第二十章 本に恋して…… 前編
真青な空に真白な雲がぷかぷか浮かぶ様子を見上げながら、あたしは真夏の日差しを満喫していた。
ここまで色々と騒動があってズタボロになってしまった肌をこれ以上傷めないように、と念入りに塗りこんだ日焼け止めが吹き出る汗で洗い流されていく。ああ、日傘を持ってくるんだった……。
ギラギラ燃える太陽に照らされて出来た足元の影にむかって、あたしは溜息を吐いた。これじゃ斑模様に日焼けしてしまう。速いトコ図書館に避難しなくては。
「……なぁ、まだ図書館着かないのか? 」
目の前をてくてく歩く刈子にそう尋ねると、長いお下げ髪が揺れて刈子が振り向いた。白くて若い肌が眩しい。思わず目に手を翳すあたしに、刈子が純真無垢な笑顔で返答した。
「もうすぐですよ。ほら、そこにオレンジ色の屋根の大きな建物が見えるでしょう? あれが図書館です」
言われて景色を眺めると、確かに左手前方に蜜柑みたいな色の屋根が見えた。距離は百メートル弱くらい。もう少しだ、頑張れあたしの肌。
脇に挟んだファイルの中から聞こえるスィフィの外に出せコールを完全黙殺してひたすらに足を進めていくと、刈子の言った通りすぐに図書館に着いた。早く日陰に入ろうとガラスの自動ドアの前に走るあたし。緑の足拭きマットの上に立って暫らく待ったけど、自動ドアは開く素振りも見せない。
「……? 」
まさか休館日かと思って中を覗くけど、善良な市民の皆さんが読書を楽しんでいらっしゃるし、それは無いだろう。この自動ドア、センサーが壊れてるのかな。小首を傾げるあたしの横を、好男が澄ました顔で通っていく。今度はドアが開いた。思わず眉間に皺を寄せてガン見するあたしの横を、刈子と十四季が歩いていく。閉まりかけていた自動ドアはちゃんと開き、二人とも問題なく通り過ぎることができた。
皆に続こうと足を出した途端自動ドアが閉まり始めて、あたしも急いで中に入ろうとする。閉まるドアに肘が挟まれ、あたしは思わず痛みに声を上げた。
「な、何なんだよ今の……」
「変ですねぇー。この自動ドア調子が悪いのでしょうか。公共の物なのに、小さい子が挟まれたりしたら危ないですわ」
「……ふん、この女が余りにも野蛮過ぎて機械が認識出来なかったんだろう。文明に受け入れられぬ者は元の場所へ帰るがいい」
刈子の後ろで仏頂面をしていた十四季が振り返り、骨に皹が入ってる腕を押さえて呻いてるあたしを鼻で笑った。おまえ……、あんまり調子に乗ってるとしばくぞ。歯を食い縛って痛みを堪え、立ち上がるあたし。刈子も心配してくれているようで実は別のことを心配しているし。
おまえらが次にピンチになっても助けてやらないからな。心の中で一通り毒づいて、そういえば助けてもらってたのはあたしの方だった……、と思い出し憂鬱な気分になる。
沈んだ気分のあたしを置いて、二人はさっさとそれぞれ別の書棚に向かっていってしまった。はぁ……しょうがない、あたしも涙を流す秘訣が書かれた本を探すとするか。そんなピンポイントな本あるわけ無いだろ、と一人漫才をしつつ一番近くの書棚に歩いていくあたし。――かいじゅうカモリのぼうけん、うさぎのラス、ちびっこ魔女エルルンシリーズ……?書棚の本達を眺めるあたしの頭が傾ぐ。しまった、ここは児童書コーナーだ。こんなところじゃ涙について調べることはできないな。
回れ右をして隣の書棚を見ると、今度は難解そうな題名の分厚い本がずらりと並んでいる。視神経と視覚野の関係性―脳が見せる幻覚―とか、認識は騙る―あなたの世界は脳の中に在る―とか……。医学書っぽいけど、脳のことについてばっかりで涙とはあんまり関係なさそうだ。それにしても、なんかこういう本を見ていると……。
思わずあくびをするあたしの横を仲の良さそうな親子連れが歩いていく。幼稚園児だろうか、黄色い帽子を被った女の子が嬉しそうに絵本を抱いている。ちびっこ魔女――さっき見たアレの最新刊かな。おうちかえったら読んでね! と子ども特有の甲高い声でせがむ女の子に、優しそうなお母さんが頷いている。
纏められた綺麗な髪、きちんとお化粧している整った顔、それにセンスのいい洋服……あたしの母さんとは大違いだ。子育てしててもある程度美を保っていられるのはやっぱり都会に住んでるからかなぁ? 田舎に居る母のちりちりしたパンチパーマを思い出しているうちに、親子連れはカウンターの方へ行ってしまった。そうそう、他人を観察してる場合じゃなかった。
本来の用事を思い出したあたしは、図書館の中を歩き巡った。学校のグラウンド位ある広大なフロア中に満ちる本、本、本……。授業中にも見たことが無いほどの文字の量に眩暈がする。このままじゃ、あたしの頭が要領オーバーでパンクしてしまう。適当に『涙』の文字が題名に入っている本を数冊手に取ると、あたしは読書ブースへ向かった。
足音を消すため絨毯が敷き詰められた図書館の一画、透明なプラスチックの壁で仕切られた場所が読書ブースだった。適度な間隔で置かれた白くて円い机を椅子が囲んでいる。その中の一つに刈子が腰掛けて本を読んでいるのが見えた。深く考えずに近付くあたしに、刈子が本から顔を上げる。
「あ、魅首さん。よかったら隣にどうぞ」
「うん」
言われた通りに隣に座るあたしを刈子がじっと見詰める。もしかして、もう日焼けしてるのか? 冷や汗かいて自分の頬を触るあたしに、刈子がなんとも言えない愛想笑いで声を掛けた。
「魅首さん……変わった本がお好きなんですね……」
「へ? 」
そこで初めて、あたしは自分が持ってきた本の題名をしっかりと見た。えーと、何々? 女の涙で男を落とせ、泣き落としで金を釣る―涙の錬金術師―、涙目は貢がせる基本――――っ?
