第四二章 狂う炎 後編
首筋に触れる鋭い刃物の感触に、あたしの背中に鳥肌が立った。
素早く腕を捻り上げられ、なす術も無く男に拘束されるあたし。しまった、スィフィの容態を気にしすぎて、こいつのことをすっかり忘れていた。
冷や汗を流すあたしを、影のような男が無気力な目で見ている。
「全く……。この急な冷えのせいで手が悴んで敵わないな」
大きく息を吐きながら、男がまた独り言を呟いた。男があたしを捕まえてから、息が白くなるほどの冷気は緩和されたようだ。どうやら男とあたしの距離が近すぎるせいで、悠があたしに気を遣っているらしい。
「魅首さん……! 」
少し離れたところから、刈子の心配そうな声がする。
「あたしは大丈夫だから。捕まらないようにもっと離れて! 」
あたしの声に、刈子が頷いて人気の無いほうへ走っていく。大丈夫だなんて、気休めのセリフを吐いてしまった。さて、どうやってこいつの腕の中から逃げ出そうか……。
悩むあたしに、ピンヒールの足音が近付く。
「よくもわたしの顔に、こんな醜い傷を付けてくれたわね――! 」
真赤なドレスの女が、怒りに震える声でそう言った。思わず目を上げると、女の顔半分が大変なことになっていた。いくらなんでも、ちょっとやりすぎた……。
ごめんなさい、と小声で謝るあたし。まだ謝ってる途中のあたしの頬を、女が平手打ちした。狭間の空間に、痛そうな音が響く。いや、実際痛いんだけど。
「魅首ちゃん! 」
好男が叫んで、その足が一歩踏み出した。それに反応して、地面に転がるコンクリートの破片が針のように尖る。幾百もの切先にけん制されて、好男が怯んだ。
二の足を踏んでいる好男の意識は、完全に前方にしか向いていない。一瞬の隙を突いて、ヘッドホンの男だったコンクリートの塊が変形し、男を拘束する黒髪を斬った。
「――まさか、まだ意識があるのか? 」
腕時計から、アズァのうろたえた声が聞こえる。あんな姿になって、意識があるほうが不自然だろう。驚くのも当然だな――。刃物であたしを脅してる男も、味方の事なのにぽかんと口を開けてるし。
力を失った髪束が地面にはらはらと落ちて、その上に浅黒い肌の男が着地した。
「よそ見してる場合かしら? 」
男の動向を窺っていた好男に、背後から女が詰め寄る。その手には、マニキュアに負けないくらい真赤な炎が揺れている。
「くっ――。このままじゃ好男が――」
身じろぎするあたしの首に、男が強く刃物を押し当てる。駄目だ、こいつ全然隙が無い。力もこいつのほうが強いし、どうしよう……。
顔を曇らせるあたしに、スィフィがちらりと目配せした。広告から地味目な色のリボンが数本、男の目に付かないように地面を這っている。リボンで刃物を巻き取るつもりらしい。
じりじりとリボン達が地面を進み、男の背後に回る。微妙な空気の揺れに、男が疑問符を浮かべて背後を見た。一斉に飛び掛るリボンを、男があっと言う間に切り裂いていく。
「ああっ惜しいー。あとちょっとだったのにねぃー」
「あまり俺を舐めるなよ。大人しくしていれば、痛めつけずに楽にしてやるから」
悔しそうに地団駄踏むスィフィに、男が顔を顰めて不機嫌そうに言った。何なんだよ、この上から目線のセリフは――。なんか、敵対する奴らって皆こんな事ばっかり言うんだな。
聞き飽きた言い回しにうんざりしていると、あたしの肩にひんやりとした手が触れた。悠だ。鬼のようだった顔は、すっかり普段のネジ飛んでそうな緩い表情に戻っている。
「さっき魅首が、考えてたこと……もう一回、あの子に伝えてくるね……。忘れちゃってるみたい、だから……」
覇気の無い声で囁き、悠が刈子のもとへ向かう。滑るように進みながら、悠がドレスの女の首に触れていった。女が驚いて、好男に向けて放った炎弾の軌道が僅かに変わる。ぎりぎりで避けた好男の背後から、浅黒い肌の男がコンクリートの塊を立ち上がらせて人型に戻していた。
「今度こそ確実に仕留める――。いくら副団長でも、三人を相手に剣術だけで闘うのは苦しいだろう」
男が言うと同時に、人型に変化したコンクリート塊の中から、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が聞こえた。身悶えするコンクリート塊の両手が、男の持つ剣と同じ形に変形していく。中に居るヘッドホンの男のことを考え、あたしは思わず同情した。いくら嫌な奴だからって、こんな生殺しの目にあうのは見ていられない。
耐え切れず目を背けるあたしの前で、好男が黒髪の剣を両手で構えている。
「前も後ろも敵、か――。これって大ピンチだよな」
荒い息をしながら、好男が苦笑いを浮かべている。諦めの色が感じられる好男の言葉に、アズァが冷静に返す。
「後ろは二人だが、前は一人だ。魅首殿が自分で身を守れると信じて、カンツァの『契約者』を行動不能にしよう」
「――了解っ」
前後に素早く眼を走らせ、好男が地面を蹴った。赤いドレスの女に一瞬で近寄り、好男が剣を振り上げる。
「ごめん――! 」
眼を瞑って、好男が剣を振り下ろした。剣を握る右手首に、偽物の黒い腕時計が光る。か細い悲鳴を上げて、女が顔を覆った。
「……なんてね」
剣が女の肩に触れる寸前、腕の間から女がにやりと笑ってみせた。驚きの柔らかさで、女がその場で横に開脚する。目標が急に位置を下げたせいで、好男の身体が大きくぐらついた。体勢を立て直そうとする好男の足を、女の足が掬う。
「うわっ」
「隙在り――」
完全にバランスを崩してばたついている好男の右手を、コンクリートの刃が切り落とした。ゲームでも見たこと無い大量の鮮血が、切断された好男の手首から噴出す。
「好男っ! 」
叫ぶあたしの目の前で、キラキラした何かが透明な地面に落ちた。右手首に着けていた腕時計だ。真っ二つになった文字盤に、噴出した血が斑点を創る。――あれ、手首はどこに……?
