第四一章 狂う炎 前編
「刈子っ! スィフィ! 」
赤いドレスを着た女の背後に向けて、あたしは大きな声で叫んだ。影のような男の腕の中で、刈子は喉許に刃物を当てられて震えている。スィフィも起きる気配が無いし――。
焦っているあたし達を見て、ドレスの女は嬉しそうに高笑いした。
「ねぇどうなの? もちろん、闘うでしょ? でも全力では来れないわよねぇ。こっちには二人も人質が居るんだから」
意地の悪い顔で、女があたし達に脅しを掛けてくる。
くっそ、ムカつくあの女――。でも刈子とスィフィが居るから、うかつに手出しできないし……。
歯痒い思いで拳を握り締めるあたしの横では、好男が思い切り動揺している。こっちもこっちで、まともに闘えそうにないな。
「ならば人質を交換しよう。レェンを解放する代わりに、刈子殿達を放してくれ」
アズァの提案に、女が厚く化粧した顔を顰める。唇を歪めて、女が地面に唾を吐く真似をした。
「冗談じゃないわよ。なんでそんな割りに合わない条件、飲まなきゃならないの。お断りよ」
真赤な爪をギラギラさせて、女がこっちを睨み付けている。その背後で、影のような男が小さな悲鳴を上げた。びくんと肩を震わせている男の後ろには、悠が恨めしそうに立っている。
普段どこかネジが飛んでそうな悠の目が、静かな怒りで冷たく光っていた。
男の悲鳴を聞いて、女が鬱陶しそうに振り返った。
見るだけで凍えそうな悠の眼と、あたしの眼が合う。女に気付かれないように、あたしは悠に二人を助けて、と身振り手振りで頼んだ。うなづく悠にちょっと安心したけれど、見える人間以外に触れない悠ができることは限られてる。やっぱり自分達で何とかするしかなさそうだ。
「何よ、気が散るから静かにしてろって言ったでしょ」
「い、今……何か冷たいものが……」
かちかち歯を鳴らしながら、男が弁解する。半分も聞かないで、女は不機嫌そうに鼻を鳴らしてこっちを見た。
「つきあってられないわ。――始めるわよ! 」
真紅の炎が女の両手を包み、火炎の弾があたしたちに襲い掛かる。咄嗟に頭を手でかばうあたし。黒い剣が火の玉を弾き、髪の焼ける臭いが鼻をつく。
「――熱っ! 」
ちりちり焦げる髪を押さえて、好男が涙目で声を漏らした。相手が炎だから、髪じゃ対抗できない――。それに好男の未来の頭髪のためにも、好男に頼ってばかりじゃいけない。でも、スィフィが気絶してるから透明にはなれないし……。
どうしようかと悩むあたしの視界の端で、コンクリート片が僅かに動いた。
「アズァ、こいつまだ闘うつもりらしいぞっ」
「――! 」
動くコンクリート片を指して叫ぶと同時に、コンクリートの小刀が黒い鎧を切り裂いた。
「うわっ」
おどろいた好男が、足を縺れさせてよろめく。慌てて好男を支えるあたし。大丈夫かと訊こうとして、あたしはぽかんと口を開けた。
好男の肌が、更に黒く染まっている。もう、図書館で見たときの比じゃない。真黒すぎて多分夜になったら宵闇と区別がつかなくなるぐらいだ。しかも肌だけじゃなくて白目、歯まで黒くなっている。
これじゃまるでアズァみたいじゃないか――。
戸惑うあたしに、黒髪に捕縛された男が偉そうな口を開く。
「二つの世界は互いに傷付け合い、侵蝕し合う。故郷の者と契約したときから、御前達の身体は異世界の者のそれとは一線を画したのだ。涙を流せば傷が治るなど、思い当たることも多いだろう? 」
能力を使えば使うほど、侵蝕は進んでいく――。そう男がありがたい説明をのたまっている。
そんなことを聞いている間にも、女が降らせる炎の弾が次々こちらに落ちてくる。
スィフィが気絶してて発動するかわからないけど、一か八か第二の能力を使うため泣いてみようか――。悩むあたしの目に、刈子を押さえる男に悠が触れない手を伸ばしているのが見えた。あれが何の効果があるか分からないけど、一応頑張ってるみたいだな。
悠達の様子を眺めるあたしの足に、火の粉が降り注ぐ。この炎の雨のせいで、余計に酸素が不足してきてる気がするんだけど。発動するか分からない能力を使うのは、スィフィを叩き起こしてからにしよう。今は一刻も早くこの女を静かにさせないと。
