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ゴーストライター  作者: 佐田読子


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16/16

16【根の国】



綴たちが臍府から笑壺家へ戻って、夕刻。

西日に染まった座敷は静かで、庭の木々を渡る風だけが障子をかすかに鳴らしていた。


「失礼いたします。常一様をお連れしました」


襖の向こうから、女中の控えめな声がした。

四人は示し合わせたわけでもないのに、それぞれ居ずまいを正す。

何となく、どんな顔で会えば正解なのか分からなくて、四人とも、気まずさを一滴たらしたみたいな顔をしている。


「……どうぞ」と、綴が小さく返した。


襖が音もなく左右へ開く。

現れた常一は、見違えるほど上等な着物をまとっていた。艶やかな絹は夕陽を受けて柔らかく光り、髪も几帳面に整えられている。

その姿だけを見れば、笑壺家の花婿として何一つ不足はない。

だが、その表情は、まるで魂の置き場所を失っているように憔悴して見えた。


常一は何も言わず部屋へ入ってきた。

後ろで、女中が静かに襖を閉める。隙間なく、ぴたりと。

その直後だった。


「来でぐれでっ、ありがどうぉぉぉぉ!!」


常一はその場で力が抜けたように畳へ崩れ落ち、両手をついてわんわんと泣き始めた。

涙も鼻水も構わず、しゃくり上げるたびに言葉という言葉へ濁点が付いてしまう。


「お、おれ、もゔだ、だめだど……おもっでぇ……!」


花婿の威厳も、立派な着物も、その泣き声の前では何の役にも立たなかった。

その子どもみたいな姿に、瓢と相生は肩を震わせ、四葩は堪えきれず吹き出した。


「元気そうでよかったよ、常一」


綴がそっと肩へ手を置くと、常一はその腕に恥も外聞もなくしがみ付いた。


「づづりちゃ……!」


べしょべしょに鼻水を垂らすものだから、綴の服はあっという間に濡れてしまった。

相生が呆れた顔で後ろから首根っこを引っ掴む。


「おい、汚ねえ。息できてんのか、それ」


無理やり引き剥がされても、常一の指先はなお名残惜しそうに綴の袖を摘まんでいた。

その様子を眺めながら、四葩はついにワハハと声を立てて笑う。


「髪もちゃんと梳かしてもらってるし、爪までぴかぴかじゃん。案外、ここにいるほうが良い暮らしなんじゃん?」


茶化すような言葉に、常一は勢いよく首を横へ振った。


「ちゃう、ちゃう……!」

「犬?」

「一輪、やめなさい」

「もゔ、まじで、神経使ゔねん……」


常一は肩をすぼめると、誰かに聞かれるのを恐れるように、閉ざされた襖へそっと目を遣った。


「機嫌損ねだら、何されるが分がらん……」


自然と細くなる声が、畳へ落ちる。


「こないださ、女中さんが一人……あの人の簪、踏んでもうだんよ。そしたら、その日のうぢに、おらんくなった……」


三日前のことだ。粧子が床に放置していた簪を、女中が気付かずに踏んだ。ぱき、と音がした。壊れてはいなかった。

けれど、その日以降、その女中の姿を見ることはなくなった。


粧子の怒りには、筋道というものがなかった。

些細な粗相を決して許さぬ日もあれば、誰もが顔を青くする失敗を笑って見過ごす日もある。

善悪でも理屈でもない。ただ、その一時の機嫌だけが、この屋敷の秤だった。


唯一彼女に物申せる父の莞爾は、めったに書斎から出てこないし、娘のワガママは基本的に放ったらかしだ。

だから常一も彼女の逆鱗に触れぬよう、是とも非ともつかぬ返事を選び、笑うべき時には笑い、黙るべき時には黙った。

薄氷の上を裸足で渡るように気を張って、言動を選び続けなければならないのだ。


「ほら、常一。涙を拭いて。君を連れ帰る方法を考えよう」

「良い報告もあるしな」


四人と常一は、部屋の外へ声が漏れぬよう自然と身を寄せ合った。

畳の上で膝を突き合わせ、小さく輪を作る。

