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第二一章 本に恋して…… 後編

 天井にぶら下がる案内板に導かれて着いたところは、最新式のパソコンがずらりと並ぶ近未来的な場所だった。

 映画のDVDとか置いてあるし、流石都会は違うな……。DVD鑑賞の際はヘッドホンを着用してください、と書かれたプレートを見て、あたしは感嘆の溜息を吐く。


 どの席に座ろうかと辺りを見回すと、十四季の姿が見えた。一番奥の席に陣取って、古そうな本片手にパソコンに向かっている。あいつ何してるんだ? なんか忍び笑いが聞こえるし……一寸様子を見に行ってみよう。


 蝿男って映画が観たいよぉー、と駄々をこねるスィフィの声に耳を塞ぎつつ、十四季に近付くあたし。スィフィの声に気付いて、十四季が銀髪を揺らし振り向いた。あたしと眼があった途端にあからさまに嫌そうな顔をする。こいつまだ家を出る前の事怒ってるのかよ――。少々辟易しながらも、後々妙なしこりが残らないように、あたしは十四季に頭を下げた。


「その……さっきはすまなかったな。訳も聞かずに力づくで抑え込んだりして」


 微妙な気持ちで頭を掻くあたしに、十四季は顔を背けて真一文字に結んでいた唇を開いた。


「貴様如き野蛮で下賤な人間が……誇り高き武宮の血統とその務めを侮辱した罪は深い……。この償いには全身全霊を持ってしても未だ足りない」


「はぁ? 」


 また意味不明な言い回しをする十四季に、あたしは容赦なく疑問符を飛ばす。なんかムカつくこと言われたような気がするけど……。釈然としない気持ちで悶々とするあたしを、十四季はフッ、と鼻で笑った。どうせ理解出来ないだろう、という感情がよく顔に表れている。その通りだから反論できないんだけど、何故か無性に腹が立つんだよな。

 片肘ついて物憂げに溜息吐いている十四季の前で、あたしの両手の拳が怒りでぷるぷる震えている。

 駄目だ、怒っちゃだめだ。ここでキレたらまた振り出しに戻ってしまう。何でもいいから話題を変えよう。


「……あのさ。さっきから武宮の血統がどうのとか言ってるけど、それって何なんだよ? 悠を退治しようとして出した青い光とか、御札を金属みたいに固くするのとか、あれもおまえの能力なのか? 」


「ゆう……とは? 」


 乱暴な口調で尋ねると、十四季は怪訝そうに眉根を寄せた。さっきおまえが除霊しようとしてた幽霊だよ、と言い捨てるあたし。事のあらましをざっと伝えると、十四季は気に食わないといった感じで唇を尖らせた。


「……たとえどんな理由があろうとも、現世に留まるべきでない者が存在にしがみ付くのは見逃せない。世界の均衡を保つ為にも……それが武宮の務めだ」


「だから、その務めとやらは何なんだよ」


 一々装飾過剰な言葉遣いをする十四季に、あたしのストレス値が最大になりそうだ。血圧が高まってこめかみの血管を浮かせているあたしの手から、スィフィの入った吊り広告が逃げ出して宙を舞う。


「んもー、魅首は鈍いなぁー。要するに、武宮さんちは退魔師か何かみたいな悪い霊を追い払うことが家業だったんでしょー。だよね、とっちゃん? 」


「運命に選ばれるには其れなりの素養が必要……ということだ。此れだけ言えば十分だろう」


 スィフィから変なあだ名で呼ばれても顔色一つ変えず、十四季が生意気な声色で答えた。そしてすぐにパソコンに眼を戻す。あたしも後ろから覗き込むと、モニターには最近のニュースが画像付きで映し出されていた。こいつがまともなサイトを見ていたなんて――。

 驚くと同時に、何でニュースなんか見てるんだという疑問も湧いてくる。画面に不思議そうにしている顔が映っていたのか、十四季が迷惑そうな表情で振り返った。


「此処を見てみろ。『相次ぐ不審火――犯人未だ見つからず』。六月中旬辺りから、関東地方のあちこちで大規模な火災が発生している。原因は全て放火……。記事に書いてある通り、犯人は捕まっていない」


 十四季が指す箇所には確かに火災現場の写真と、それについての記事が載っている。でも、それが今のあたし達と何の関係があるって言うんだ? 焼け焦げた民家の写真を見つめながら頭を悩ますあたしの前で、十四季が画面をスクロールする。そこに現れた写真に、あたしは思わず声を漏らした。


