第四六章 帰郷
揺れる電車の中、ほとんど空っぽの客車の中で、あたしと好男は並んで座っていた。好男の手には分厚い封筒、あたしの隣の席には、ぱんぱんに膨らんだ肩掛け学生鞄。花柄にアイロンをかけてもらった新品同様の制服のスカートの上で、あたしは真新しいファイルの中の紙に眼を落とした。
時代錯誤の古臭いイラストと、中学一年生という文字が黄ばんだ紙の上で踊っている。思わず笑いを漏らすあたし。流れる景色をぼーっと見ていた好男がそれに気が付いて、膝の上のファイルを覗き込んだ。
「……そういえば、魅首ちゃんとスィフィが初めて会ったのって、この電車の中だっけ」
あくびをかみ殺して尋ねる好男に、あたしは頷いた。ファイルの中の広告を見てると、何故か笑いが込み上げてくる。――色んな意味で、だけど。
ゆったりとした周期で揺れる電車の背凭れに身を預け、きちんと並んでぶらさがる広告たちに眼を向ける。
「そうそう、丁度こっち側の席でさ。上り線の、この位置の車両で。ホント、びっくりしたんだよなー。あのときの顔、撮れるもんなら撮っておきたかったし」
軽口を叩いて笑うあたしに、好男は眠そうな眼を向けて微笑んでいる。疲れた? と尋ねると、そりゃね……、と好男が答えた。左右に首を回す好男を見て、あれから大変だったもんなぁと、あたしは思い返した。ニュース実況のカメラがまわる中、半壊の図書館から気絶した少年と少女を抱えて出てくれば、英雄として報道されちゃってもおかしくない。ましてそれが、数日前にバラエティー番組で謎の怪力男とか放映されちゃってたら。
またぼーっと窓からの景色を眺める好男を、あたしはそっと見詰めた。こんがりいい具合に日に焼けた首筋には、点々と黒い斑点が今も消えずに残っている。これ以外にもとても見せられないところが色変わっちゃってるんだぜ、とかふざけたこと言ってきたのを裏拳入れて撃退したけど――。
物騒なことを思い出しているあたしに気付かず、好男が左手を上げて首筋を掻いた。夏の日差しにきらりと輝く黒い腕時計の文字盤には、もうアズァの姿は無い。
何も映らない文字盤を見てあたしがちょっとセンチメンタルな気分になっていると、電車が駅についた。懐かしい駅名を聞いて感傷に浸るあたしの横で、好男が慌てて身繕いをしている。
「ああー、やっぱりこのネクタイ、柄が派手すぎるかなぁ。くっ、しまった。こんなことろに寝癖がついてる……これってやっぱマズいかなぁ、アズァ――」
習慣で左手の腕時計を覗き込んだ好男が、何も映らない文字盤を見て肩を落とした。大丈夫か? と尋ねるあたしに、好男はへらへらと笑ってみせる。
「あはは、オレってばまだ習慣が抜けなくって――――ごめん、ちょっと眼にゴミが入った。トイレ行ってくるから、魅首ちゃん先行ってて」
目頭押さえてホームから出ていく好男の背中を見送ると、笑い混じりの溜息が出た。ったく、好男の奴、泣き顔見られたくないなんて水くさいな。
くすくす笑ってるうちに、あたしの目尻にもちょっと涙が溜まった。それに気付いて、堰を切ったように涙が眼から溢れ出す。誰もいない田舎の改札で、あたしは思いっきり泣いた。どれだけ泣いても、もう力は湧いてこない。あるのはただ、ちょっと切ない気持ちだけ。
自分の泣き声よりセミの鳴き声が大きくなって、あたしは鼻をすすった。無人の駅は妙にがらんとしていて、町を出たときより広く感じた。そして、懐かしく。
涙の跡を乱暴に拭うあたしの耳に、バイオリンとピアノの音が聞こえてきた。たどたどしい演奏を、先生が優しく指導している。暑い日差しを遮る黒々とした木々の影、笑いさざめきながら夏休みを満喫する子ども達のさらさらの髪。
そして、町中に溢れる眩しいほどの色達。
快晴の空を見上げて、あたしはいつの間にか微笑んでいた。
