F-3:先任WAC、面倒見のいい先輩のつもりでした
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
(衛生小隊事務室)
面談室から戻った先任WACは、いつもより少しだけ歩く速度が遅かった。
ただ、それが他人に分かるほどではない。
他人から見れば、背筋の伸びた、いつも通りの准看護師陸曹長だ。
姿勢は綺麗で、足音も整っていて、表情も崩れていない。
だからこそ、自席に座った瞬間、指先だけが微かに震えていることに、自分で少し驚いた。
机の上に置いたペンを取る。
戻す。
もう一度取る。
何を書くわけでもないのに、ただ指の置き場が決まらなかった。
「……支配、ね」
小さく漏れた声は、思っていたより掠れていた。
可愛がりやなくて支配です。
補給科長にそう言われた時、先任WACは一瞬、腹が立った。
ずいぶん好き放題言うやないか。
何も知らんくせに。
男相手やからって、大げさに話を膨らませすぎやろう。
自分はそんなつもりで接していたわけじゃない。
少なくとも、最初は本気でそう思っていた。
でも、面談室を出てからしばらく経っても、その言葉だけが耳の奥に引っかかったままだった。
可愛がりやなくて支配。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
自分はずっと、面倒見のいい先輩のつもりだった。
距離の近い、冗談の通じる、話しかけやすい先輩。
仕事も教えるし、空気も回すし、男だらけの中で固くなりすぎた場を少し柔らかくする役目も、ずっと自分がやってきたつもりだった。
なのに、そのやり方が、相手にとっては“圧”だったと言われた。
しかも、ただの圧ではない。
断りづらい空気を使って、黙らせる側の圧だと。
「……そんなふうに、なるんか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、先任WACは目を閉じた。
思い出したくないものほど、こういう時は妙にはっきり蘇る。
⸻
(回想)
若い頃、女は珍しかった。
今よりずっと露骨に、珍しかった。
仕事を教える前に見た目を見られた。
名前を覚えられる前に、愛想を値踏みされた。
気の強そうな顔をしていれば「女のくせに可愛げがない」と言われ、笑っていれば「やっぱり女は愛嬌があってええな」と言われた。
何をしても、先に“女”がついた。
書類を持てば「そういう細かいの向いてるやろ」。
走れば「女にしては速いな」。
少しきつく言い返せば「怖い怖い」。
黙っていれば「機嫌悪いんか」。
最初のころは、いちいち腹を立てていた。
でも、腹を立てたところで、何かが変わるわけではなかった。
むしろ面倒な女扱いされるだけだった。
なら、どうするか。
そこで覚えたのが、笑って受け流すことだった。
まともに怒るより、笑って流した方が損をしない。
距離を詰められる前に、こちらから少しだけ懐へ入った方が主導権を取れる。
相手が「冗談」のつもりなら、こちらも冗談で返した方が、その場は回る。
肩を叩かれたら、軽口で返す。
腰に触れられたら、笑って肘で押し返す。
飲み会で妙なことを言われたら、「また始まった」と笑いに変える。
そうしているうちに、周りは言った。
お前は強いな。
お前はうまいな。
お前がいると空気が柔らかくなるな。
さすが先任やな。
その言葉は、正直少し嬉しかった。
傷ついていないわけではなかった。
気持ち悪いと思う瞬間もあった。
帰ってから無性に腹が立つ日もあった。
でも、それを表に出さずに回せる自分のことを、いつの間にか少し誇らしくも思っていた。
耐えられること。
流せること。
かわしながら仕事を続けられること。
それが、自分の強さやと思い込んでいた。
そうやって何年も経った。
気づいたら、自分は古参になっていた。
男たちは年を取り、若い隊員が入ってきた。
自分は“受ける側”ではなく、“回す側”になった。
それでも、距離の詰め方だけは、昔のままだった。
いや、昔より少し上手くなっていたのかもしれない。
相手が引く一歩手前が分かる。
冗談と本気の境目を、曖昧にしたまま笑わせる言い方も知っている。