「あ、これ――」


 見覚えのある焦げた町並みに、十四季も神妙な顔で頷いた。


「そう、昨日の場所だ」


 そこは間違いなく、炎を操る変な女と戦った住宅街だった。写真の端に刈子の家も見える。散乱したバケツと水が流れっぱなしのホースが、困惑している消防員達の後ろに写っている。画像の下には、通報した市民の懸命な消火活動によって火は消し止められていた、と短い文が添えられていた。その文を指し、十四季が険しい目付きで説明する。


「この放火事件は、他の放火事件と比べて奇妙な点が二つ在る。先ず一つは、消防団員が現場に到着するまでに既に火が消えていること。現場が大量にガソリンの撒かれた廃タイヤの山であってもだ。そして二つ目は、最後の事件を除いて、放火に気付くのは子どもばかりということ。大人は子どもの言うままに通報しているが、実際に燃え盛る炎を見ている大人は最後の事件の一人しかいない」


 その最後の事件とは昨日のあれのことで、通報したのは好男だ。ってことは……? 疑惑に顔を曇らせるあたしに、十四季が再び頷く。


「一般人には好男を除いて俺達『契約者』の姿が見えず、声も聞こえない――。炎は消えていたのではなく、彼らの眼に映らなかっただけじゃないか? だとすればこの一連の事件は、あの女によって起こされていると見て間違い無いだろう」


 十四季の言葉に、あたしはもう一度モニターに映るニュースの内容に眼を通した。同じ条件で絞り込んだ放火の数は五十を超えている。そのどれもが白昼に起きた事件なのに、発見が遅れたせいで被害が拡大化した、と書かれている。幸いにもけが人は誰も居なかった、とも記事には書かれているけど、本当は……。

 そこまで考えて、あたしの腕に鳥肌が立った。この写真には写っていないだけで、事件現場にはあの女に焼き殺された死体が転がっているかもしれない。姿も見えずに異臭を放つ……最初にスィフィに会ったとき想像した嫌なイメージが、今になって頭を擡げてきた。


 腕を摩るあたしと反対に、十四季はモニターの前で拳を握り締めている。怒りと悔しさを滲ませる十四季の背中を見詰め、あたしは唇を噛んで目を伏せた。ここに居る誰よりも、十四季は真剣に調査を進めているんだ。家族の仇を討つために――。血統がどうのこうのとか、ちょっとおかしなことを言ってるけど、泣いて怒るほど、こいつは家族を大切に想ってるんだな。


 もう何度目だろうか、十四季の言動について茶化したり苛々するのは止めよう、と決意をしていたその時。十四季がいきなり立ち上がり、椅子の背凭れがあたしの鳩尾に直撃した。


「んげふっ! 」


 乙女として出しちゃいけない声を上げるあたしを押し退け、十四季がブラインドの掛かっていない窓に駆け寄る。苛々する勿体つけた言い回しは許そう。でも、急に予測不可能な行動をして結果的に攻撃してくるのは許せん!

  怒りの余り遂に血走り始めた目で十四季を睨み、あたしはゆっくりと窓に近寄った。殺意の塊が近付いてきていることなど露知らず、十四季は窓にへばり付いている。どうやら外にいる誰かを見ているみたいだ。まさか、あの女が近くに来ているのか?


  立ち止まって臨戦態勢に入るあたしに、十四季が人差し指で窓から外を覗くように指示してくる。警戒して窓の外を見ると、職員用の出入り口近くで好男とさっきの女の子がコーヒーを飲んでいる様子が見えた。


「……何だ、好男じゃん。ったくびっくりさせるなよ――。おまえが急に窓に寄るから敵が来たかと思ったじゃんか」


「俺が警戒しているのは好男では無い……。貴様が『無害だ』などとほざいていた幽霊の方だ」


 十四季の指が窓の外に居る悠を示した。日陰に隠れるように立っている悠が、好男のすぐ横に座る女の子の額に手を伸ばしている。ああ、外は暑いからな……。悠から出る冷気で頭を冷やしてあげてるんだな。同じように好男の首筋にも手を当てている悠に、十四季は右手でガラスを掻いて顔を顰めている。


「ああやって人間から生気を吸い取っているんだな……! やはり人の容を失った者……のさばらせておくわけにはいかない……っ! 」


 ここからじゃ札が届かない、とか何とか言いながら、十四季が出入り口に向かって走り出す。慌てて追いかけようと振り向くと、五メートルも行かないところで十四季が右手を押さえて蹲っていた。