常一が泣き止むのを待って、互いにここまでの経緯を手短に伝え合った。


綴たちが臍府へ赴いたことを話すと、常一はキョトンと目を丸くした。


「さいふ……?」


なんと常一は、その名さえ初めて聞いたのである。

根の国がどういう場所で、どんな者たちが暮らし、何を拠り所としているのか。

そうした話を、常一は一度として聞かされたことがなかったからだ。

なにせ粧子が口にするのは、自分のことと婚礼のことばかり。

綴たちより先に連れて来られたといっても、常一は根の国について、ほとんど何も知らなかった。


「それと、日入さんは一応、味方だよ」


瓢がそう言うと、常一は「……やっぱり」と呟いた。


「気付いてたの?」

「まあ、攫ったんもあの人やけど……時々、意味深に目ぇ合わせてくれたり、要所要所で逃げ道を残してくれてる気ぃしてて」


もちろん、それだけで全幅の信頼がおける相手ではない。

日入が誘拐の実行犯であることに変わりはなく、粧子の指示には従わざるを得ない立場だからだ。

それでも、この屋敷で初めて向けられた僅かな情けが、日入のものだったことだけは、常一も薄々感じ取っていた。


「で、式の進行はどんな感じ?」

「大まかには決まってるけど……でも、気分次第でころころ変わんねん」


常一は困り果てたように、眉も口角も下げた。


「せやから、女中さんらはあの人の言うこと、一言一句、書き留めてんねん。紙の束が山みたいになっとんで」


今日決めたことが、明日には覆る。

昨日却下した案が、明後日には採用される。

それでも、この屋敷の中では、誰も異を唱えることはないのだ。


「でも、練り歩くんは通りの都合もあるやろし、好き勝手な時間にはできんと思う。日が落ちてからって予定は変わらんかと……」


綴たちは難しい顔で、ふむと思案を巡らす。

新郎新婦が臍府へ婚姻届を提出しに行くための、御披露目行列。

当日の流れさえ掴めれば、逃げる隙はそこにある。

時刻、行列の順番、誰がどこに立つのか──確かめるべきことはまだいくつもあった。


「時間配分と行列の並びは、もう少し詳しく見ておいてくれる?」

「わか……」


その時。

常一が頷くより先に、無遠慮に襖がパンッと開いた。

一同の会話が、糸を断たれたように途切れる。


「常一様、三十分経ちましたわよ」


なんと、粧子が自ら迎えに現れたではないか。

今日も絢爛豪華な着物をその巨躯にまとい、廊下に立つだけで空気を圧するような貫禄だった。

相生が腕時計に目を落とすと、確かに針はきっかり三十分を指している。


「どうだ? 余興の進捗は?」


見下ろすような視線とともに放たれた問いに、一同の背筋に粘ついた汗が流れる。

そこの口裏は、まだ合わせていなかった。


「滞りなく。常一くんにも、とても重要な役を務めていただきますから、お楽しみに」


瓢が余裕綽々の笑みを浮かべて答えた。

その咄嗟の機転に、一同、心の中で拍手を送る。


「ふうん……」


粧子は目を細め、部屋の隅々まで値踏みするように見渡した。特に目立つ物は何もないし、妖術や呪の匂いもしない。

しかし、ふと、綴の胸元で視線を止めた。


「お前、随分と上等な万年筆を持っているな」


綴の胸ポケットから覗く万年筆へ、粧子は長い指を向けた。


「暮鐘堂の品だろう。あそこの妖具は一級品だ」


当の綴は、一瞬、何のことを言われているのか分からなかった。

自分の万年筆は清遠から譲り受けたものだ。そう考えかけて、ふと、その出自を思い出す。

そういえば、これは元々、根の国の品なのだと清遠が言っていた。


胸元に挿した万年筆は、軸の頭がわずかに見えているだけだ。

それだけで出処を見抜いたのだとすれば、さすがは大商家の娘である。

商人としての目利きは、並ではないらしい。


「して、お前はそれで何ができるんだ?」


妖具である以上、何らかの特別な力を秘めているのは当然──粧子は底知れぬ黒い瞳で綴を見据えた。赤い唇が、にぃと弧を描く。