辺りに眼を走らせるあたしの視界に、好男が空高く飛び上がる姿が映った。
「な、何故棲家を斬ったのに死なない――? 」
「バカ! あれはダミーよ! 腕時計ってのは、普通利き手と反対の手に着けるもんなのよ! 」
うろたえる浅黒い肌の男に、ドレスの女が思い切り罵倒を浴びせている。二人の攻撃が届かない場所に着地して、好男が切れた手首を治している。
「好男、傷は大丈夫か」
「ああもう治った。でも死ぬかと思ったぜ――」
緊張のせいか疲労のせいか、好男の呼吸は浅く短くなっている。黒く変わってしまった好男の肌を、油のような汗が伝い落ちた。
「あぅうーどうしよぉ……。ヨッシィとアズァちゃんが――」
目に見えて消耗している好男達を見て、スィフィが情けない声を出した。吊り広告の端を男に踏まれているから、動くに動けない状態だ。おろおろと眼を動かすスィフィに、あたしは小さく指を鳴らした。
こっちを見たスィフィに、唇だけ大袈裟に動かすあたし。
「考えがあるんだ。刈子から合図があるまで、こいつの気を逸らしてくれ」
ちゃんと伝わったか、一抹の不安が胸を過ぎったけれど、スィフィはすぐうなづいた。
あたしより頭二つ分背の高い男に、スィフィが声を掛ける。
「ねぇねぇキミ何て名前なの? 」
「――カンツァだ。そう言うおまえは……スィフィだな」
急に名前を訊かれて、怪訝そうな顔をしながら男が応えた。カラフルなスィフィの姿を見て尋ね返す男に、スィフィが急に涙ぐんだ声で哀願し始める。
「ねぇカンツァ、一つだけ聴いて欲しいお願いがあるのねぃ。おいらのことは煮るなり焼くなり刻むなり、何しても構わないねぃ。でも、でも――魅首やヨッシィのこと傷付けないでほしいのねぃ。皆はおいらの大事な仲間で、そして友だちなのねぃ」
吊り広告から上半身だけ出てるスィフィが、胸の前で手を組んで、目を潤ませている。
「異世界に来てから、おいら、気の置けない仲間の大切さを知ったんだねぃ。一緒に笑い合える友だちの素晴らしさを知ったねぃ。だからお願い、おいらから仲間を、友だちを奪わないで――! 」
聴いてるだけで赤面しそうな恥ずかしいセリフを、スィフィが感情籠めて言っている。潤んだ目で上目遣いに、スィフィが男を見つめている。見た目が大人に戻ってるから、泣き落としとか効かないと思うんだけど――。
そんなことを考えて背後の男を見るあたし。
「うう……」
予想外に泣き落としが効いていた。刃物を持つ手が少し緩み、空中に視線を泳がせて、男はたじろいでいる。それを見たスィフィが、ますます悲しそうに同情を引く言葉を並べ立てた。
「お、落ち着け――。騎士団に入団したとき、最初に習ったじゃないか。これは任務――。私情を挟むことは厳禁――」
スィフィの声に耳を塞ぎながら、男が自分自身に言い聞かせている。遠くで刈子が大きく手を振って、合図している。よし、今だ。
男の注意がスィフィに向いていることを確認して、あたしは自分の左手を思い切り噛んだ。
「何をする気だ――? 」
口の中に血の味が広がり、痛みのせいで目に涙が浮かぶ。意図に気付いた男が焦っているけれど、もう涙は止まらない。はしゃぐスィフィに、あたしも笑って返した。身体の中を熱い力が迸り、暖色の光が指先から溢れてくる。その光が線となり、空中に像を作り出す。
――あたしの一番大切な人達の姿を。
目の前に作り出された家族の姿を見て、あたしは不覚にも本気で泣きそうになった。全く、自分が行動不能になったら、元も子も無いじゃないか。でも――。
暗い空間にぽっかりと開いた穴から見える、図書館の屋根に眼が向く。故郷を捨ててこっちに来てから、碌な目に合わなかった。そりゃ好男達と楽しく過ごしたときもあったけど……。
