F-2:補給科長からの課題
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
総務班長は、机の上に置かれた書類を見て、小さく舌打ちした。
またか。
細かい抜けがある。
しかも、以前に自分が注意したのと、ほとんど同じ種類のミスだった。
喉の奥が熱くなる。
――何回言わせるんじゃ、この。
そこまで思いかけて、総務班長はふと止まった。
ああ、これか。
これが、あかんのやな。
昨日、補給科長に言われたことが頭をよぎる。
【教育と感情処理が混ざってる。】
総務班長は、ゆっくり息を吐いた。
そして、無言のまま机の引き出しを開けた。
中には、補給科長に渡された大学ノートが入っている。
表紙は安物で、罫線も普通の、どこにでもあるノートだった。
だが今の総務班長には、そのノートが妙に重く見えた。
補給科長は言っていた。
“今日から一週間、毎日。
言いそうになったことと、本来言うべきやったことを書いてください”
面倒なことを言う男だ、と思った。
今も思っている。
だが、総務班長はノートを開いた。
日付を書く。
対象者を書く。
場面を書く。
そして、ペン先を止めた。
今、自分は何を言いかけただろうか。
一瞬だけ、体裁のいい言葉を書こうとした。
指導上、必要な範囲で厳しく注意しそうになった。
再発防止のため、感情的にならないよう留意が必要。
そんな、どこかの服務指導記録みたいな文が頭に浮かんだ。
だが、その瞬間。
「変わる意思があって、適切な指導が受けられれば、誰であっても変われます。あなたも、総務陸曹も、です」
補給科長の声が、妙にはっきりと思い出された。
総務班長は、舌打ちする代わりに、消しゴムを手に取った。
いま書いた綺麗事を全部消す。
それから、少し考えて、本当のことを書いた。
今までの自分なら、何と言っていただろうか。
思い浮かんだ言葉を、そのまま書く。
また同じミスか、このバカ野郎。
前にも言うたやろうが。
メモも取らんからこうなるんじゃ。
なんでこんなことも分からんのじゃ。
こっちの仕事増やしやがって。
書いて、止まる。
総務班長は、ノートを少し離して眺めた。
そこに並んでいたのは、指導より、罵倒だった。
伝えたいことは、本当は一つか二つしかないはずだった。
確認不足。
前回注意した点の再発。
そこだけでよかったはずなのに、紙の上にはその何倍もの罵詈雑言が並んでいた。
「……なんやこれ」
小さく呟いた声は、自分でも思ったより掠れていた。
昨日の夜は眠れなかった。
補給科長に言われた言葉が、頭から離れなかったからだ。
“未熟な相手ほど、指導する側は手順を丁寧に切らなあかんのです”
“そこを雑にやったら、相手はできんまま萎縮する”
責められている気がした。
総務陸曹が変われなかったのは、お前が正しい指導をしてこなかったからだ。
そう言われているようで、腹が立った。
いや、実際に腹は立っていた。
なんで自分ばっかりそんなことまでせなあかんのだ。
あいつが最初からもっとちゃんとしていれば済んだ話やろうが。
そう思った。
でも、眠れないまま布団の中で何度も同じやり取りを思い出しているうちに、別の言葉が引っかかり始めた。
「これは罰やないです」
総務班長はノートを見下ろした。
考えてみれば、補給科長は自分の上官ではない。
このノートだって、別に補給科長に得があるわけではない。
面倒なだけだ。
正直、他人の教育不良に首を突っ込むなど、好きこのんでやるようなことでもない。
それでもあの男は、やれと言った。
責めるためではなく、直すために。
「総務班長、入隊してからこれまで、その場その場で一生懸命やってきたんでしょう?」
あの言葉も、思い出した。
補給科長は、自分のやり方が間違っていたことは責めていた。
そこは容赦なかった。
だが、それだけだった。
人格を腐したわけでもない。
見下したわけでもない。
呆れたように切り捨てたわけでもない。
間違っている。
だから直せ。
そのために必要なことをやれ。
言っていることは、ただそれだけだった。
それを、あの男は真剣な目で自分に伝えていた。
総務班長はノートに視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
変わりたい。
ふいに、そんな言葉が浮かんだ。
自分でも少し驚いた。
定年も、少しずつ近づいていた。
本部勤務になってからは、現場より事務仕事が増えた。
いつからだろう。
目の前の仕事を片づけることばかり考えて、相手を育てるということを、面倒ごとの一種みたいに扱うようになっていたのは。
これまで三十年以上働いてきた。
このまま、後輩をパワハラで潰した人間として終わるのは嫌だった。
変わりたい。
そう思った時、総務班長はようやく、自分が昨日からずっと意地になっていたことに気づいた。
変わる必要があると認めたくなかったのだ。
認めたら、自分のこれまでのやり方が間違っていたことになる。
それが嫌で、腹を立てていたのだ。
ノートの上には、さっき書いた自分の言葉が並んでいる。
伝えたいことより、苛立ちの方が多い。
指導したい内容より、自分の不快さの方が前に出ている。
それを、紙の上の文字が突きつけていた。
総務班長は、ペンを持ち直した。
今度は、ノートの下にもう一段、書き足す。
本来言うべきやったこと。
前回注意した確認項目が、今回も抜けている。
次からは提出前に確認欄を自分で読み上げてチェックしろ。
分からんなら、その段階で持ってこい。
書いてみる。
短い。
味気ない。
だが、自分でも不思議なくらい、それで足りるように見えた。
伝えるべきことは、最初からこれだけだったのかもしれない。
「……そういうことか」
総務班長は、誰に言うでもなく呟いた。
まだ、腹は立つ。
まだ、苛立ちは消えていない。
まだ、総務陸曹ができるようになる未来も、正直そんなに綺麗には想像できない。
でも、だからといって、怒鳴っていい理由にはならない。
そこまでは、ようやく分かり始めていた。
総務班長はノートを閉じた。
表紙は安っぽいままだった。
だが、変わりたいと願った自分のことを、そのノートがじっと見つめているように感じた。
2026.3.22タイトルのナンバリング修正




