Another World the 4th chapter
真暗闇の中、小さなランプの赤い灯がちらちらと動いている。草の擦れる音や野獣の鳴き声から察するに、ここは山の中だろうか。背丈の高い草の中に身を屈め、スォンは何かを探していた。
星明りすら無いベルベットのように密な闇にランプの灯を翳し、スォンが草を掻き分ける。葉で切って傷だらけになった手が止まり、紫色の植物に向けて伸ばされた。ようやく見つけた、とスォンが声を出さずに唇だけ動かす。安堵して出た溜息は白い塊となって空中に霧散していった。紫色の植物から若い葉を摘み取るスォン。それを懐から取り出した透明な容器に入れて密封すると、遥か後方を振り返る。
濃い闇に包まれた世界、スォンの登ってきた山の麓。其処に針で突いた穴のように小さな灯りが見えることから、小屋の位置がわかる。山に登る前から変わっていない光景にスォンがほっとしていると、大地が揺れて地響きが聞こえた。驚いて取り落としたランプが足元を転がり落ちていく。闇に包まれた地面が照らされ、巨大な割れ目が出来ているのがスォンの眼に映った。
「なんということだ……」
地響きと共に広がっていく峡谷に、スォンが生唾を飲み込んだ。暗黒の空に鳥達が羽ばたく音が木霊している。完全に光を失くした世界、残された道は崩壊の唯一つしか無い……。亀裂は小屋に伸びている、はやく紅太を安全な場所へ避難させなくては。崩れ行く地面に動悸する胸を押さえながら、スォンは手探りで下山の道を辿っていった。
駆け足で山を下ってきたスォンは、弾む息を抑えて扉に手を掛けた。
「……? 」
扉の隙間から漏れる蝋燭の明かりとは違った白色光に、スォンが眩しそうに目を細める。小屋の前で扉を開くことを躊躇していると、内側から扉が開いた。溢れ出た白光が闇を切り裂き、気圧されたスォンが後退りした。この光は……。闇に慣れて開ききっていた瞳孔に容赦なく差し込む光に顔を顰めるスォン。凍えるような気温なのに、スォンは汗をかいていた。光の中から、白いマントを羽織った人影が現れる。
「今まで何処へ行っていた? 異世界で任務をこなしているとき以外は、ここに集まっているように指示しておいたはずだが」
「ウェジュ団長……。申し訳ありません、『契約者』が傷を負ったので薬草を探していました」
未だ振動している冷えた大地に膝をつき、スォンは深々と頭を垂れた。その背後には強い光によって作られた影が長く伸びている。その様子を眺めるウェジュの眼元に不快そうな皺が寄った。光る粒子に包まれた手でウェジュが小屋の中のベッドを指す。
「『契約者』とは、あの毛布の塊のことか」
「――? 」
俯けていた顔を上げ、スォンがベッドに眼を向けた。小屋を出る前まで紅太が寝ていたベッドには、人型に丸められた毛布が転がっているだけだった。唖然とするスォンの眼前に、ウェジュが紙切れを突き出す。そこに書かれた文面に眼を通したスォンの表情が曇っていく。近くでまた大きな地響きが起こった。
「ここにきての急激な崩壊の進行――。陛下の体調が悪化したわけでもないのに如何してかと思っていたら、斯様なことがあった訳か」
摘んでいた紙をスォンに投げつけ、ウェジュが吐き捨てるように呟いた。地面に落ちた紅太の書置きを拾って懐に入れるスォンの前で、ウェジュが暗黒に染まった空を見上げる。
「この崩壊を食い止めるにはどうしたらいい? 一時凌ぎでも構わない、意見を聞かせてくれ」
眩しい白光の中からウェジュが尋ねた。地面に走る亀裂と、漆黒の空を交互に見上げるスォンの表情に迷いが走る。
「……最初の崩壊と同様に、異世界と此方の力の均衡が崩れているのでしょう。異世界から押し寄せる力から此方を護る壁のようなものがあれば、少しは崩壊を止めることが出来るでしょうが……」
「壁、か――」
スォンの言った事を繰り返し、ウェジュの周りに飛ぶ光の粒子が揺れた。固く組んでいた腕を解き、ウェジュが地平線の向こう、城が在る方向を見つめる。
「その役目、俺が引き受けよう。スォン、おまえは逃げた『契約者』を追え。まだ契約を解除したわけでは無いのだろう? 存在の痕跡を追って見つけ出せ。そして今度こそ力で役に立ってもらうぞ」
「しかし団長――彼はまだ子どもで、命の遣り取りをするようなことは……」
口答えしようとするスォンの前に、ウェジュが光剣を振り下ろした。硬直するスォンの前髪が数本宙に舞う。
「いくら有識の学者と言えども、これ以上異世界に入れ込むような態度は騎士団の長として許すわけにはいかない。他の者に示しがつかなくなるだろう」
鼻に皺を寄せてそう言い放ち、ウェジュが踵を反した。光に満ちた小屋の中から黒いマントを身に着けた少女を乱暴に引き摺り出すウェジュに、スォンが批難の色めいた声を上げる。
「納得出来ません! 異世界の者だから、此方の危機を越えたら関係が無いから、無碍に扱っても良いと決めることなどできましょうか。彼らにも我輩達と同じように人格があり、生活があるのです。だから――」
鼻先に光の刃を突きつけられ、スォンが口を噤んだ。切先を見詰め息を止めるスォンの前から剣を引き、ウェジュが冷たく言い放つ。
「だからどうだと言うのだ? 『契約者』に気を遣って、そのせいでこの世界が滅びてもいいと? おまえの眼にはこの大地に住む民の姿が映っていないのか? 綺麗事を言うのは机に広げた紙の上だけに止めておけ」
反論を挟む隙無く自分の意見を語り、ウェジュは光の翼を広げ飛び立っていった。遠のく光の中、何も言い返せずただ唇を噛むことしかできないスォンを残して。