「お、おい。どうした? 」


「くっ……こんな時に……。静まれ、俺の邪眼……! 」


 左目をぎゅっと閉じてそう言う十四季の額には脂汗が浮いている。一寸前なら、おおー迫真の演技だなー、とスルーしていたところだけど、昨日のことがあるからそうも行かない。もしかして好男が適当に治療したんじゃないかと疑念を抱きつつ、十四季の背中を摩る。


「大丈夫か? 気分が悪いなら休んでた方がいいし。刈子の所まで運ぶから、肩に掴まって」


 肩を貸そうと身体を傾げるあたしに、十四季は青い顔を横に振っている。ここまで来て、まだ強がってるのか、こいつ。いい加減格好付けるよりも保身に頭使った方がいいぞ、とあたしは自分のことを棚に上げて説教垂れようとした。口を開いたあたしの前に、十四季が悠に投げつけていた御札を差し出す。


「これを……持って行け……。俺の気が練りこんであるから……貴様のような何の取柄の無い人間でも、真の詞(ことば)さえ唱えれば……力を使えるはずだ……」


 だらだらと汗を流しながら十四季が御札をあたしに無理矢理握らせた。いやいやいや……真の詞とか言われても知らないし……。こういうことは刈子に言ったほうが喜ぶんじゃないか? と戸惑うあたしの顔を十四季が覗き込む。カラコンを外して元の茶色に戻っていたはずの左目が、また赤くなっていた。よく見るとただ赤いだけじゃなく、薄ら発光しているみたいだ。

 目を瞠(みは)るあたしに十四季が貧血で白くなった唇を開く。


「……真の詞とは力の詞……。そうそう口にしていいものじゃない……。一度しか言わないからよく覚えておけ……」


 黒い包帯を巻いた右手があたしの胸倉を掴み、顔を引き寄せた。十四季の荒い呼吸が耳に当たって気持ち悪い。あたしが悪寒に身を震わせると同時に、十四季が何かぼそぼそと呟いた。


「え? よく聞こえなかったもう一回言って」


「脳は覚えていなくとも……心が覚えているはずだ……。行け、早く……! 」


 そんなこと言われても、今にもぶっ倒れそうな十四季を置いて、暢気にお茶してる好男達の様子を見に行くわけにはいかないし……。黄ばんだ御札を握り締めて二の足を踏んでいるあたしを、十四季が三白眼で見詰めている。これはあたしがあっちに行くまで梃子でも動かないって顔だな。――仕方ない、途中で刈子に声を掛けて十四季を見守ってくれるように言っとこう。

 苦渋の決断をして、あたしは十四季に背を向けた。


「ううぅ……とっちゃん、おいらキミのこと絶対に忘れないよぉ……」


「縁起でもないこと言うなっつーの! 」


 嘘泣きしているスィフィを一喝して、あたしは走るの厳禁、と張り紙された図書館の中を駆け抜けていった。





 陽炎が立ち上るほど暑い屋外で、好男はコンクリートの階段に腰を下ろしていた。その手の中にはよく冷えたアイスコーヒーの缶が握られている。

 今日は三十度を超すと天気予報で言っていたのに、軒下の影の中にいるせいだろうか、むしろひんやりとして過ごしやすい。そう好男は思っていた。先にコーヒーを飲み終わった海原が手の中で缶を転がして遊んでいる。花柄も外に居ると言っていたのに、その姿は全く見当たらない。


「いつもはココ、もっと暑いんですけど……今日はなんだか暑さが気にならないなぁー。なんでだろ? 」


 海原が首を傾げ、さらさらのショートヘアが揺れた。缶コーヒーの外側に付いた水滴を拭きながら、好男がおどけた様子で軽口を叩く。


「俺も全然暑いって思わないな。海原さんみたいな可愛くて面白い子と一緒にいると、暑さも苦じゃなくなるのかもね」


「ええーそうですかぁー。なんか照れるなぁー」


 暑さで上気した頬をさらに染めて、海原がはにかむ。飲み終わった缶コーヒーを脇に置くと、海原は青い空を見上げた。


「でも意外だなー。花柄先輩と好男さん、てっきり付き合ってると思ってたのに……。あ、ってことはつまり、わたしにもチャンス有りってことですよね? 」


 満面の笑みでそう問いかける海原に、好男がにっこりと微笑み返す。ここは返答すべきだろう、と左手の腕時計から暑さも吹き飛ぶ冷たいアズァの声がするが、一般人である海原には聞こえない。好男も全く聞こえていなかった振りをして、海原に次の休みを聞いている。