あたしの心は、いつの間にか、思い出の中の家族の姿でいっぱいになっていた。兄弟同士で憎まれ口叩き合ったり、親と髪掴みあうような喧嘩したり。そんなことさえも、今はものすごく懐かしく感じる。
――家に、帰りたいな……。
あれだけ啖呵切って家出したのに、ホームシックに罹るなんて。あたしって、こんなに家族に依存してたのか。離れるまで、こんな気持ち、気付かなかった。
感傷に浸るあたしの前で、暖かい色の線で出来た父と母が微笑んでいる。祖父ちゃんも祖母ちゃんも、五歳年上の全然田舎に帰ってこない兄貴も、最近生意気になってきた妹も、皆優しく笑っていた。……こんな笑顔、家族の集合写真でも絶対しないよな。
苦笑するあたしの前で、色線が新たな像を創りだす。好男に刈子、それに十四季。スィフィにアズァにテンキィまで――。って、これどういうことだ? 今見えてるのは、あたしが一番大切に思うものなんだろ? ってことは、こいつらも大切な人って思ってるのか、あたしは。
像を作っていた線がキラキラと輝き、段々と消えていった。元に戻った視界の中でぼーっとしてるあたしの耳に、ドレスの女の金きり声が聞こえる。
「ふざけるんじゃないわよ! 二度もこんな手に引っ掛かるとでも思ってるの? わたしは、わたしはもう、あんな奴のことなんて引き摺ってないんだから! 」
真赤な爪で髪を掻き毟り、女が顔を歪めて叫んでいる。前々から気になってたけど、あいつは何を見てるんだろうか。
「これが報告にあった能力か……。確かに動揺はするが、戦闘に支障をきたすほどでは無いな」
女のすぐ傍に立つ浅黒い肌の男が、目の端から伝い落ちた涙を指で拭った。涙は出てるけど、その表情はさっきと全然変わってない。よっぽど鈍感なのか、はたまた理性で感情を押さえつけてるのか。
男の後ろで剣を構えるコンクリートの塊から、ヘッドホンの男の苦しそうな泣き声がしている。冷たい目で男がそれを一瞥して、双剣を握りなおした。
「この任務の遂行予定時間はとうに過ぎている。さっさと蹴りをつけるぞ」
「ざけんじゃないわよ! アンタなんかに手柄を取られて堪るもんですか」
ドレスの女が炎の弾を飛ばし、浅黒い肌の男がコンクリートの刃を操る。二人の攻撃が、膝をついて息を整えている好男に向かい――――その遥か後方へ落ちた。
「誰も居ないところを攻撃してるねぃ……? 」
何も無い空間を執拗に攻撃する二人に、スィフィが怪訝そうに眉を上げた。あたしを捕まえている男も、急に手を離して見当違いな方向へ走り出した。
「待てっ! こら、戻ってくるんだ! ――くそっ、また霞恋に怒鳴られる……」
「あれれぇ、カンツァも変なとこに向かって走ってるよぉ。魅首、何したの? 」
ぽかんとしているスィフィの耳元に口を寄せて、あたしは種明かしをした。真相を聴いたスィフィがの眼が、刈子に向けられる。誰の攻撃も来ない離れた場所で、刈子が祈るような仕草をしていた。
「なるほどぉー、魅首のアレで全員の視界を奪って、そこから更にかるっちの能力で敵にだけ未来の像を見せてるんだねぃ」
聴いたことをぺらぺら喋るスィフィに、あたしは苦い顔しながらうなづいた。いわゆる二段落ちって奴だ。本当はさっき、あのコンクリートを操る奴に使おうと思ってた作戦だったんだけど……。まぁ上手くいってるみたいだし、この際細かいことは気にしなくてもいいか。
あとはどうやって、暴れてる敵を捕まえるか、だな――。腫れてきた頬を手で冷やすあたし。その鼻が、ある匂いを敏感に捉えた。この食欲をくすぐる素敵な匂いは――。
「皆、今見てるものは幻覚っす! 気をつけるっす! 」
あたしの背中を冷や汗が伝うと同時に、凛とした声が空間に響き渡った。薄紅色の靄の中、蟹の少年の影が幽かに見えた。