綴は嘘をつく理由もないと判断し、素直に答えた。


「幽霊をインクへと変じ、その記憶を文字として書き起こすことができます」


「幽霊を文字に?」


粧子の眉が、怪訝そうに寄る。

そこにあったのは、脅威や畏怖ではない。

ただ純粋に、何のためにそんなことをするのか理解できないという表情だった。

やがて粧子は、「くだらんな」と鼻で笑った。

その声音には、ガキの玩具かと言わんばかりの、冷ややかな侮蔑が滲んでいた。


「常一様、お部屋に戻りますわよ。婚礼衣装に合わせる小物が届きましたの」


そう言うや否や、粧子は常一の腕をひょいと掴み、そのまま有無を言わせぬ勢いで客間の外へ連れ去ってしまった。


「ちょっ───」


まるで米袋でも運ぶみたいに、抵抗する間もなく引きずられていく常一。

襖が閉まりきる寸前、その隙間から情けなさそうにこちらを振り返る目と目が合った。


助けを求めるような、今にも泣き出しそうなその表情に、残された四人は顔を見合わせ、揃って憐憫のため息をつくしかなかった。



*



「皆さん方! ちょっと、ちょっと!」


結婚式まであと三日。

朝とも昼ともつかない、曖昧な時刻だった。


綴たち四人が逃走計画の作戦会議を始めた矢先、日入が息を切らせて客間へ飛び込んできた。

いつもの飄々とした様子は微塵もなく、興奮したように何度も手招きを繰り返す。


「ほらほら、こっちです」


その慌ただしさに、四人は顔を見合わせる。

何事かと足音を忍ばせ、日入に導かれるまま襖際へ寄ると、彼はほんのわずかに襖を開けた。

細く切り取られた隙間の向こうには、粧子の部屋へ続く長い廊下が見える。

その磨き上げられた床板の上を、女中に先導されながら一人の老人がゆっくりと歩いて来た。


その姿を認めた瞬間、四人の口から小さく声が漏れた。


「えっ……」


なかでも瓢は、狐につままれたような顔をしていた。

彼にしては珍しいほど、露骨な困惑である。


日入が、さらに声を潜めた。


「滑家の方だそうですよ。何でも、結婚のお祝いを届けに来られたとかで……皆さん、ご存じでしたか?」

「いえ、全く」


綴は短く答え、老人の背中を凝視した。


今日は祝いの席に合わせたのか、落ち着いた色合いの、それでいて仕立ての良さが一目で分かる羽織をまとっている。

髪も髭もきちんと整えられ、普段より幾分かよそ行きの姿に見えた。

しかし、その水面を漂うような雰囲気は見間違えようがない。


明らかに、揺蕩だった。


祝いの品を届けに来た──名家同士の付き合いとして、何ら不自然な話ではない。

だが。よりによって揺蕩が、そんな殊勝な用向きだけで、この屋敷までわざわざ足を運ぶとは思えなかった。


老人の背中が、廊下の角へとゆっくり消えていく。

その気配が完全に消えるのを待ってから、日入はそっと襖に手をかけた。音を立てぬよう静かに閉じる。


「使用人を遣わせないで、滑家の方が直々に来られるなんて、珍しいこともあるもんです。まあ、常一さんに障りがなければいいですけどね」


日入はそう言って、気遣わしげに襖の向こうを見やった。

揺蕩が瓢の祖父であることも、臍府で会って話をしたことも、日入は知らない。だから、彼が気を揉むのも無理はない。

けれど、揺蕩が常一に不利益となるような真似をするはずがないと知っている綴たちでさえ、何の報せもなく突然訪ねてくるというのは、やはり落ち着かなかった。


「……まあ、問題ないですよ。たぶん」


瓢は自分に言い聞かせるように笑うと、日入の肩へそっと手を添えた。

その時、指先に、何かがちょんと触れた。


「……?」


日入の肩に、小さな紙片が貼り付いていた。

白い紙を、羽を大きく広げた鳥の形に切り抜いたものだ。風もないのに、その羽だけはかすかに揺れている。


「少し、失礼」


瓢は何食わぬ顔で手を伸ばし、紙片を摘まみ取った。

そのまま日入に気づかれないよう、袖の内へ滑り込ませる。


