O-23:「通る相手には通る」では足りない
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
(訓練科事務室)
訓練科長と訓練班長のやり取りが終わったあとも、補給科長はすぐには口を開かなかった。
訓練班長は端末に向き直り、今受けた指示を自分なりに整理している。
訓練科長は、その横顔を見もせず、画面上で別の資料を開いていた。
さっきまでのやり取りだけ見れば、何も問題はなさそうだった。
むしろ、かなり滑らかだった。
訓練科長の指示は速いが整理されている。
訓練班長も、理解はできている。
返答も簡潔で、無駄がない。
その沈黙の中で、補給科長だけが、少しだけ視線を動かした。
訓練科長の机。
訓練班長の机。
その距離。
班内の動き。
書類の積み方。
業務システムの画面。
そして、一番奥の席にいる訓練陸曹。
補給科長は、そこでようやく小さく言った。
「訓練班長」
「はい」
「今の指示、訓練陸曹へどう落とすか、一度見せてもらえますか」
訓練班長は少しだけきょとんとしたが、すぐにうなずいた。
「分かりました」
訓練科長は、横で何も言わない。
止めもしない。
ただ、さっきより少しだけ目を細めていた。
訓練班長は席を立つと、奥の訓練陸曹の机へ向かった。
「訓練陸曹」
「はい」
訓練陸曹は、少しだけ肩を上げて振り向いた。
呼ばれた時点で、すでに少し固い。
「今、科長から仕事振られたから落とす。
メールで2件来てるやつ見てくれ。
①の方は次回訓練の関係。②は恒常業務の調整。
優先は見れば分かると思うけど、②の方は外とも絡むから止めんように。
①の方は仰指に入るまでに形にしたい。
あと、案ができたら早めに持ってこい。
質問あるか」
訓練陸曹は一瞬だけ止まった。
「……いえ、大丈夫です」
「じゃあ頼む」
訓練班長はそれだけ言って戻ってきた。
補給科長は、訓練陸曹の方を一瞬だけ見た。
訓練陸曹はすでに端末へ向き直っていたが、マウスを握る手が微妙に止まっていた。
画面は開いている。
だが、目が動いていない。
補給科長は何でもない顔で言った。
「ありがとうございます。
訓練班長、少しよろしいですか」
「はい」
補給科長は面談室の方を軽く顎で示した。
「別で少しだけ」
訓練班長は、そこで初めて少しだけ緊張した顔になった。
(面談室)
訓練班長は、姿勢よく座っていた。
真面目な人間ほど、こういう時に“自分が責められる”前提で固くなる。
補給科長はそれを知っている顔で、まず淡々と切り出した。
「先に言っておきますが、現時点で訓練班長を怒るつもりはありません」
「……はい」
「ただ、さっきの指示の落とし方、あれで訓練陸曹が回ると思ってましたか」
訓練班長はすぐに答えた。
「正直、回ると思っていました」
「根拠は」
「必要な情報は言いました。
メールのどれを見るかも伝えましたし、優先も言いました。
分からなければ聞いてくると思っていました」
補給科長は小さくうなずいた。
「なるほど。
では確認します。
今、訓練班長が落とした指示の中で、訓練陸曹が最初にやるべきことは何ですか」
「②の確認と、外との調整準備です」
「期限は」
「②は今日のうちに着手。①は仰指に入る日までです」
「“着手”の定義は」
訓練班長が少し黙る。
「……そこまでは、特に切っていません」
「“早めに持ってこい”は、いつです」
「粗々でいいので、今日の夕方くらいには見たいです」
「それ、本人に言いましたか」
「……いえ」
補給科長は少しだけ背にもたれた。
「でしょうね」
訓練班長は、そこで少しだけ顔をしかめた。
「でも、そこまで細かく切らなくても、普通は通ると思います」
「そうですね。
通る相手には通るでしょう」
補給科長の声は静かだった。
だが、その静かさが逆に刺さる種類のものだった。
「でも今回は、前任者の時に回っていた人間が、訓練班長に代わってから落ちてるんですよね」
「はい」
「なら、“普通なら通る”は、だいぶ意味が薄いです」
訓練班長は、そこで初めて少し言いにくそうな顔をした。
「前任班長の引継ぎは、一通り見ました。
ただ……正直、細かすぎると思っていました」
「どう細かい」
「朝一で紙を渡す。
優先順位を番号で振る。
途中確認を時刻で固定する。
割り込みが入ったら順番を書き直す。
そこまでしなくても、普通に指示すれば分かるだろうと」
「消したんですね」
「……はい」
「なるほど」
補給科長はそこでも責める顔をしなかった。
むしろ、もうだいたい見えた時の顔だった。
「訓練班長。
今の話、多分ですけど、訓練陸曹に必要だった“手厚さ”を消したというより、“通る条件”を消してます」
訓練班長が顔を上げる。
「……通る条件、ですか」
「ええ。
特別扱いではなく、仕事が通るための条件です。
でも、その話を今ここで全部しても、たぶんまだ半分は腹落ちしないでしょう」
訓練班長は少しだけ苦笑した。
「はい。正直、まだ半分くらいです」
