タスキギーの足音⑰
【ベイカー通り 221B】
保釈金を用意できない私たちは、みっちり2週間拘置所で監禁されたのち釈放された。
ようやくふかふかのベッドで眠りにつける、とウキウキで家に帰ってきた私たちを迎えたのは、家主のハドソン婦人ではなく私服姿のマイクロフト氏だった。
「やぁドクター、お勤めご苦労様」
マイクロフト氏はその皴びた顔に笑みを浮かべて言った。
「君たちがいつまで経っても保釈金を払わないので、好き好んで牢にいたのかと勘違いしてしまった」
いやぁ申し訳ない、と愛想の良い態度を取っていながら彼の色素が薄まった灰色の瞳はまっすぐよどみなく私たちを映し出していた。そこにいたのは知性あふれるひねくれ者と数日間泣きじゃくって思春期のように真っ赤になった獣人の姿だ。
いつまでも口を開かなかった私に変わってホームズが問うた。
「用があるならとっとと済ませてもらえるとありがたい。あいにくお前と違って俺たちは忙しいんだ」
マイクロフト氏は弟の素っ気ない態度にため息を漏らす。
「では、貴方がたの祖国への奉仕に感謝して、今回の真相をお伝えしましょう」
お決まりの台詞言って、マイクロフト氏は語りだした。
今回の一件の元凶である『タスキギー計画』は現在から3週間前の内部告発の試みによって軍部・政府幹部全員に知られることになり、民間への情報漏洩は官僚たちの努力で未然に防がれた。
しかし計画の主導者リカルド・S・シットウェルの逃亡、唯一生き残った被験者アレクサンドラ・リーの来特区は再び国家のスキャンダルとして世間に晒される可能性が浮上した。その阻止を目的に行動していたのが、マイクロフト氏とその部下たちであった。
情報の受け渡し役であるシットウェルが逃亡のために自ら感染したWウィルスの進行によって死亡した瞬間、アレックスは行方をくらましマイクロフト氏らはその対処を急ぎ強硬策に出るしかなかった。
彼女が情報を取引する相手が『モリアーティ』が何者なのか、それは分からない。
しかし、その人物がどうであれ国を揺るがす情報を欲しがる者が危険でないわけがない。
何としてでもアレックスを殺害し取引を食い止める必要があった。当初はショーロック・ホームズとジョアンナ・ワトソンを使って捜索・篭絡して味方に取り込むことが望まれたが、それは失敗に終わりセバスチャン・モラン刑事率いる獣人部隊を導入するに至った。
ワトソンの介入と、アレクサンドラを交えた乱戦は予想外だったが、見事アレクサンドラが死亡したことで『タスキギー計画』の関係者・被験者が全員この世から消えた。
従って、マイクロフト氏は情報漏洩を防ぐだけにとどまらず『タスキギー計画の完全抹消』を完了した。
私はマイクロフト氏に一発きつい反論を食わらしたかったが、それはできなかった。
押し黙り、自分の無力さに向き合おうともがいていた。きっと隣のホームズも同じ気持ちなのだろう。彼も押し黙ったままで、マイクロフト氏に一言も皮肉や怒声を浴びせることなく、兄が『礼』として100ポンド(約500万円)の札束を置いて帰るのを放っておいた。
日が沈み、空気をあえて読まないのが特技のハドソン夫人が気を使って冷めた紅茶を取り替えないまま夜を迎えても、私たちは机に置かれた札束に手を伸ばせずにいた。
「ハドソン夫人ッ!」
しびれを切らしたホームズが叫んだ。パタパタと騒がしい足音が部屋に入ってくる。
「夫人、今まで滞納していた家賃だ。来月の分まで一括で支払おう」
ホームズは札束から12枚の1ポンド札を抜いて、夫人に手渡した。
「そして、これが当分の生活費だ。俺やワトソン君では浪費癖がある。貴女が預かっていてくれ」
また数枚1ポンド札を抜いて夫人に渡した。
ホームズはシッシッ、と大金を持ったハドソン夫人を追い出して、残った札束を私の膝に放り投げた。
「ワトソン、君から借りた金を返す。利子もつけて85ポンドだ」
「悪いんだけどシャーロック、受け取れないわ。私が貸したのは5ポンドだし、それにこのお金は…………」
落ちた札束を拾い返そうとした瞬間、頬をひっぱたかれた。
赤くなった頬と丸くなった瞳の私にホームズは言った。
「ワトソンッ、君は本当にあのジョアンナ・H・ワトソンか? 軍人を経て医者になり、俺と共に正義を貫く探偵に進んだ、あのワトソンなのか? ベジタリアンの他人ではなく?」
圧倒され、頷くしかなかった。
「ならいい。ワトソンッ、札束は俺たちにとっての肉だ。受け取らなければ生きていけない。たとえそれがどのような経緯で俺たちの下にやってこようとも、札束は札束だ。それ以上でもそれ以下でもない。俺たちは札束を使って生きながらえ、より多くの人々を救い、死んだ者たちの無念を晴らさなければならない。俺たちにはそれを成し遂げる能力があり、そうしなければならない使命があるッ! 分かったかッ!」
私はまた、頷くしかなかった。
「さすが俺の友だッ!」
はんば押し付けられる形で、私は85ポンドの札束を受け取った。
5年前に手にした、命と若さと希望を犠牲にして手にしたあの100ポンドよりも重たく、ずっと価値のあるモノのように感じる。
ただ感じたのではない。
この札束は実際に今の私では持ち上げられないほど重かった。無念に散っていった過去の人々の想い、現在の私を構成する人々が寄せる想い、そしてこれから遠い未来で私が救い助けていくであろう想いが、この札束に宿っていたのだ。
私は震える手を力ませて、精一杯の力で札束を支えた。
―――俺たちの民権運動が完全に達成されるその日まで、俺は一人の軍人として、善良な市民として、この腐った国を守り続ける。
モランの言葉が頭に蘇った。あの時は反論できなかった、容認してしまった彼の想い。今ならば彼と相対しても「それは違う」と立ち向かえる不思議な勇気が湧いてくる。
「シャーロック。これを受け取る代わりに約束してほしいことがあるの」
「……なんだ? 言ってみろ」
前を向き、彼の瞳に反射する自分の姿を見つめた。
彼にではなく、自分自身に宣言するように私は決意を紡ぎ出した。
「私はもう、こんな理不尽を見たくない。ただ目を背けるんじゃなくて、理不尽それ自体と、それを容認している世界自体を見たくない。そんな世界は間違ってるし、腐ってる。でも、そんな世界変えるために何をすればいいのか、何が必要なのか、何年かかるのか、さっぱりわからない。だから手伝って。私をこの世界に引きずり込んだ責任を取って」
ホームズは腹の底から笑った。
「ワトソン君、俺にとってそれはプロポーズのような殺し文句だぞ」
「元からそのつもりよ、名探偵さん。たった二人で世界を変えようなんて、学生の絵空事でも笑われるもの。一生かけても足りないくらいだわ」
「死ねば諸共、か……。全く、獣人というのはいつも極端で大胆なことを言い出す……」ホームズは笑って潤んだ目尻を拭い、微笑んで手を差し出した。「では、改めて握手を。これから挑む道のりは長く、そして果てしない。ついて来いよ、相棒」
世界を変えていこう。
どれ程長い時を駆けようと、少しずつ。まずはこの特区から。
私は喜んでシャーロック・ホームズと固い握手を交わした。
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