生前、揺蕩が使っていた伝書紙だ。


瓢は相生の背を壁代わりにして、袖の中から折り畳まれた紙を取り出した。周囲から見えないよう身を寄せ、そっと紙を開く。


そこに記されていたのは、簡潔な一文だけだった。


『三時。甘味屋、糖集で待つ』



◇



滑家からの訪問は、笑壺家にとっても寝耳に水だった。

今日の夜明けに突然、『本日、祝いの品を持って伺います』と一報を寄越してきたのである。

それを聞いた当主の莞爾は開口一番、「ぬらりひょんめ」と吐き捨てた。


何を企んでいるのか分からない以上、粧子ひとりに対応させるわけにもいかない。

万が一にも、今回の縁談に絡んで新郎を本人の意思に反して中ツ国から連れ出してきた、などと口を滑らせでもすれば、事は大きくなる。

結局、莞爾も同席することになり、客間には朝から張り詰めた空気が漂っていた。


その一方で、やはり常一には、今回の訪問について何ひとつ説明がない。

これから何が起こるのか、皆目見当もつかない。

そんな状況のまま、常一は座敷の隅で、戦々恐々と正座していた。


何せ、莞爾とこうして顔を合わせるのも数日ぶりである。

粧子から「式が終わるまで仕事の話はしないでください」と釘を刺されている莞爾には、常一個人と話す理由がない。

嫌っているわけでもなければ、避けているわけでもない。

ただ、仕事以外でわざわざ娘婿と顔を合わせる必要がないのだ。

けれど、常一にとっては、どうにも居心地が悪かった。

せめて少しでも身を隠したいと、この時ばかりは粧子の影に隠れるように身体を縮め、できるだけ気配を殺していた。


「滑様の御到着でございます」


女中の声に莞爾が襖を睨みつけると、す、と襖が開いて、一人の老人が姿を現した。


「この度は、ご結婚おめでとうございます。滑家一同、心からお祝い申し上げます」


いかにも腹の内を読ませぬ顔だった。

老人は莞爾に向かって恭しく頭を下げると、口元に品の良い笑みを浮かべた。


「揺蕩と申します。ちょっと前に根の国へ入りましてね。なりは年寄りですが、まだまだ下っ端です」


「いやはや。わざわざ御足労頂き、痛み入ります」


莞爾もまた、にこやかな笑みを返す。

けれど、その声音はほんのわずかに上擦っていた。

笑顔のまま、互いの腹の内を探る奇妙な会話が、しばらく続いた。

傍らでは、粧子がさして興味もなさそうに黙して座っている。


そのやり取りを眺めながら、常一はひとり、首を傾げていた。


───んん?


何かが、喉元に引っ掛かっているような気がする。

滑家。そして、揺蕩という名前。

それを聞いた時点で、目の前の老人が、瓢の亡くなった祖父であることには気づいていた。

けれど、それだけではない。

どういうわけか、この老人の顔に、ひどく見覚えがあるのだ。

常一が記憶を探ろうと目を凝らすと、揺蕩もふとこちらへ顔を向けた。


「ご新郎は中ツ国の方だとか? 故郷はどちらです?」


不意に話を振られ、常一はびくりと肩を揺らした。


「え、えーっと……」


反射的に答えながら、目が合う。またしても既視感が胸を掠めた。

瓢に面立ちが似ている。

それは確かにそうなのだが、どうも、それだけではない。

もっとこう……。

何か、別のところで、この顔を見ている。

揺蕩の問いに適当に相槌を打ちながら、常一はその顔をまじまじと見つめた。

老人の輪郭を追うように、目元を見て、鼻筋を見て、口元を見る。

そして──「あっ」と、思い出した。

粧子たちがいなければ、思わず声に出していたところだ。


────除霊師のじじいやん!


二年前、常一が相談に訪れたすご腕の除霊師が住むと噂の屋敷。

そこで出会った老人は、常一が持ち込んだ相談を「大した霊じゃないね」と軽く流した。

結局、常一は出された焙じ茶を飲み、相談料を払っただけで帰された。

その時の除霊師が、目の前にいる。


────えっ、じゃあ凰さんのじいちゃんやったん!?


