Oー2:心理的安全性の高い職場とは
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
(隊長室)
翌日。
隊長は、昨日の防衛監察アンケート結果を机の端に寄せたまま、向かいの補給科長を見ていた。
「で」
「はい」
「昨日の続きや」
「そらそうでしょうね」
「“心理的安全性”とやらを説明せえ」
補給科長は、隊長の前の応接椅子に座った。
「まず、隊長が誤解しそうなところから潰します」
「おう」
「心理的安全性が高い職場は、ぬるい職場やないです。そこを履き違えると組織が腐ります」
隊長は眉を上げた。
「ほう」
「何でも好き放題言ってええ職場でもないです」
「ほう」
「仲良しこよしで馴れ合ってる職場とも違います」
「……だんだん分からんくなってきたぞ」
「そらそうでしょうね」
「言い方……」
「事実ですから」
補給科長は気にせず続けた。
「心理的安全性が高い職場って、雑に言うと、
必要なことを言うのに、余計な勇気やご機嫌伺いが要らん職場、です」
「昨日も言うてたな」
「ええ。
大事なんは“気持ちよく喋れるか”やなくて、
質問、報告、相談、異論、
このへんがちゃんと出せるかどうかです」
「必要なこと、ってそういうことか」
「そうです。
“分かりません”が言える。
“怪しいです”が言える。
“ここ危ないです”が言える。
その一言を出すのに、余計な機嫌読みや、評価への怯えが要らん状態です」
隊長は、昨日見た自由記載欄を思い出していた。
『上司に相談しづらい』
『人によって指導の当たり外れが大きい』
『部署によって空気が違いすぎる』
たしかに、全部そこへつながっているようにも見える。
「……でもなあ」
「はい」
「うちの連隊で言うと、誰が高くて誰が低いんや」
「その聞き方はだいぶ雑ですね」
「そこはちゃんと雑って言うんやな」
「これくらい言えば隊長でも分かるでしょう?」
補給科長は、少しだけ考えてから言った。
「例えば、本管中隊長」
「うん。あれは分かりやすいな」
「ええ。
人当たりはいい。
部下とも距離は近い。
飲みにも誘うし、雑談も多い。
一見、何でも言えそうには見えます」
「そうやな」
「でも、業務の問題点を
“それ、規則上まずいです”
“そのやり方は再現性がありません”
って部下が言いやすいかと言うと、かなり怪しいでしょう」
隊長は、少しだけ苦い顔になった。
「……あー」
「人間関係が仕事の前提になると、言いにくいんですよ。
空気を壊したやつになりたくないから」
「居心地は悪くないけど、安全ではない、と」
「そうです。
居心地が良いかと、安全に物が言えるかは別です」
隊長は小さくうなずいた。
「なるほどな。
じゃあ逆は?」
「第5中隊長でしょうね」
「うわ、一番怖いやつきたな」
「隊長みたいなタイプからしたら、だいぶ怖いでしょうね」
「お前、そういうとこやぞ」
「事実なんで」
補給科長は平然としていた。
「第5中隊長のところ、雰囲気はぬるくないです。
むしろ、ずっと張ってるでしょうね。
でも、指示の基準はかなり明確です」
「うん」
「何を、いつまでに、どういう形でやれ、がはっきりしてる。
できてない時も、少なくとも業務の話として切る。
なので、居心地は良くなくても、業務上は案外安全です」
隊長は少し考え込んだ。
「……言われてみれば、姉御は、怖いけど曖昧ではないな」
「ええ。
“怒られそうで怖い”
と
“何をしたら怒られるのか分からなくて怖い”
は別です」
「後者の方がきついな」
「後者の方がだいぶきついです。
前者はまだ備えようがあります」
補給科長は、続けて指を折った。
「情報科長も、あれで案外高いです」
「情報科長?」
「ええ。
寡黙で近寄りにくい。
でも、分からんことを持って行けば、規則から外さず返すでしょう」
「それはそうやな」
「質問して笑われることも、感情でいなされることもない。
なので、親しみやすさは低くても、相談の安全性はそこそこあります」
「なるほど……」
「逆に、優しそうに見える人の下でも、普通に安全性が低いことはあります」
「誰や」
「総務科長ですね」
「え?」
「そうでしょう。
あの人、怒鳴るタイプではない。
人当たりもそこまで悪くない。
でも、抱え込んで何がどこで止まってるか見えんから、部下は“今どこへ何を持っていけばええんや”が分からん」
「……」
「優しそうに見えることと、安全に相談できることは別なんです」
隊長は、しばらく黙っていた。
昨日までなら、たぶん
“怖い人は低い”
“優しい人は高い”
くらいで考えていたと思う。
だが今、補給科長の言葉を聞くと、それでは雑すぎる気がした。
「なあ」
「なんでしょう」
「結局、何があると高いって判断できるんや」
補給科長は少しだけ前かがみになった。
