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第四三章 未来への行進 前編

 蟹の匂いが満ちる空間の中、血染めのバンダナを頭に巻いた少年の叫び声がこだました。


「これは幻術っす! 標的はもっと手前にいるっす! 」


 蟹の少年が再度叫び、浅黒い肌の男と赤いドレスの女が攻撃の手を止めた。コンクリートの刃を従えながら、浅黒い肌の男は空間に警戒の視線を送っている。


「……幻術? そうか――宮廷占い師の能力のことか。してやられたな」


 コンクリートの双剣を握る男の手に力が入り、ちっ、と舌打ちする音が聞えた。すぐに刃の陣形を変えて防御の体勢をとる男を見て、あたしも心の中で悔しがる。


 しまった、あっちには蟹の少年が居たんだった――。視覚を封じる攻撃を仕掛けても、蟹の殻粉でつくられた巨大なセンサーの前では、全て少年に丸分かりだ。


「あらら、見破られちゃったねぃー。どうする?魅首ぅ」


 足元から浮上してきたスィフィが、眉を八の字にしてこっちを見ている。どうするったって、あの少年が他の奴らに合図できないようにするっきゃないじゃないか。

 好男の居場所を口で教えている少年に、険しい眼を向けるあたし。ぎゅっと拳を握るあたしを見て、スィフィが唇を尖らせた。


「スォン先生と約束したこと忘れちゃったの?」


「……約束? ああ、そういえばそんなことあったな。でもここはスィフィ達が居た故郷じゃないだろ? あっちが完全に約束果たしてないなら、こっちだって生真面目に約束守る必要ないだろ」


 それに、今蟹の少年を叩かなければ、こっちがやられてしまう。スィフィと自分に言い訳をしながら、あたしはその場で軽く屈伸した。少年までの距離は、だいたい百メートルくらいか。間にいる十四季は何故か少年を攻撃せず、その場に佇んでいるだけだ。あいつ、なんで蟹少年を攻撃しないんだよ。蟹少年の注意が仲間のほうに剃れてる今が、絶好のチャンスだっていうのに。


 悠然と立ち尽くすだけの十四季に不満を覚えながらも、あたしは走り出した。透明な地面をローファーの底で蹴る。体育の短距離走でも本気出したこと無いあたしが、これ以上ないくらい全足の筋肉使って駆けていく。足音に気付いたのかセンサーにひっかかったのか、蟹の少年がはっとしてこちらを向いたけど、もう遅い。


 腰を落として、あたしは固い拳を少年の鳩尾へと繰り出した。ねじり込むような軌道の拳の周りに、紅の粉が纏わりついて勢いを削ぐ。半分ほどに威力が落ちた拳は、それでも少年に当たって軽い身体を吹っ飛ばした。かわいそうだけど、こっちも命が懸かってるんだ。透明な地面に倒れる少年を組み伏せようと、あたしは一歩踏み出した。


「うっ――」


 げほごほと咳き込む少年の周りに、蟹の殻粉が集まっていく。大量の紅の粉が、よろめく少年の身体を起こした。……まさか、こいつも好男やヘッドホンの男みたいに、蟹の殻を纏って闘うつもりなのか?

 警戒して足を止めるあたしの背後で、十四季が大きく息を吸う音がした。思わず振り返るあたしの目に、地面に左手をついて肩で息をする十四季の姿が映る。身体中が蟹の殻粉だらけだ。動かなかったんじゃなくて、動けなかったのか――。口の中に溜まった蟹粉を吐き出す十四季を見て、あたしの背中を冷や汗が伝った。


「あのとき決めたっす――もう迷わないって、もう挫けないって」


 細かな蟹粉が音を立てて、あたしの背後で蟹の少年がゆっくりと宙に浮かんでいく。身体中の毛が逆立ち、振り乱れたあたしの茶色い髪まで重力に逆らい始めた。

 ――何が起こってるのか、振り向かなくても分かる。

 少年の鼻をすすり上げる音に、肩が強張った。逆に状況を悪化させてしまったみたいだ。今更気付いたけど、泣いて強くなるってのは結構厄介なことなんだな。


 顔に纏わり付く粉を払い落とそうと、十四季が頭を揺らした。なんか、一瞬見えた銀髪の下の顔がすごいことになってる気がしたけど――。

 包帯を巻いた右手で顔を抑える十四季。なんだかすごく苦しそうだ。蟹の少年と闘って怪我したんだろうか? 十四季の身を案じて近寄ろうとするあたしの耳に、より一層大きくなった砂嵐の音が聞こえた。少年の能力のせいで、あたしの髪はまるで水中に漂うようにうねっている。その動きに合わせて、耳障りな砂嵐の音が空間を蹂躙していく。