気まずくなったら、少し不機嫌になれば向こうが引くことも知っていた。
それは、男社会を生き抜くために身につけたはずの技術だった。
けれど今思えば、その時点でもう、向きが反転していた。
押されないために覚えたやり方を、いつの間にか自分が押す側で使っていた。
⸻
(衛生小隊事務室)
先任WACは、ゆっくり目を開けた。
事務室では、若い女性隊員がコピー機の前で用紙を揃えている。
廊下の向こうでは、誰かが笑っている。
いつも通りの昼下がりだった。
何も変わっていない。
変わっていないのに、自分の見え方だけが少し変わってしまった。
通信小隊陸士長の顔が浮かぶ。
面談室に呼ばれる前の、あの顔。
嫌がっていないように見えた、と思っていた顔。
恥ずかしがっているだけだと、自分が勝手に理解していた顔。
でも、本当は違ったのかもしれない。
違った、のではない。たぶん、違った。
嫌だったのだ。
困っていたのだ。
しかも、自分からは言い出せない形で。
そこで、ふと、昔の自分の顔を思い出した。
笑っていた。
たぶん、今の通信小隊陸士長と同じように。
その場を荒立てたくなくて。
冗談を冗談として受けている顔をして。
嫌だと騒ぐほどでもないふりをして。
あの時の自分は、喜んでいたのか。
そんなわけがなかった。
「……ああ」
先任WACは、机の上に視線を落とした。
そういうことか、と思った。
嫌だったけど、止められなかった。
止めても、どうせ大したことやないと言われるだけやと思っていた。
だから、笑って流した。
その“笑って流した顔”を、自分は何年も
「嫌ではなかった顔」
として記憶し直していたのだ。
そうでもしないと、自分が何に耐えてきたのか分からなくなるから。
でも、その記憶のすり替えは、今度は自分を加害側で楽にした。
これくらい普通。
これくらいは冗談。
これくらいで騒ぐ方がおかしい。
そう思ってしまえば、自分は自分を責めなくて済んだ。
たぶん、ずっとそうやった。
可愛がっているつもりだった。
面倒を見ているつもりだった。
相手もそこまで嫌ではないと思い込んでいた。
その方が、自分のこれまでを否定せずに済むから。
でも、それは結局、相手の顔を見ていたようで、見ていなかったということや。
「成功体験は免罪符になりません」
面談室で聞いた補給科長の声が、遅れて胸に刺さった。
あの男は、言い方がきつい。
腹が立つほどきつい。
けれど、今回に限っては、きつい言葉の形のままでしか届かなかった気もした。
⸻
(女子更衣室前)
夕方、若いWAC陸士長が更衣室前で先任WACを見つけて、少し戸惑ったように立ち止まった。
「あ、先任……」
「何」
「いえ、その……この前の件です」
先任WACは黙って相手を見た。
「私、ちゃんと自分で確かめる前に、ちょっとあの人のこと変な目で見てました。すみません」
先任WACは、一瞬だけ目を伏せた。
「……あなたが謝る話でもないよ」
「でも、自分でも思い込みがあったなって……」
「思い込みは、あったと思う」
「……はい」
「でも、最初のきっかけを作ったのは私や」
WAC陸士長は、少しだけ目を見開いた。
「先任……」
「あなたらに変な受け取り方させるような話し方をしてた。そこは私が悪い」
「……」
「だから、その件であの子を変な目で見るのは終わり。私も終わらせる」
「……はい」
「以上」
それだけ言って、先任WACは先にその場を離れた。
前なら、もう少し柔らかく、もう少し距離を詰めて言っていただろう。
でも今は、それをしない方がいいと分かっていた。
少なくとも、自分にとっては。
⸻
(本部管理中隊・廊下)
数日後。
先任WACは、以前ほど通信小隊陸士長へ近づかなくなった。
必要がなければ話しかけない。
すれ違っても、妙な距離の詰め方もしない。
それでも、挨拶だけは普通に交わした。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
それだけだった。
以前なら、そこに余計な一言を足していたかもしれない。
疲れてない?
最近避けてない?
あの子とはどうなったん?