「でしょうね。
では、次は本人に聞きます」
(訓練科事務室)
面談室から戻る途中、訓練科長が短く聞いた。
「どう見えました」
「だいたい想定通りです」
「班長は」
「真面目ですし、理解力も高い。
だから、自分に通る指示は他人にも通ると見積もってます」
訓練科長は、それだけでだいたい分かった顔をした。
「……なるほど」
「今の段階で細かく言ってもいいですが、たぶん本人への聞き取り見た方が早いです」
「分かりました」
二人の間で、また短い沈黙が落ちる。
話は通じている。
だが、言葉はほとんど足されない。
その横で訓練班長だけが、まだ何を見抜かれたのか完全には分かっていない顔で立っていた。
(面談室)
訓練陸曹は、入室した時点で少し固かった。
敬礼の動きは綺麗だが、視線が定まらない。
怒られるのか、試されるのか、何を答えれば正解なのか、まだ掴めていない顔だった。
補給科長は、最初から余計な言葉を足さなかった。
「さっき、訓練班長から指示を受けましたね」
「はい」
「今、何をやる予定でしたか」
訓練陸曹は、少し黙ってから答えた。
「②の方から、だと思います」
「“だと思います”」
「はい……。
外と絡むから止めるな、と言われたので」
「では、②の中で最初にやることは」
訓練陸曹は止まった。
「……メールを、確認して」
「その次は」
「……調整先を見て」
「その次は」
「……」
訓練陸曹の目が少し泳ぐ。
補給科長は急かさない。
「では質問を変えます。
今日のうちに、何をどこまで持っていけばいいと理解しましたか」
「②の方を進めて、案を早めに……」
「“早めに”は、いつです」
「……分かりません」
「でしょうね」
補給科長の声は淡々としていた。
だが、訓練陸曹を責める響きはない。
「①はどう理解しました」
「訓練の日程の案を作るんだと思います」
「いつまでに」
「仰指に入る日まで、です」
「その“仰指に入る日”は、今日の時点で分かってますか」
訓練陸曹は、少しだけ苦い顔になった。
「……朝って言ってた気がします」
「何日の朝です」
「……そこが曖昧です」
補給科長は小さくうなずいた。
「割り込みが入ったら、どうしますか」
「……分からなくなります」
「どっちが先か」
「はい」
「聞き返せますか」
訓練陸曹は、そこでかなり長く黙った。
「……聞いた方がいいのは分かってます」
「でも」
「訓練班長、忙しそうなので。
あと、たぶん自分だけ分かってない気がして……」
「前の班長の時は」
「紙で順番を書いてくれてました。
あと、11時とか15時に確認してくれてたので、その時点でズレてたら直せました」
「今は」
「自分で止まって、自分で考えて、余計に遅くなります」
補給科長は、そこで少しだけ目を細めた。
怒っているのではない。
完全に見えた時の目だった。
「なるほど。
今の時点で、訓練陸曹は仕事ができないわけではありません」
訓練陸曹は驚いたように顔を上げた。
「……はい」
「一度に複数入る。
優先順位が曖昧。
期限が具体でない。
途中確認がない。
割り込みで順番が崩れる。
その条件で止まってるだけです」
訓練陸曹は、少しだけ息を吐いた。
「……そう、です」
「いいです。
今日はそこまで分かれば十分です」
(面談室の外)
訓練陸曹を送り出したあと、訓練科長と訓練班長が待っていた。
訓練科長は何も聞かない。
だが、補給科長の顔を見た時点で、だいたい答えは読んだらしかった。
「見えましたか」
「ええ。だいぶ綺麗に」
「何が悪かったんでしょうか」
訓練班長の問いは、言い訳ではなく純粋な確認だった。
だからこそ、補給科長は少しだけ言葉を選んだ。
「訓練班長の指示、通る相手には通るんですよ」
「……はい」
「でも、通る相手にしか通らない。
つまり、“普通に言った”つもりで、“通る条件”をかなり削ってます」
訓練班長は黙った。
訓練科長はその横で、小さく息を吐いた。
「前任者が無意識にやっていたことを、班長は“過剰”だと思って消した。
その理解でいいですか」
「いいです。
しかも、前任者がやっていたのは配慮というより、構造化です」
「構造化」
「ええ。
指示を短く切る。
順番を固定する。
期限を具体化する。
途中で確認する。
割り込みが入ったら並べ直す。
それで仕事が通っていた。
今班長は“普通に戻した”つもりで、それを全部外してます」
訓練班長は、そこでようやく視線を落とした。
「……そこまでだったんですね」
「そこまでです」
補給科長は、訓練科長の方を見た。
「訓練科長」
「はい」
「問題点は見えました。
次は、班運営を組み直します」
訓練科長は短くうなずいた。
「お願いします」
補給科長は、そこで初めて少しだけ口元を歪めた。
「“分かるやろ”をやめるだけですよ。
面倒ですけどね」
訓練班長は苦笑し、訓練科長はいつもの無表情のまま、ほんの少しだけ目を細めた。
ようやく、本当に問題の形が見えた。
そんな空気だけが、三人の間に静かに落ちていた。