「……なんだよ、結局こっちで闘っても、亀裂は広がるんじゃないか」


 背後のもやもやした穴が広がり、図書館のオレンジ色の屋根がこっちに近付いてきている。いや、それだけじゃない。どこから差してるのかわからない冷たい光も、次第に明るさを増してきた。あんまり考えないようにしてたけど、この光って――。


 冷たい白光の正体に薄々感付いて、あたしの眉間に皺がよった。もし、予想が当たっていたら。この光の正体が、あいつの出す光だとしたら……。

 眩しさを増す光を見つめ、冷たい汗が背中を伝う。眩しさに細めた視界の端に、紅のもやがちらりと映った。


「しまっ――」


 思わず逃げようとするあたしの足が止まる。このまま避けたら、十四季に直撃してしまう。どうしようかと悩む一瞬の間に、蟹の殻粉の奔流があたしと十四季を押し流した。細かな粒があたしの肌を削り、小さなミミズ腫れを沢山つくっていく。全身を猫の爪で引っかかれてるみたいだ。

 蟹の殻粉でできた紅の霞は、渦状になってあたしを包んでいる。あの少年、このままあたし達を嬲り殺しにする気なのか。


 渦の中でひたすら翻弄されるあたしの耳に、蟹の少年の声が聞こえる。感極まってちょっとうわずってるけど、冷静に好男の位置を仲間に伝えてるみたいだ。仲間の歩幅まで計算して、右に何歩前方に何歩進むかまで指示している。

 こいつ、前闘ったときよりもずっと、精神的に強くなってる――。


「――標的を固定したっす。また位置を指示するんで、どちらかは幻術を使ってる女の子の方へまわってくださいっす」


 涙声で少年がそう言い、遠くで好男の呻き声が聞こえた。きしきしと髪の絡まる音も聞こえる――ってことは、あの夜みたいなことになってるのか。


 なんとかこの渦から抜け出して、少年を止めないと――。おろし金みたいな渦の中でもがくけれど、小さな引っかき傷が増えただけで何の効果も無かった。心ばかり焦るあたしの耳に、赤いドレスの女と浅黒い肌の男の声が聞こえる。


「なんでわたしがアンタに獲物を譲らなきゃいけないのよ、アンタがあっちに行きなさいよ」


「……我が受けた任務は、副隊長とスィフィの魂を回収することだ。任務に関係の無いことで、労力を使う気など無い」


 浅黒い肌の男が、澄ました声でそう言った。聞いていた赤いドレスの女が顔をしかめて、罵詈雑言を吐き出している。


「――ちっ、わかったわよ。今回だけは、アンタに譲ってあげる」


 悔しそうな声の後に、ピンヒールの甲高い音が、刈子のいる方へ向かった。やばい、あっちにはカンツァとか言うあいつらの仲間もいるんだった。

 刈子一人じゃとても耐え切れない――。そう思って焦るあたしの腕に、平べったい何かが巻き付いた。


「……? 」


 擦り傷だらけになったあたしの身体が、蟹の殻粉の渦から引っ張り出される。恐る恐る目を開いた先には、同じように擦り傷だらけになったスィフィがいた。その後ろには、右足で再び律動を刻んでいる十四季の姿が。


「間に合ってよかったぁー。もう一人で突っ走ったりしないでほしいねぃ」


「ご、ごめん……」


 安堵の溜息をつくスィフィの頬を、鋭い蟹鋏が掠める。白い頬に赤い血が滲み、あたしの頬にも痛みが走った。続けて聞こえた空を切る音に、スィフィの頭を掴んで一緒に伏せる。

 スィフィが文句を言おうと口を開いたと同時に、あたし達の真上を大量の蟹鋏がぎっていった。スィフィの足首まである長い髪が鋏で切られて、ピンクと緑のカラフルな線が空中に散っていく。