セミの声が止み、人の足音がした。好男かな? そう思って振り向くと、がま口財布を提げた爺さんがてくてくとやってくるのが見えた。切符売り場の前で止まり、ぶるぶる震える指で駅名を一つひとつ確認している。あたしは鞄を掛けなおすと、爺さんの傍へ駆けていった。驚く爺さんの隣に立ち、駅名がいっぱい書かれた路線図を見上げる。
「どこ行くの? 」
「浜松へ行きたいじゃがのう……」
「んー……。あそこで乗り換えて、えーと――わかった」
使い古した財布から小銭を券売機に放り込み、あたしは出てきた切符を爺さんに渡した。爺さんは驚いたみたいで、あたしの顔をしげしげと見詰めている。電車のブレーキの音がして、銀色の車両がホームに滑り込んでくるのが見えた。
「ほらほら、電車来たよ。じゃ、またね」
気恥ずかしくなって追い立てるように爺さんを見送るあたしに、振り向いた爺さんは首を傾げていた。
「はて、丙盟さんとこの長女にそっくりなんじゃが……。あの子がこんなにええ子なわけないしのう……」
ぶつぶつ呟いて電車に乗る爺さんを苦笑しながら見送って、あたしはホームを見回した。好男のやつ、いったい何処まで行って泣いてるんだか。……あ、そういうえばこの辺ってコンビニの中にしかトイレ無かったっけ。
そう気付いたあたしの視界に、コンビニから出てくる好男の姿が映った。ごめんごめん、と謝る好男の手には、また新しい封筒が握られている。
「好男、それ――」
「あ、これ。いやぁ、手汗で宛名が滲んじゃってさぁ。魅首ちゃんの家に着いたときに書き直そうと思って」
セロファンに包まれた封筒を見せる好男。正直、うちの親にはそういうの効かないと思うんだけどなぁ……。果たしてそのとき好男はどうするかな、とちょっと面白がりながら、あたしは駅から出た。隣を歩く好男が、時々舗装の剥がれたところに躓いてコケている。
「ああー……それにしても、魅首ちゃんのご両親許してくれるかな」
「おいやめろ、他人が聞いたら誤解するだろ」
そうだね、と好男が笑って頷いた。いや、そこはちゃんと否定しろよ。変な噂が広まったらただじゃおかないからな。全然気にしてない好男に、あたしはぼそっと呟く。
「……で、いつ式挙げるんだよ」
あたしの問いに、好男が立ち止まった。ぽかんと間抜けに口を開けて立ち尽くす好男に、あたしはじれったくなって地団駄を踏む。
「だから、花柄との結婚式だよ! まさか挙げないつもりじゃないよな? もしそうだとしても、ケーキ作って押しかけるからな! 入籍の日とか、毎年祝電送るんだからっ」
道行く人にくすくす笑われて、あたしは恥ずかしくなってそこでやめた。眼を瞬いていた好男が、しどろもどろになっている。
「え、いや、あいつとは腐れ縁っていうか。他にもまだ清算しきってない関係が残ってるっていうか――」
珍しく顔を真赤にして慌てる好男を置いて、あたしはさっさと家へ歩き出した。そうかまだ他に浮気相手がいるのか。もっと反省が必要みたいだな。追いついた好男を見上げると、まだ何か言い訳を続けている。やれやれ――。
「あのさ、二階の……、供養してくれた? 」
また尋ねるあたしに、好男が不思議そうな顔して頷いた。そして、どうして魅首ちゃんがあんなこと知ってたんだ? と尋ね返す。適当に言葉を濁すあたしに、好男はそれ以上深く訊かなかった。
晴れ渡った空を見上げ、好男が独り言を呟く。
「供養したとたん、ぱったり女の人との出会いが途切れちゃってさぁ。もしかして、守護霊だったのかな――」
実に残念そうに目を閉じる好男に心なかで突込みをいれて、あたしは黙って歩いた。手入れしてない生垣が続き、懐かしい表札が出た家に辿り着く。
案の定、両親が家の前で待っていた。
謝るあたしに父さんが拳骨を落とし、母さんがビンタをお見舞いしてくれた。ひたすら謝罪を続ける好男の声が、セミの鳴き声と混ざって聞こえる。
見上げた空が、どこまでも青かった。