「え、えと……来週の月曜日は一日中開いてるんです、わたし」


「なるほど、月曜日ね。俺午後から予定開いてるからさ、どっか遊びに行こうか」


「わーいいんですかー? あ、実はわたしー、前々から行きたかったお店があるんですよぉー。市外だからちょっと遠いんですけど……」


 肩を竦めて上目遣いに見上げてくる海原に、好男は爽やかに笑ってみせた。真白に磨き上げられた歯が真夏の太陽の光を反射して眩しく輝いている。


「ああ、じゃ、お店の名前教えてくれる? 車持ってるから行き方調べておくよ」


「きゃー嬉しいー! ありがとうございますっ」


 諸手を挙げて喜ぶ海原のポケットから着信音が響く。慌てて携帯電話を開いて操作すると、海原は顔を上げた。嬉しそうに上気していた頬の色が少し引き、その表情からは少し焦りの色が見て取れる。


「あ、先輩そろそろ休憩から帰ってくるみたいです。わたし先に行ってますね」


「うん、色々話せて楽しかったよ。――あとで連絡先訊きに行ってもいいかな? 」


「はいっ! 勿論です! あ、コーヒーありがとうございました! 」


 小走りに自分の持ち場に戻っていく海原。その背中に好男が小さく手を振っていると、立ち上る陽炎の向こうから日傘を差した子連れの影が近付いてきた。それに気付いた好男が缶を置いて立ち上がる。日傘を差した影が止まり、首が傾いで綺麗に化粧をした顔が覗いた。


「あら……好男さん。こんにちは」


 日傘の中で人影が優雅に一礼して、好男もぺこりと頭を下げた。その足元には黄色い帽子を被った幼い女の子が楽しそうに纏わり付いている。


「こんにちは、秋祢(あきね)さん。今日はカノンちゃんとお出かけですか」


 明るい笑い声を上げるカノンと呼ばれた女の子を抱き上げる好男。秋祢と呼ばれた日傘を差した婦人が微笑み、今日から夏休みですから……、と答える。こっちは涼しいですよ、と、日向に佇む秋祢を好男が日陰に招いた。蝉時雨が真夏の昼の暑さを殊更に強調している。日傘を畳んで階段に腰掛ける秋祢の前では好男に抱き上げられたカノンが短い足をぶらぶらさせていた。


「ねーねー好男おじちゃん、だっこじゃなくて肩車してー」


 幼い声で舌足らずにせがむカノンに、秋祢があたふたと両手を動かした。


「す、すみません――。カノン、おじちゃんじゃなくてお兄さんって呼びなさいって言ったでしょう」


 えーでもー、と唇を尖らせて不満そうな声を漏らすカノンを肩車して、好男が苦笑する。


「ははっ、子どもは素直だから――構いませんよ。『おじちゃん』の方が打ち解けてくれるみたいだし」


 好男の頭に小さい顎を乗せていたカノンが、こんどはブランコしてほしいー、と言っている。快諾して遊んでいる好男とカノンを眺め、秋祢が暗茶色の目を細めた。暫らくカノンのために一人遊園器具状態で筋肉をフル稼働させた後、すっかり満足したカノンから解放された好男は秋祢の隣に腰を下ろした。


 肩を上下させてシャツに汗染みを作っている好男に、秋祢が持参の水筒からよく冷えた麦茶を渡す。よかったらどうぞ、と控えめに差し出されたコップを受け取り、一言礼を言ってから好男がそれを飲み干した。秋祢の膝に座ったカノンも、自分の水筒から麦茶を美味しそうに飲んでいる。


「いつもカノンと遊んで頂いて、ありがとうございます。わたし一人だと本を読んであげるくらいしか出来ないので、元気が有り余ってるんです。この子……」


 秋祢の白い手がカノンの薄茶色の髪を撫でて、さらさらと髪の流れる音がした。足をぶらぶらさせるカノンのポシェットからは児童書のタイトルがちらりと覗いている。遊び疲れて大人しくなっていたカノンの目が急に円くなり、青く澄んだ空を紅葉のような手が指差した。