「あわわ――あとちょっと遅れてたら確実に天国行きだったねぃ! ありがと魅首ぅー」


 過ぎ去る蟹鋏の一群を見て冷や汗かきながら、スィフィが礼を言っている。魅首も髪の毛切れちゃったね、ごめんね、とか言ってる場合じゃないだろっ。

 追撃を警戒して蟹の少年の様子をうかがうあたしの周りを、細かい蟹の殻粉が漂っている。こんなんじゃ、好男と刈子を助けにいくことはおろか、身動きすら取れない……。


 思っていたことが顔に出てたのか、スィフィが心配そうに声をひそめて話かけてくる。


「だいじょぶ、魅首? なんか顔こわいよぉ? ……もしかして、また無茶なことしようと考えてる? 」


「無茶って……おまえなぁ、この状況ちゃんとわかってるのかよ。あたしがなんとかしなきゃ――」


 間延びした声にいらつくあたしを、カラフルなリボンが遮る。むっとしてスィフィを見ると、なんだかつらそうな顔をしていた。てっきりあたしのことをおちょくってるんだと思ったから、これは意外だ。

 困惑するあたしの目を、スィフィが真直ぐに見つめてくる。


「魅首、落ち着いて。焦ってばっかりじゃ出来ることも出来なくなっちゃうねぃ。一人で抱え込めないときは、おいらがいるんだから」


 だから二人で作戦練ろう、とかなんとかスィフィが言っている。そんなに真面目な顔されると、なんだか背中がむず痒いじゃないか。それになんだよ、急にかっこつけた台詞せりふ言ったりして……。


「とりあえず、一回深呼吸しようねぃ。はい息吸ってー」


「ったく、わかったよ――」


 もやもやした気持ちを抱えながらながら、あたしは大きく深呼吸した。――うん、ちょっと頭がすっきりした。確かにさっきまで、頭に血が上りすぎてたかもしれないな。

 深呼吸とまではいかないけどゆっくりと呼吸を繰り返すあたしに、スィフィが前方の様子を指差す。


「ほら魅首、あれ見てみるねぃ」


 言われたままに好男が囚われている方向を見ると、コンクリートの剣が今にも黒い鎧を貫きそうに振り上げられていた。思わず声を上げかけるあたしの口をスィフィが塞ぎ、黒髪の鎧の足元を目で示す。目を凝らすと、全身黒に染まった好男がこっそりこっちに向かって匍匐前進していた。その左手首からは大量の黒髪が伸びて、コンクリートの剣を構える浅黒い肌の男の前に鎧をつくっている。言うなれば、忍者の使う変わり身の術みたいな感じだ。

 目を円くするあたしの視線と好男のそれとがぶつかり、好男がそっと手を振っている。ああそうか、髪だけでも十分強度はあるんだよな。少なくとも人の形を保っていられる位には。

 初めて蟹の少年と闘った夜なんか、髪で壁つくってたし――。そう思い出すあたしの横で、スィフィが囁いている。


「ヨッシィ無事みたいだねぃ。よかったよかったぁー」


「う、うん……」


 気の抜けた声に戸惑うあたしに、スィフィが満面の笑みを向けている。何か、一人で空回りして馬鹿みたいじゃん、あたし――。ふっと息を吐くと、目の前を漂っていた蟹の殻粉が僅かに動いた。蟹の少年の肩が強張り、次の瞬間、蟹鋏の雨が降り注ぐ。

 目前で床にぶち当たり粉々になった蟹鋏を見て、あたしは生唾を飲み込んだ。もし刈子の能力無しで相手に視界がある状態なら、間違いなくあたしは死んでいただろう。それも、蟹の鋏に脳天を突かれるという世にも間抜けな結末で。

 激しくなる鼓動を抑えようと息を止めるあたしの横で、スィフィは刈子が居る方向に首を伸ばしている。


「魅首、見て見てっ」


「――? 」


 動かした視線の向こうに見えたのは、真赤なドレスを着た女が紅い靄に導かれて刈子のほうへ進む様子だった。どうしようかとうろたえる刈子を、紅の靄と赤いドレスの女が着実に追い詰めていく。それに、女の仲間のカンツァとかいう奴も一緒に。

 今、助けに……! そう呟くあたしを、スィフィが引き止める。


「ここからじゃとても間に合わないよぅ」


「じゃあ、どうすりゃいいんだよ? 黙って見てるなんて――あたしは御免だからな! 」


 カッとなって叫ぶあたしの背後で蟹の鋏が空を切る音がした。身を竦めるあたしの脇をカラフルなリボンが通り過ぎ、蟹鋏を捕まえる。ぽかんと口を開けるあたしを引き寄せるスィフィ。鼻と鼻がぶつかるぐらいの距離で、スィフィがあたしの目を覗き込んでいる。


