O-26:規則は建前ではない
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
(本管中隊事務室)
午前。
本管中隊事務室の空気は、朝から少しだけ張っていた。
情報科長が、点検結果の紙を片手に、本管中隊長の机の前へ立っていたからだ。
「本管中隊長」
「なんや」
「昨日の情報管理検査の是正、まだ終わっていません」
本管中隊長は、露骨に嫌そうな顔をした。
「またそれか」
「また、です。
文書持出簿の記載漏れ。
離席時の端末未施錠。
保管庫の鍵管理不適切。
可搬記憶媒体管理簿の更新漏れ。
毎回同じところが落ちています」
「細かいなぁ、お前は」
本管中隊長は椅子にもたれたまま、鼻で笑った。
「仕事回しながら、そんなもん全部いちいち完璧にやっとられるか。
検査で引っかからん程度に整ってたら十分やろ」
周りの隊員たちは、手を止めてはいない。
だが、耳だけは確実にこちらへ向いていた。
情報科長は表情を変えない。
「規則は、検査対応のためにあるわけではありません」
「建前はそうやろうな」
本管中隊長は、そこで少しだけ顎を上げた。
「でも実際はどうや。
情報科を除く全部署、全部中隊が、多かれ少なかれ何かしら規則破っとるやろ。
罰則規定もない細かい規則まで全部守ってたら、逆に仕事止まるわ」
「他が破っていることは、貴方が破っていい根拠にはなりません」
「はいはい、正論正論。
お前はそれでええわ。
でも現場は、実務で回っとるんや。
検査のための書類と、実際に部隊を動かす話を一緒にするな」
情報科長の目が、わずかに細くなる。
「検査のための書類、ではありません。
情報を守るための最低限です」
「最低限、ねぇ」
本管中隊長は、そこで周囲を見渡すようにして笑った。
「じゃあ聞くけどな。
お前んとこ以外で、離席のたびに端末を毎回完璧に閉じて、持出簿も管理簿も一字一句漏れずやっとる部署、どこにあるんや。
訓練科も総務科も補給科も、中隊だって、多少は崩しとるやろ」
情報科長は一拍も置かずに返した。
「多少崩していることと、恒常的に雑なことは別です」
「言い方」
「本質です」
本管中隊長は、そこで少しだけ声を強めた。
「本質本質うるさいんやわ。
お前の言う“正しさ”が、そのまま現場で回ると思ってる時点で、だいぶ机上やぞ」
「回らないのなら、回るように直すべきです。
規則を建前扱いして、守らない理由にするのは違います」
「それや、それ。
そういう言い方するから嫌われるんや」
事務室の空気が、そこで少しだけ冷えた。
正しさは情報科長にある。
それは周囲も分かっている。
だが、今この場でその正しさが、そのまま誰かの行動を変える気配はなかった。
むしろ、本管中隊長の方が少しずつ意地になっている。
その時だった。
「はい、そこまでです」
入口側から、補給科長の声がした。
いつの間にか立っていた補給科長は、事務室の中を一通り見渡してから、淡々と続けた。
「部下の前で、意地の張り合いせんでください。
正しいかどうかとは別に、見た目が最悪です」
本管中隊長は、そこで露骨に顔を緩めた。
「おっ、補給科長。
お前もそう思うやろ。
現場で多少の融通は要るんやって」
補給科長は、本管中隊長の方を見もしなかった。
「そういう話はしてません」
「ははっ」
本管中隊長は、妙に機嫌のいい顔になった。
“少なくとも補給科長は情報科長ほど融通の利かんタイプではない”
そう都合よく受け取った顔だった。
「まあええわ。
情報科長も、そのへんにしとけ。
現場は現場で回しとるんや」
本管中隊長は満足げにそう言って、書類を掴み、部下へ雑に指示を飛ばしながら奥へ引っ込んでいった。
去っていく背中を見ながら、情報科長が低い声で言った。
「……今の、止める必要ありましたか」
補給科長は、そこでようやく情報科長の方を向いた。
「ありますよ。
そのまま続けても、あの人の行動、何も変わらんでしょう」
「でも、規則違反は事実です」
「ええ。正しさは情報科長にあります」
「なら」
「部下の前で、逃げ道なくして正論で殴っても、人はだいたい変わりません」
情報科長は黙った。
補給科長は、それ以上ここで話さず、軽く顎をしゃくる。
「場所変えましょう」
(連隊本部・廊下)
二人は、人気の少ない廊下をゆっくり歩いた。
情報科長はしばらく黙っていたが、やがて低い声で聞いた。