思わず目が点になっているあたしを気遣うように、刈子はそそくさと読んでいた本に視線を戻す。
「ち、違うっ! これは違うんだ刈子! あたしはそこらへんの本を適当に掴んできただけで――」
「言い訳しなくても大丈夫ですよ。わたくしはありのままの魅首さんを尊重しますから」
「だからっ! 違うってば――! 」
聞く耳持たずに目を逸らす刈子に必死に分かってもらおうとする。あたしは色気とかで男に貢がせるような女では断じて無いんだ! カツアゲすることはあるけど……。
誤解をされて顔が火照るあたしに、何時の間にかファイルから脱走したスィフィが、吊り広告の中でけらけらと笑い声を上げている。
「あはははー! こんなことガサツな魅首には出来っこないねぃー! 悪いこと言わないからさっさと本を戻してきなよぉー」
「う、うるさいっ! やってみなきゃわかんねーだろーが! 」
スィフィに茶化されて、あたしの顔がさらに赤くなった。もうこうなったらこの本達全部読んで嘘泣きでも何でも習得してやろーじゃないか。鼻息荒く意気込んで本を広げるあたしの横で、刈子が首を竦めて、魅首さんってやっぱり……、と呟いている。――ふん、みてろよ。今に魔性の女になってやるんだからな。スィフィほどじゃないけど、あたしだって天邪鬼気質なんだ。意地でも成し遂げてみせる。
固い意志を持ってあたしは本の頁を捲り――二分後に挫折した。
「あの、魅首さん……公共の本を枕にするのは如何なものかと……」
「これが丁度良い高さになるんだよなー。ほら、全部ソフトカバーだから寝跡付かないし」
なんて戯けたことをぬかしつつ、机に突っ伏すあたし。現代国語の教科書すらまともに一読出来ないあたしには、やっぱり荷が重すぎた。
どうせチャラけたことが口語体で書いてあるんだろうと高をくくっていたのに、見たことも無い漢字が振り仮名も無しに大量に出てくるんだもの。何より著者の思想があたしの持つそれと真逆なのが、理解を阻む一番の障壁となっている。
よく、世の中には○種類の人間が居る、なんて言う輩がいるけど、今日初めてあたしもそいつらの仲間入りを果たすことになりそうだ。世の中には少なくとも二種類の人間が居る――色香で金を巻き上げようとする人間と、暴力で金を巻き上げようとする人間だ。勿論あたしは後者に属する。どっちが人間としてマシかなんて議論は不毛だからやめておこう。
兎に角そんな言葉を言いたくなるぐらい、あたしとこの本の著者の間には深いふかい溝があるのだ。
全身の力を抜いて突っ伏しているあたしの下から、刈子が本を保護しようと一冊ずつ引き抜いている。久しぶりに縦書きの文字を読んですっかり疲れきったあたしは動くのも面倒で、抵抗もせずにまどろんでいた。最後の本が引き抜かれると同時に、机に額をぶつけて流石に目が覚めたけど。腫れ上がってきた額を摩るあたしに、刈子が謝っている。
「ごめんなさい――」
「いーよ、寝てたあたしが悪いんだし。ところで刈子はどんな本読んでるんだ? 」
電波全開の怪しい本でも読んでいるのだろうかと、興味深々で刈子の前に開かれている本を覗き込むあたし。カラフルな図解、わかりやすく砕かれた専門用語……刈子が読んでいたのは小中学生向けの人体図鑑だった。てっきり自分の趣味に走っているのかと思っていたから、ちょっと意外だ。首から肩にかけての筋肉が描かれた図を凝視するあたしに、刈子は頬を染めて本を脇へ押しやった。
「あ、あの、子どもっぽい、ですよね。しかも全然関係ない頁を開いていて……すみません」
「は? いーんじゃないの、あたしだって適当にやってるし」
何で隠そうとするのか首を捻るあたしの眼が、刈子の脇に積まれた本に向く。凝った装丁のハードカバーの本ばかりだ。これって海外の児童文学かな。さっき読んでいた図鑑以外に、涙に関する本は無いみたいだ。しげしげと本の山を見詰めるあたしの前で、刈子があたふたと手を振っている。
「あ、これは、その……」
「あれぇー。かるっちってば自分から『涙のこと調べよう』って言ったのにぃ、違う本ばっかり選んでるねぃ」