「図書館で言ったこと、覚えてる? 」


 真直ぐな深緑の瞳が、あたしに問い掛けている。光の加減のせいか、スィフィの目は暗くかげって、眉間にうっすらしわが寄ってるように見える。

 じっと黙って返事を待つスィフィが、すぐ傍にいるのに、まるでずっと遠くに居るみたいに感じる。見慣れない表情に複雑な心境になるあたしの手を、スィフィの大きくてあったかい手が包んだ。


 図書館でスィフィが言ったこと――”世界”と、”世界”を変える能力のこと。そしてあたしが無理矢理訊き出した、手っ取り早く強くなる方法。


 まさか……。思わず呟いて伏せていた眼を上げると、スィフィが神妙な顔で頷いた。それを見たあたしの足が、無意識に一歩下がる。

 だって――。


 二人が一心同体になるなら、強くなれるとスィフィは言った。

 刈子を助けるために、このイカれた状況をなんとかするために、それは必要なことだ。うん、わかってる。わかってるよ。

 ……でも、と、あたしの胸の中で何かもやもやした塊がうごめく。恐くて踏み出せないんだ。首を傾げるスィフィの前で、あたしは俯き拳を握った。

 何が起こるか分からなくって、恐い。


「――魅首? どうしたのねぃ? 」


「……ちゃんと覚えてるっつの。図書館でおまえが言ったこと、だろ」


 擦れた声を絞り出し、強がった口調でそう呟く。握った拳が震えている。そう、恐いんだ。未知なるものへと踏み出すことが。今までよりも遥かに予想のつかない領域へと放り出されることが。

 冷えた暗い空間の中で、そのままへたりこんでしまいそうだった。頭が冷えて目の前が見えるようになったら、見えたのは奈落の淵だったみたいだ。敵に囲まれて、仲間も自分も傷だらけで、故郷に帰れる保障も無い。こんな状況じゃ、夢も希望も捨てて何もかも諦めるよな――――ちょっと前までの、あたしなら。


 固く握った拳を解き、伏せていた顔を上げるあたし。背後では空間に出来た亀裂が耳障りな音を立てて、刻一刻と広がっている。きょとんとするスィフィの肩の向こうでは、赤いドレスの女が真紅の炎を燃やして刈子に詰め寄っている。

 前に進むために強くなるんだ。大切な人達を、守るために。


 向こうで刈子の悲鳴が上がった。……もう迷ってる暇は無い……!


 キッと目を開き、あたしはスィフィに真直ぐに言葉をぶつけた。強くなりたい、皆を守れるくらい強く――!


「スィフィ、あたしに力を貸してくれっ! どんなに辛くて苦しくても構わないから――! 」


 スィフィの緑色の目が円くなって、その口がぽかんと開いた。ったく、自分から言っといてまどろっこしい奴だな。

 順を追って詳しく説明するあたしに、スィフィは眉を八の字にして挙動不審になっている。


「えっ……ほ、本気? ど、どうしよ……アズァちゃーん」


 泳ぐ視線の先に居た好男を見て、スィフィがアズァを呼んでいる。好男の左手首に着けられた腕時計がきらりと輝き、瞬く間に黒髪の鎧が好男の身を包む。匍匐前進の姿勢から軽やかに飛び上がり、漆黒の鎧があたしの隣に舞い降りた。決めあぐねているスィフィに向けて黒い鎧が頷き、細身の黒剣を構える。


「どうすればいいかは、そなたが決めることだ。もう答えは出ているのだろう? 魅首殿はわたしが援護する、安心して成すべきことをすればいい」


「そーそ。オレとアズァに任せといてって」


 相手の攻撃パターンも分かってきたし、と好男が普段通りの口調で余裕そうに言っている。笑って軽口叩いてるけど、なんだか疲れが声に滲んでいた。

 弾む息を整えて明るく振舞う好男を見て、スィフィは泳いでいた視線をあたしに向けた。おずおずと伸ばす手が、あたしの肩に触れる。瞬間、今までに感じたことのない力の奔流がどこかの世界からこっちに押し寄せ、あたしの視界は真白にフェードアウトした。

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