「あ! またキラキラだ! 」


「……? 」


 大きな目を輝かせて空を見上げるカノンに、好男も空を見上げて目を凝らす。蝉の鳴き声が延々と響き渡る広大な空間は白い雲が浮かぶばかりで、光るようなものは何も見当たらない。膝の上ではしゃぐカノンを宥めつつ、秋祢が困った様子で溜息を吐いた。


「この子ったら、大好きな本に影響を受けてしまって――『空から魔法の粉が降ってくる』なんて言うんですよ。それを集めたら自分も魔法が使える、って」


「ふーん、魔法ですか」


 若い母親の腕に抱かれて見えない粉に必死に手を伸ばすカノン。そのポシェットから、児童書がばさりと音を立てて落ちた。表紙にはちびっ子魔女エルルンのらぶらぶマジカルパウダー、と書かれている。それを好男が拾ってカノンに差し出した。


「らぶらぶ……。カノンちゃんはおませさんだなぁ。粉を集めてどうするのかな? 好きな男の子に振り掛けるの? 」


「違うよっ。好男おじちゃんに魔法をかけるの! おかーさんのこと好きになって、お城でけっこんしきをあげますようにって。そしたら、カノンにおとーさんができるでしょっ? 」


 無邪気な顔で爆弾発言を飛ばすカノンに、好男と秋祢が固まる。いやーカノンちゃんは面白いこと考えるなー、と好男が苦笑し、その横で秋祢の頬が見る間に赤く染まっていった。恥ずかしそうに両手で頬を隠す秋祢に、好男の顔から浮いた笑いが消えていく。


「あ、秋祢さん……」


「もう、カノンったら。ごめんなさいね好男さん、またお会いしましょう」


 そそくさと立ち上がり日傘を差す秋祢の肩に、好男が手を触れた。肩が小さく震える感触が手から伝わり、好男の顔に戸惑いの色が浮かぶ。雪のように白い手で頬の熱を冷ましていた秋祢がゆっくりと振り返り、長い睫に縁取られた伏し目がちな瞳が好男を見上げた。


「その……明日もまたカノンとここに来ますので――、もし好男さんにお時間がありましたら、近くの公園で一緒にお弁当を食べませんか」


 涙に潤んだ秋祢の瞳を暫らく見詰めた後、好男は頷いた。その顔にはまた爽やかな笑顔が戻ってきている。


「勿論。秋祢さんの手作り弁当期待してます」


 しっかりと目を合わせて最高のキメ顔をする好男に、秋祢がまた頬を染めた。そのまま互いに会釈すると、秋祢はカノンを連れて歩いていく。遠のく日傘を好男が見送っていると、曲がり角のところで秋祢が振り返った。今度は気後れの一切無い笑顔で。


「新しい髪形、似合ってますよ。最初は好男さんだと気付きませんでしたけど」


 虎刈りになった頭のことを言われて笑顔を引き攣らせる好男を置いて、秋祢とカノンは道を曲がって去っていった。


「は、はは……。そうですか……」


 生温い風にすーすーする頭を押さえ、好男が涙目で呟く。やっぱり俺のイメージじゃないよなぁ、と好男が頭を垂れていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。微妙に力の篭った叩き方に嫌な予感を好男が覚えていると、背後から怒りに震える声が聞こえてくる。


「好男ぉー……あたしが暑い中ここまで走ってくる間に、随分とお楽しみだったみたいだなぁ? 」


「や、やぁ魅首ちゃん――」


 何故だか分からないが怒り心頭の魅首に背後を取られ、好男の額から冷たい汗が噴き出し始めた。今のは単なるボランティアだと言い訳しようと口を開き、その目が正面からやってくる人影に釘付けになる。


「おい聴いてんのか? 十四季が調子悪くて倒れたんだよ。まさか、おまえ適当に治療したんじゃないだろうな? 怒らないから正直に話せ」


「あ、え、えっと――」


 言いよどむ好男の首筋に手刀を当てて、魅首がドスの効いた声を出す。人影は更に近寄り、細かい人相まで視認できる距離になってきた。長い黒髪、細長いシルエット――その姿は間違いなく駆崎(くさき) 花柄(はなえ)だ。向こうも好男に気付いたらしく、笑顔で手を振って駆け寄ってきている。


「好男っ! 」


「好男くん! 」


 二人の女に同時に名前を呼ばれ、三高 好男はまだ毛先のちくちくする虎刈り頭を抱え込んだ。

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