空中を蛾みたいに飛んでいる広告の中から、スィフィの間伸びた声が聞こえる。嫌味って訳ではなく単に疑問を口にしただけみたいだけど、言われた刈子は赤い顔を俯けてしまった。こいつ何も考えてないから気にすんな、とあたしが刈子をフォローする。
それにしても、かるっちって何だよ。相変わらずイカれたセンスしてるな、スィフィの奴。変なあだ名にあたしが呆れていると、俯いていた刈子が顔を上げた。ずれた眼鏡を細い指で押さえ、恥ずかしそうにお下げ髪を弄っている。……なんか、ここに居たら刈子に迷惑を掛けそうだ。特にスィフィが。
これ以上刈子を困らせたら後で大変なことになりそうだと思ったあたしは、持って来た本を抱えて立ち上がった。
「なんか邪魔しちゃったな。あたしどっか他の場所探してくるから、刈子はゆっくり好きな本読んでなよ」
「でも、わたくし……」
「いいからいいから。じゃ、またな」
空中を飛び回ってる吊り広告を掴み取ると、あたしは刈子に手を振って読書ブースを後にした。ついでに新しい本を探すか、今度はちゃんと題名と中身を見てから選ぼう……。なんて考えていると、カウンターの方から好男の声が聞こえてきた。貸し出しお願いします、って、もう目当ての本が見つかったのか?
首を回して声のする方に眼を向けると、好男がカウンターに肘をついて寄り掛かっているのが見えた。その視線の先、カウンターの向こうには大人しそうだけど可愛い大学院生くらいの女の子が。好男が何してるか大体分かったあたしは、何も見なかったことにして首を前に戻した。本棚に本を戻して次の本を漁るあたしの背後から、好男と女の子の会話が聞こえてくる。
「きみ可愛いね。こんな素敵な女が居るなら毎日図書館に通いたくなるよ。えっと……その苗字なんて読むの? 」
「海原です。海原じゃなくて、海原。よく間違えられるんですよねー」
「そっか、海原さんね。俺、三高 好男っていうんだ。さっきの冗談は置いといて、本当に図書館にはよく来るから。何か困った時俺を見かけたら遠慮なく頼っちゃって」
好男の奴、また女を口説いてるし……。嫌でも耳に入ってくる会話に、あたしはげんなりして書棚の奥へ手を伸ばした。小さな本が隙間に挟まって折れてるのが見えたからだ。本の隙間に手を伸ばして悪戦苦闘しているあたしの背後では、女の子が急に打ち解けた様子になっていた。
「ああっ、好男さんですかー! いっつも花柄先輩からウワサ聞いてますよ! まさかこんなにカッコい……えと、花柄先輩お呼びしましょうか? 」
近くにいたお爺さんにわざとらしく咳払いされて、女の子が声のトーンを抑えた。好男ってそんなにカッコいいか? 理解出来ない、と眉間に皺を寄せていると女の子がカウンターから出てきて好男を外に引っ張っていくのがちらりと見えた。
「あれ、仕事いいの? 」
「丁度休憩時間なんですー。花柄先輩も外でコーヒー飲んでますよ、行きましょっ」
小声で、でもやけに黄色い声で、女の子は好男を外に連れ出していった。その後ろを悠がふらふらと付いていく。女の子の積極的な態度に唖然としていると、本が倒れる音がした。奥に挟まっていた本は取れたけど、今度は書棚から落ちた本達を綺麗に並べ直さなくては。あちこち折れてぼろぼろになった小さい本を書棚の上に置き、せっせと本を元のように並べるあたし。ああ、紙媒体ってなんて不便なんだろう。これがパソコンだったらファイルを名前順に並べる、ってクリックするだけで全て元通りなのに。
そこまで考えて、あたしは気付いた。そうだ、パソコン。こんな都会の図書館なら、きっとパソコンの一台や二台置いてあるに違いない。そしてインターネットに繋がっていたら、世界中の情報が調べられるではないか!
普段ケータイでネット三昧してたっていうのに、こんな簡単なことに気付かないなんて……。
急いで本を書棚に詰めると、あたしは背伸びして書棚の上から図書館中を見回した。どうやら利用者が使えるパソコンは奥の方にあるみたいだ。ぼろぼろの小さな本を引っ掴むと、あたしはパソコンブースへ足を向けた。