「……補給科長は、本管中隊長の主張を支持しているわけではないんですよね」
「当たり前でしょう」
補給科長は即答した。
「規則違反が多い。
建前扱いして軽く見ている。
そこは本管中隊長が普通に悪いです」
「では、何故止めたんです」
補給科長は、少しだけ前を見たまま答えた。
「指導とは、相手の行動変容を促すためのもんでしょう」
「はい」
「なら、相手の行動がこちらの意図した方向に変わらないなら、その指導は失敗です」
情報科長は、そこで少しだけ目を細めた。
補給科長は続ける。
「情報科長の言ってることは正しいです。
ただ、正しいことをそのまま押しつけても、あの人は“情報科は現場を分かってない”の認知を強化するだけでしょう」
「……」
「しかも部下の前です。
あの人からしたら、“自分は現場を守る側、情報科長は細かい建前を振り回す側”という構図が補強される。
これ、最悪です」
情報科長は、そこで小さく息を吐いた。
「耳が痛いですね」
「そうでしょうね」
「では、どうすべきでしたか」
「まず、あの場で勝ち負けの空気を作らない。
次に、本管中隊長の“何を守ろうとして規則を崩しているつもりなのか”を切る。
建前を嫌ってるんやなくて、“実務が止まるのが嫌だ”という自己認識でしょうから」
「……なるほど」
「そこで
“規則を守ると実務が止まる”
が本当か、
“雑に崩してるだけ”
かを、一個ずつ外すんです」
情報科長は、少しだけ考え込んだ。
「私は、正しいことを言えば、少なくとも否定はできないと思っていました」
「否定はできんでしょうね。
でも、否定できんことと、相手が変わることは別です」
情報科長はそこで、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
「難しいですね」
「面倒なんですよ。
だから管理職はだるいんです」
情報科長は、そこでほんの少しだけ口元を緩めた。
「補給科長らしい表現ですね」
「実際そうでしょう。
目的が“相手を論破すること”なら、今日のやり方でも勝てます。
でも目的が“規則適正な業務へ近づけること”なら、別の手を選ばんと」
「……分かりました」
情報科長は静かに言った。
「次から、少しやり方を変えます」
「それがいいです。
正しさを捨てろとは言ってません。
目的達成のために、手段を選べってだけです」
(隊長室)
その日の夕方。
隊長は、情報科長から概要報告を受けたあと、机の前で少しだけ遠い目をしていた。
「……結果的に、規則を完全には守れんことがあることは、あるやろう。
でも前提として、規則は守るものなんやがな」
情報科長は、短くうなずいた。
「はい」
報告を終えた情報科長が退室すると、隊長は椅子にもたれたまま補給科長を見た。
「本管中隊長、ほんま雑やな」
「ええ」
「前の車両事故の件といい、今日の件といい、“まあこのくらいええやろ”が多すぎる」
補給科長は、机の端に置かれた隊長のメモを見ながら、静かに言った。
「いつか大きな事故につながらんかったらええですけどね」
隊長は、嫌そうな顔をした。
「お前が言うと予言みたいで笑えんからやめろや」
「法律や規則といったルールと言うものは、“面倒なもの”やなくて、“ルールを守る人を守るための仕組み”なんですけどね」
補給科長は、そこで少しだけ肩をすくめた。
「自分を守ってくれる物を、自分で取っ払ってるんやから、そらいつか火傷しますよ」
隊長は、机を指で軽く叩いた。
「……ああ、もう絶対なんか起こるやん……。
なんかあったら、絶対にお前も手伝わすからな」
「え、嫌ですよ。指揮官の仕事でしょう?」
「その他命ぜられた事項、やな」
補給科長は、そこで露骨にうんざりした顔をした。
「いい加減、その文言消させないと駄目ですね……」
隊長は少しだけ吹き出したが、その笑いはすぐに消えた。
笑い話のようでいて、あまり笑えなかったからだ。
机の上には、車両事故のメモと、情報管理検査の是正事項が並んでいる。
どちらもまだ“小さい話”のはずだった。
だが、補給科長の言葉のせいで、それが妙に不穏な前触れに見えてしまう。
隊長は最後に、誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。
「……ほんまに何も起きんかったらええんやけどな」
その独り言に返事はなかった。
ただ、補給科長の目だけが、あまり楽観していない色をしていた。




