1.事件発生
女性の声は、いつもぼくの身体を強張らせる。
だからビルのエレベーターに乗りこんだ直後、後ろから二人の女性が「待ってくださーい!」と滑り込んできたとき、ぼくの指先は成人男性らしからぬ震え方をした。おそらく顔も引き攣っていただろうし、最終面接用のスーツの内側は大量の冷や汗で湿っていた。
エントランスにはエレベーターが二基あるので、彼女たちには隣の筐体に乗ってほしかったが、あいにく片側は清掃中のため――扉が開かれっぱなしになっている筐体内には、清掃員の男性が一人で清掃作業中だった――やむなく彼女たちを招き入れる形になった。
狭い筐体だ。三人も乗れば、少し身じろぎしただけで誰かの肩に触れてしまいそうになる。ぼくは壁の階数表示だけを見つめ、半歩下がって背中を筐体の壁に押しつけた。できるだけ存在を薄くする。これは長年の処世術だった。
しかし彼女たちは、そんなぼくなどお構いなしに、身体をぐいぐいと筐体に捩じ込んできた。
ぼくの身体は先ほどより一層強張り、最終面接を控えている緊張感もあってか、汗がさらに噴き出てくる。
「…………」
昨今は電車内での痴漢冤罪や職場内でのハラスメントが跋扈しており、こちらにその意図がなくても相手の受け取りかた次第で罪に問われてしまうことが往々にしてある時代なので、特にぼくのような人間は気をつけなくてはならない。
「行き先、七階ですよね? じゃあ、あたしたちと同じ階だ」
見ると、彼女たちの首には社員証が提げられており、その社員証にはこれからぼくが最終面接を受ける金融会社と同じ名前が記載されていた。
またエレベーターの階数ボタンは『7』のボタンのみが点灯しており、ぼくと彼女たちの行き先が同じであることを示していた。
「就活生かなー、緊張しちゃってかわいい」
できるだけ会話をせずに済ませたかったぼくの想いとはうらはらに、彼女たちは遠慮なくこちらを品定めするかのように話しかけてきた。
「はい……ははは……」
ぼくは曖昧に頷いた。これ以上会話を続ける気はないという意志表示だったが、こちらの意図を汲む気がなさそうな彼女たちはさらに、
「ねえ、連絡先交換しません?」
と、小柄で若い女性のほうが屈託のない笑顔で距離を詰めてきた。
彼女は整った顔立ちをしていたが、どこか気が強そうな印象があり、あまりぼくとしてはいい印象を抱くことができなかった。それに香水の匂いもきつくて、その匂いで少しだけくらくらしかけていた。
「あんた、彼氏いるじゃん」
眼鏡をかけたもう一人の女性が、そう言いながら笑った。
こちらは三十代くらいの化粧っ気がない地味な感じの人だった。全体的に窶れている感じがあり、目の下にはうっすらと隈があった。それに疲れているのか、しきりに眉間を揉んだり、軽い溜息までしていた。また、エレベーターに乗るために走ってきたからなのか、元から汗っかきなのか、彼女はハンカチで顔を拭いていた。
「いいじゃない別に。うちって小さな会社だし、最終面接っていったって、ほとんど顔合わせみたいなもんで、よっぽどのことがない限り採用するって人事のアイちゃんが言ってたわ。未来の同僚くんとひと足先に親睦を深めるためであって、浮気とかそんなんじゃないわよ。まあ確かにこの子、可愛らしい見た目してるけどね」
と言い、小柄な女性はこちらにアイコンタクトを送ってきた。
「ま、そういうことにしておいてあげる」
そんな彼女に、眼鏡の女性は溜息を漏らしつつ相槌をうった。
そんな彼女たちのやり取りに気圧されたぼくは、壁に背を貼りつけたまま喉の奥で言葉が固まるのを感じた。
「ていうか、彼女とかいるんじゃない?」
「え、どうなの?」
と、ぼくに興味を持ったらしい彼女たちは、そんなふうに矢継ぎ早に質問してくる。
「あ、あ。ええっと……」
――まずいな。
ぼくの長年の経験が、そう告げる。
こういうときだ。
こういうときに、いつもぼくの周りでは何かしらの事件が発生する。
ぼくの周りに女性が集まると――必ず何かが起きるのだ。
そう思ったのも、束の間。
ふと。
微かに腐った卵のような臭いが――鼻をついた。
「ん?」
一体、何の臭いだろう?
……おなら?
念のために言っておくが、ぼくは密室の空間でおならなんて下品な行為は断じてしないし、かと言って彼女たちが、おならをしたような素振りも感じられなかった。
しかしだとしたら、彼女たちがその臭いに対してなんらかの反応を示すだろうことは想像に難くない。女性は男性よりも臭いに敏感だというし……それにこの二人は何と言うか、少しデリカシーが足りないタイプの女性に見えるから、臭いを感じたら指摘しないまでも、表情に出しそうだしなあ……。だけどぼくの見立てでは、彼女たちは一切臭いを感じていないように見えた。
じゃあ一体、ぼくが感じているこの臭いは何なのだろうか?
ガス漏れ? 香水……じゃないよなあ……。それとも幻臭?
などと、ぼくがあれこれ考えていると、
「ねえねえ。私たちの話聞いてますか?」
と、小柄な女性のほうが再度話しかけてきた。
「連絡先くらいいいですよね? お兄さ……ん」
言葉を言い切る前に、急に小柄な女性が――意識を失って倒れた。
それは思考する間もないくらい、一瞬の出来事だった。
「アケミ……?」
一瞬のことに呆気に取られた眼鏡の女性だったが、次第にことの深刻さを理解し、「あ、アケミッ!? ど、どうしたのアケミ! 大丈……ぶ」と倒れた女性を介抱しようと、屈み込んだと同時に、彼女も――糸が切れたように床へ伏した。
「……え?」
突然の状況に、ぼくも呆気にとられた。
ぼくは二人から一歩離れた壁際にいた。手も触れていなかった。にもかかわらず、密室のエレベーターに乗っていたぼくを含む三人のうち、二人が急に意識を失って倒れたのだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
少し遅れて、ぼくは彼女らの安否を確認しようと屈み込んだ。そして呼吸を測ろうと手を伸ばして――その手を止めた。そんなことをせずとも、虚ろな目の彼女らを見てすべてを察した。
二人の呼吸は、完全に停止していた。
「う、嘘だろ……?」
突然の状況。
狭い筐体内で生まれた二つの死体。しかも、それがどちらも女性だという事実に恐怖がどんどんと募っていく。先ほどまでの緊張状態もあいまって、ぼくの呼吸は大きく乱れ、大粒の汗がぽたぽたと床に滴り落ちていく。正直立っているのもやっとで、前後不覚の状態に近かった。
「……あ」
と、ここでぼくは、自分自身が最大のミスを犯したことに気がついた。
小柄な女性を介抱しようとした眼鏡の女性は、身を屈ませたと同時に気を失ったのだ。それとまったく同じ行動をとってしまったぼくに、これから起こるであろう現象は想像に難くなかった。
「しまっ――」
瞬間、視界が一気に暗くなった。
喉の奥に、生ぬるい何かがまとわりつく感覚。うまく息ができない。
ああ、これは知っている。
数ヶ月前、ぼくは一度、これとよく似た感覚で死にかけている。
薄れゆく意識の中で、ぼくはひとりの探偵を思い浮かべていた。
――りんごさんに、知らせないと。
彼女ならきっと、この理不尽なにおいの正体を、嗅ぎ当ててしまうだろうから。
そこで、ぼくの意識はぷつりと途切れた。