「分かりやすい目安なら四つです」
「また四つか」
「好きなんで」
「知らんがな」
「一つ、質問が出る。
二つ、怪しい時点で途中報告が上がる。
三つ、ミスが隠れにくい。
四つ、下から“これおかしいです”が出る」
「……ああ」
「逆に低い職場は、全部遅れます。
質問も相談もミス申告も、何もかも遅い。
ギリギリまで一人で抱えて、最後に一番燃えるタイミングで表に出る」
「それ、だいぶ嫌やな」
「嫌ですよ。
でも、そう珍しい話でもないでしょう?」
「なんでそんなことになるんや」
「簡単です。
持って行った方が自分が損すると学習しとるからです」
「損」
「ええ。
質問したら呆れられる。
途中で報告したら詰められる。
ミスを指摘したら、人格まで値踏みされる。
そんな職場で、誰が早めに口を開くんです」
隊長は、机の上のアンケートを見た。
『上司に相談しづらい』
『人によって指導の当たり外れが大きい』
『できる人に仕事が偏っている』
それはもはや、単なる不満ではなく、職場の空気の通知票みたいに見えた。
「……なあ、補給科長」
「なんでしょう」
「心理的安全性が高い職場って、要するに、みんな優しい職場ってことではないんやな」
「全然違います。そこ混ぜるんはだいぶ手抜きです」
「言い切るな」
「言い切れます。
むしろ、優しい顔だけして、必要なことを誰も言わん職場の方が、普通に危ないです」
「危ないか」
「空気が悪いよりはマシです。
でも、“空気を壊さないこと”が最優先になった瞬間に、問題は詰まります」
「……本管やな」
「言ってません」
「昨日に引き続き二回目やぞ」
「二回とも隊長が言ってます」
隊長は腕を組んだまま、苦い顔で笑った。
「ほんま、嫌な理解の仕方をしてしまうな」
「でも、そこまで言えば理解は早いでしょう」
「褒めてるんか」
「半分くらいは」
「残り半分は何や」
「現実の確認です」
「腹立つなぁ……」
補給科長は、机の上のアンケートから一枚だけ抜いた。
「隊長、この中で一番分かりやすいのは、この記載ですよ」
「どれや」
「『できる人に仕事が偏っている』」
「それがか?」
「ええ。
心理的安全性が低い職場って、結局、言える人と抱えられる人にだけ負荷が集まるんです」
「うん」
「で、そういう人は最初は頑張るんです。
でも周りは、“あの人がやってくれる”で学習してしまう。
結果、できる人ほど忙しくなって、できん人ほど育たんままです」
「……ああ」
「なので、この問題って、単なる優しさの話やないんです。
組織の生産性と事故予防の話です」
隊長は、そこで少しだけ姿勢を正した。
「そこまで行くんか」
「行きますよ。
必要なことが早く出る職場は、事故も手戻りも減る。
逆に、言いにくい職場は最後に全部まとめて燃えます」
「嫌すぎるな」
「でしょうね」
しばらく沈黙が落ちた。
「……なあ」
「はい」
「それが高いと、具体的に何が変わるんや」
補給科長は、少しだけ口元を緩めた。
「一番分かりやすいのは、下からちゃんと物が上がってくることです」
「物?」
「業務改善提案とか、途中での相談とか、
“これ無駄やと思います”
“このやり方、危ないです”
みたいなやつです」
隊長は、嫌そうな顔をした。
「……うち、上がってくる所と、来ん所があるな」
「そらそうでしょうね」
「お前、ほんまそういう言い方するな」
「ただの事実ですから」
補給科長は立ち上がった。
「なので、次に見るならそこです」
「業務改善提案、か」
「ええ。
下から物が上がらん職場は、だいたい空気か余力か、その両方が死んでます」
隊長は、アンケートの束を見下ろした。
昨日より少しだけ、何を読まされているのかが分かってきた気がする。
分かってきたからこそ、面倒さも増した。
「……ほんま、管理職って面倒くさいな」
「これで序の口です」
「……これで序の口なんか」
「ええ。
なので、次話は業務改善提案です」
「嫌な予告やな」
「でも、隊長が気にしてる
“できる人に仕事が偏る”
にもつながりますよ」
「じゃあ聞かんわけにもいかんやないか……」
「そういうことです。指揮官には逃げ道はありませんよ」
隊長は、ため息をついて椅子にもたれた。
「ほんま、お前はそういうとこやぞ」
補給科長は、何でもない顔で敬礼した。
「褒め言葉として受け取っときます」
「褒めてへんやろ!」
隊長室に、少しだけ乾いた笑いが落ちた。
心理的安全性。
面倒な専門用語だと思った。
だが、面倒な言葉ほど、雑に扱うともっと面倒なことになるのかもしれない。
隊長は、机の上のアンケートを見ながら小さく呟いた。
「……次から次へと、よう問題が見つかるもんやな」
その独り言に返事はなかったが、補給科長の背中は、だいぶ楽しそうにも見えた。
2026.3.15改稿
2026.3.22全面改稿