そういう、仕事にも関係のない言葉を。
今は言わない。
最初のうち、通信小隊陸士長は少しだけ身構えているようだった。
だが、二度、三度と同じ距離感が続くうちに、その硬さは少しずつ薄れていった。
たったそれだけのことで、相手の表情がましになる。
その変化を見た時、先任WACは、自分がどれだけ“ついでの一言”や“軽い接触”で相手を疲れさせていたのかを、やっと実感した。
自分にとっては軽い。
でも、相手にとっては軽くない。
親しみのつもりでも、相手が逃げにくいなら、それはもう親しみだけでは済まない。
⸻
(衛生小隊事務室)
昼休み、若い女性隊員が書類を持ってきた。
「先任、この見積もり、どこ修正したらいいですか」
先任WACは書類を受け取り、目を通した。
誤字が一つ。
時刻の記載漏れが一つ。
形式の違いが一つ。
前なら、書類を返しながら肩でも軽く叩いていたかもしれない。
ここ抜けてるよ、もう。
ちゃんとしてよ。
でも惜しいね。
そんなふうに。
だが今回は、書類の該当箇所を指で示しただけだった。
「ここ、時刻が抜けてる。あと様式、前回送ったやつに合わせて」
「はい」
「内容そのものは悪くない。見積りの立て方は前より整理できてる」
若い女性隊員が、少しだけ顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「修正したら、また持ってきて」
「はい」
去っていく背中を見ながら、先任WACは少しだけ息を吐いた。
有能さは残していい。
ただし、身体を使うな。話を作るな。
補給科長の言葉が、また頭をよぎる。
「……ほんま、言い方は腹立つけど」
中身まで否定されたわけではない。
そこだけは、少し救いだった。
仕事を教えることまで間違いではない。
面倒を見ることまで否定されたわけでもない。
ただ、自分はそのやり方を間違えていた。
親しさのつもりで、相手の境界線を踏んでいた。
面倒見のつもりで、相手の反応を自分に都合よく読んでいた。
それをやめるだけでも、たぶんまだ遅くはない。
⸻
(衛生小隊事務室・夕方)
その日、衛生小隊長が珍しく、先任WACの机の前で足を止めた。
「最近、ずいぶん静かやな」
「そうですか」
「前より、若いの相手に距離近くないというか」
先任WACは、ペンを置いた。
「今までが近すぎたんですよ」
衛生小隊長は少しだけ言葉に詰まった。
「……そうか」
「はい」
「しんどいか」
その問いに、先任WACは少しだけ考えた。
しんどい。
正直、しんどい。
自分のやり方が間違っていたと認めるのはしんどい。
昔の自分が、別の意味で傷ついていたことまで見直さなあかんのもしんどい。
それでも、そのしんどさを理由に、元のやり方に戻っていいわけではない。
「……しんどいですけど」
「うん」
「だからといって、あれを続けていい理由にはならんでしょう」
衛生小隊長は何も言わなかった。
たぶん、少しだけ驚いていた。
先任WAC自身も、こんなふうに言う自分に、少し驚いていた。
⸻
(廊下)
帰り際、通信小隊陸士長とすれ違った。
向こうは一瞬だけ緊張したようだったが、すぐに普通に敬礼した。
先任WACも、普通に返す。
それだけだった。
それだけなのに、今までよりずっとましだった。
前は、相手の気持ちを確かめる前に、自分の距離感で懐へ入っていた。
今は、入らない。
ただそれだけで、相手が少し楽そうにしているのが分かった。
その安心は、本来、最初からあってよかったものだ。
自分が壊していたものを、相手がようやく取り戻しつつあるだけなのだと、先任WACは理解していた。
だから、ここで
「変わった自分を見て」
とは思わなかった。
許されたいとも、思わなかった。
まずは止める。
次に、繰り返さない。
話はそこからだ。
「……面倒見のいい先輩、のつもりやったんやけどね」
誰にも聞こえない声で呟いて、先任WACは少しだけ笑った。
つもりは、つもりでしかない。
相手がどう受け取ったかを見ずに続けた時点で、それはもう言い訳や。
廊下の向こうで、若い隊員たちの笑い声がした。
先任WACはそれを少しだけ聞いてから、今度は本当に静かな足取りで歩き出した。