腹を決めると、あたしは地面に散らばるコンクリート片を幾つか拾った。両手いっぱいに破片を握り、女に向かって駆け出す。
「あら? 恐怖で頭がおかしくなっちゃったのかしら? 」
あたしに向けて、女が小ばかにした笑みを浮かべてからかいの言葉を投げてくる。
「ふふ……いいわよ、いらっしゃい。丸焼きにしてあげるわ! 」
女の両腕が頭上に掲げられ、そこから無数の小さな炎があたしに向けて襲い掛かる。一直線に降る炎を大きく左右に動いて避けるあたし。炎を避けながら、手に握ったコンクリート片を女に投げつける。
小石程度の破片から身を守ろうとして、女の集中力があたしから剃れた。
炎の弱まる一瞬を狙い、女の懐に全体重掛けた左肩をぶつける。
「ぐはっ――――」
おお、この人も結構女捨てた声出すんだな。なんて間抜けなこと考えながら、女が逃げないようにしっかり両手で抱きつく。ドレス越しに抱きついた女の身体は、思っていたよりかなり痩せていた。
腹周りなんか、殆ど肋骨と皮だけじゃないか。
骨と皮しかない痩せたからだに驚いていると、女の拳があたしの顔面にクリーンヒットした。なんか今、ごきっって音がした気がする。目から星を散らすあたしを凄い力で跳ね除け、女が振り返った。
「カンツァ! 見せしめにその子の首を掻き切ってやりなさい! 」
しまった刈子が――! 人質に取られた二人を見るあたしの顔を、炎を纏った拳が横殴りする。熱いし痛いし、もう散々だ。鼻から生温い液体が顔を伝ってるけど、これ多分鼻血だな。
女から拳で滅多打ちにされて、顔中が痛い。でも、この女にだけは負けられない――!
あたしの頭の中に、十四季の顔と火事現場の写真が浮かんだ。人殺しを喜んでやってるようなイカレた奴を、野放しにしてたまるか……!
がむしゃらに女にしがみつくあたしの耳に、女の後ろに居る男の短い悲鳴が聞こえた。
どうやら、刈子が男の手を噛んだみたいだ。刃物を取り落とす音が聞こえて、ブーツで走る足音が聞こえた。
「何やってるの! はやく捕まえるのよ! 」
男に怒鳴りながら、女の細い指があたしの首を容赦無く締め上げる。霞む意識の中で、手の中に納まっていたコンクリート片が動く感触がした。変形しながら皮膚に食い込もうとする破片を、女の顔に投げつけるあたし。
「ううっ――」
コンクリート片が女の顔に張り付いた。顔を掻き毟る女から距離を取り、あたしはスィフィの許へ走った。
刈子に腕を噛まれた男は、寒そうに影のような手に息を吹き掛けている。がたがたと震える男の背後で、悠が凄まじい形相をして猛烈な冷気を放っている。あいつ、怒らせるとヤバかったんだな――。今度から悠と話すときは言葉に気をつけよう。
幽霊という存在に恥じない力を発揮している悠を見て、あたしは生唾を飲み込んだ。
震えている男を突き飛ばして、スィフィの傍に膝をつくあたし。踏まれて乱れたピンクと緑の髪が、血の気の無い白い顔に掛かっている。
「おいっ! 起きろ! サポートしてくれるって、約束したじゃんかよっ」
白い頬をぺちぺち叩きながら、あたしはうわずった声を出していた。手に触れるスィフィの頬は、妙に体温が低い。なんだよこれ、まるで死んじゃうみたいじゃんか。でも、あたしは元気だし、そんなはず無いのに――。
泣きそうになりながら、あたしはひたすらスィフィの頬を叩いて肩を揺すった。薄い瞼が薄ら開いて、スィフィの唇から息が漏れた。
「――あ、あれ? かるっちは……? 」
額に汗を浮かべて、スィフィが擦れた声を出した。
「ばかやろー、心配させるなっつの……! 」
気の抜けた声を聞いて、あたしの目から涙が溢れた。身体に『概念』と力が流れ込んでくる。ああもう、今は使う時じゃないってば。拳で涙を拭い、あたしは自分の両頬を叩いた。
「行くぞっ。力を貸してくれよな、スィフィ」
まだ目を覚ましきれていないスィフィの手を掴み、空元気を装うあたし。首筋に、ひやりと刃物の感触がした。
「一人減って、一人増えた。まぁ、これでいいか」
寒さに歯を鳴らしながら、背後の男が独り言を呟いた。