に血が滲んでいる。
右手も変な角度で庇うように抱えていた。
後輩1士の呼吸は荒い。
止めに入られても、まだ肩が怒りで上下していた。
店の中は、急に静かになっていた。
周りの客も、店員も、もう完全にこちらを見ていた。
(本部管理中隊・面談室)
その夜のうちに、本管中隊長は二人を面談室へ呼んだ。
酒は抜けきっていない。
だが、酔いよりも先に、空気が冷えていた。
先輩陸士長は、頬を腫らし、右手を庇うようにして座っている。
後輩1士は、血の気が引いた顔で、ただ前を向いていた。
本管中隊長は、珍しく真面目な顔をしていた。
「先に聞く。
誰が、どうした」
後輩1士が何か言う前に、先輩陸士長が口を開いた。
「……自分が悪いです」
本管中隊長が眉をひそめる。
「何がや」
「後輩の彼女のことを、酒の勢いでだいぶ酷く言いました。
最初は流されてたんですけど、自分が調子に乗りました」
「殴られたのは」
「当然やと思ってます」
後輩1士が、そこで苦しそうに言った。
「当然ではないです。
自分がやりすぎました。
言われたことは腹立ちましたけど、殴っていい理由にはならないです。
すみませんでした」
本管中隊長は、二人の顔を順に見た。
少なくとも、この瞬間、二人とも嘘は言っていないように見えた。
先輩陸士長が、腫れた顔のまま後輩1士に向き直る。
「……悪かった。
あれは言いすぎた」
後輩1士も、深く頭を下げた。
「すみませんでした」
そのやり取りだけ見れば、たしかに話はついたように見えた。
原因を作った側も認めている。
殴った側も反省している。
双方謝罪している。
本管中隊長は、そこで一度だけ息を吐いた。
「……分かった。
先輩陸士長、お前が先に煽ったのは事実やな」
「はい」
「後輩1士、お前はやりすぎた。
どれだけ腹が立っても、殴った時点で駄目や」
「はい」
「でも、二人とも話は分かっとるな。
ここから先は、変に話広げるより、まず落ち着いて処理する」
二人とも、黙ってうなずいた。
本管中隊長は、その反応に少し安心したようだった。
大ごとにしたくない。
できれば中隊の中で収めたい。
今ここで話がついているなら、それを壊したくない。
そういう気持ちが、かなり顔に出ていた。
「先輩陸士長、病院は行け」
「はい」
「後輩1士は今日は下がれ。
ただし、明日以降の話はまたする」
「はい」
「あと、外では余計なこと言うな。
酒の席の揉め事を、わざわざ広げても誰も得せん」
後輩1士は一瞬だけ顔を上げた。
本管中隊長は、その視線に気づかないふりをした。
(部外病院)
先輩陸士長は、その夜のうちに部外病院を受診した。
受付で問診票を書く手が、右手の痛みでうまく動かない。
看護師が事情を尋ねる。
「どうされました?」
先輩陸士長は、一瞬だけ止まった。
本当のことを言えば、面倒になる。
隊にも迷惑がかかる。
後輩1士も終わるかもしれない。
何より、自分が先に煽ったことまで外へ出る。
そう考えた時、先に口をついたのは別の話だった。
「……酔って、階段から落ちました」
看護師は、そのまま書き取った。
診察室に通され、医師が患部を見る。
顔の複数打撲。
右手の指の負傷。
頬の腫れ方。
拳で受けたような局所的な損傷。
医師は、先輩陸士長の顔とカルテを見比べた。
「階段から落ちた?」
「はい……」
「どこの階段で」
「店の……外の」
「何段くらい」
「……よく覚えてません」
医師は、それ以上すぐには何も言わなかった。
ただ、視線だけが少し冷たくなった。
先輩陸士長は、その空気に気づきながらも、もう引き返せなかった。
ここで話を変えたら、余計にまずい。
たぶんそう思っていた。
診察が終わり、処置室へ回されたあと。
医師は看護師へ小さく言った。
「これ、転落の怪我としては少し不自然ですね」
「……はい」
「通報の要否、確認しましょう」
その一言は静かだった。
だが、静かだからこそ戻れない種類のものだった。
(本部管理中隊・翌朝)
翌朝。
本管中隊長は、先輩陸士長の腫れた顔を見て、少しだけ眉をひそめた。
「……結構いっとるな」
「すみません」
「謝るのはそっちやないやろ」
本管中隊長はそう言ったが、声に強さはなかった。
「で、病院では何て言うた」
「……酔って階段から落ちた、と」
本管中隊長は、一瞬だけ止まった。
「……そうか」
その“そうか”の中に、安堵があった。
少なくとも、自分の前ではそう聞こえた。
先輩陸士長も、たぶんそれを感じて、余計に言葉を足さなかった。
後輩1士は、そのやり取りを少し離れた位置で聞いていた。
何も言わない。
言えない。
だが、その沈黙は、納得ではなかった。
(部外病院・医局)
朝の診療が落ち着きかけた頃だった。
昨夜の救急外来で対応した医師は、カルテをもう一度開いていた。
酔って階段から転落。
顔面打撲。
右手人差し指の脱臼骨折。
書類にすると、それだけの話だ。
だが、診察した感触が、どうしても引っかかっていた。
拳で殴られたような局所的な打撲。
顔を庇おうとして反射的に前へ出した手に、別の力が加わったような指の損傷。
階段から落ちたと言うには、どうにも怪我のつき方が整いすぎている。
看護師が、医師の視線の先を覗き込んだ。
「先生、やっぱり昨日の方ですか」
「ええ」
「そんなに不自然でしたか」
医師は短くうなずいた。
「少なくとも、単純な転落で片付けるには無理があります。
それに、本人の様子も落ち着かなすぎた」
「怯えている、という感じでした?」
「そこまでは断定しません。
でも、話を合わせようとしている時の沈黙でした」
医師はカルテを閉じた。
「被害者が脅されている可能性も含めて、一度相談します」
その声は静かだった。
だが、その静けさが、もう個人の“気のせい”では済ませないという意思を含んでいた。
医師が受話器へ手を伸ばす。
その動きはゆっくりだった。
だが、迷いはなかった。
本人たちの中でどれだけ“話がついている”つもりでも、法律上の問題が解決する訳ではない。
ゆっくりと、確実に、何かが連隊に迫っていた。