思わぬところで繋がった縁に、常一は内心でひっくり返りそうになった。

ぼったくりのインチキじじいだと思っていたが、瓢家の人間だというのなら、本当に能力はあったのだろう。

だが、常一の性質を見抜いたうえで、あの対応をしていたのだとしたら、それはそれで余計にひどい話である。


「いやはや。お婿さんも、誠におめでとうございます」


揺蕩は気が付いているのか、いないのか。

柔和な笑みを崩さないまま、常一に手を差し出してきた。

瓢と同じ、白檀の香がする。


「どうも……」


ここで「以前お会いしましたよね」などと言えるはずもない。

粧子たちの前で妙なことを口走れば、話がややこしくなる。


「ありがとうございます」


常一は何食わぬ顔で手を握って、すぐに離した。


一方、粧子と莞爾はというと、揺蕩が常一にあれこれ質問するものだから、やきもきしていた。

二人とも露骨に口には出さないものの、「そろそろ帰れ」という空気を隠そうともしていない。


だが、揺蕩は鈍感ぶって、祝いの言葉やら世間話やら、当たり障りのない形式的なやり取りをのらりくらりと続けた。

やがて話も尽きたところで、揺蕩はようやく腰を上げる。


「それでは、私はこれにて」


「ええ。改めて、わざわざご足労頂き、ありがとうございました」


莞爾は、ようやく帰ってくれる、とでも言いたげな満面の笑みで揺蕩を見送った。

揺蕩はそんな莞爾の内心など気にも留めた様子もなく、

「式を楽しみにしております」

と恭しく一礼すると、女中に連れられ座敷を後にした。


その姿が廊下の向こうへ消える。

それを見届けた途端、莞爾は小さく舌打ちをした。


「……余計な時間を取らせおって」

「でも、祝いの品はなかなか上等みたいですわ」


粧子はそう言うと、さっそく揺蕩が持参した祝いの品へ手を伸ばした。

遠慮という言葉とは縁のない手つきで包みを開いていく婚約者を眺めながら、常一はひっそりと息を吐いた。



◇



甘味処『糖集』。

臍府にほど近い路地に店を構える、和菓子の老舗である。名物は白玉あんみつだと、日入は言っていた。

その日入には、女中が話していた甘味処に行ってみたいのだと嘯き、店の場所を記した地図だけを書いてもらった。


そうして、綴たちは四人で『糖集』へとやって来たのだが、店先には"定休日"の札がかかっている。


「……入っていいのかな?」

「人払いをしているんだろう。行こう」


瓢が試しに引き戸に手をかけると、あっさりと開いた。

からり、と乾いた音がする。

四人で遠慮がちに中を覗き込むと、当然だが店員の姿も他の客の姿もない。

ただ一人、小上がりの席に、揺蕩が座っていた。


「おお、来たか」


いち早くこちらに気付いた揺蕩は、まるで自分の家にでも招くように、「入れ入れ」と手招きをした。


四人は店内に入ると、靴を脱いで小上がりへ上がった。

揺蕩の向かいの席に並んで座ると、テーブルにはすでに人数分のあんみつが用意されていた。

寒天に餡、白玉、果物。透明な器の底には、黒蜜がたっぷり入っていた。


「店員には、何と?」


店奥からかすかに聞こえる洗い物をするような水音と食器の触れ合う音に、瓢が尋ねる。


「ここは滑の経営だからね。融通が効くのよ」


揺蕩はそう答えると、目の前に置かれたあんみつを匙ですくった。

白玉をひとつ口へ運び、満足そうに頷く。


「ほら、お前達も遠慮しないで。おいしいよ」


促されるまま、それぞれが卓上のあんみつへ手を伸ばす。

綴はあんこを、相生は白玉を、四葩は黄桃をつつき始める。

瓢も匙を取ったものの、口は付けずに揺蕩を見た。


「笑壺家は、いかがでしたか?」


含みを込めて問いかけると、揺蕩は答える代わりに寒天を匙ですくう。

透明な欠片が黒蜜をまとい、陽の光を受けてつるりと光った。


「せっかくだから、花婿を拝んでおこうと思ってね。なかなか面白かったよ」

「全く、肝が冷えましたよ」


笑壺家の当主が同席していたと後から知って、さすがに瓢達も冷や汗をかいた。

未だ四人は莞爾と面識がなく、その人となりもよく知らない。

だが、根の国で商いを一線で率いている人物なのだ。只者であるはずがない。

揺蕩も抜け目のない男ではあるが、相手もまた同じだろう。

小さなきっかけから、何かに勘付いてもおかしくはない。


「下手はこかないさ」


そう言って、揺蕩は暢気に笑う。

臍府、ひいては滑家の中で、いったいどういう話になっているのか。

笑壺家に灸を据えるという目的が彼らにある以上、そのためのジャブを打ったつもりなのかもしれない。


「しかし、あの幽霊ホイホイが妖怪も引っかけるとはね」


誰に言うでもなく、揺蕩がぽそりと呟いた。

その言葉を聞きつけた四葩が、手にしていたさくらんぼをぽとりと落とす。


「え、常一と面識あったの?」

「んー、まぁ、ちょっとネ」


揺蕩はどこか楽しげに笑うと、「花婿から詳しく聞いてよ」とだけ言って、湯呑みに手を伸ばした。

白い湯気の向こうで、茶をひと口啜る。


「それよりも、あすこの娘は手強そうだね」

「……なにか視えましたか?」


瓢が、すかさず問いかける。

揺蕩の占いは、その人を直接見ることで精度が上がる。

先ほど笑壺家で、揺蕩は粧子をその目で見た。

もし、あの場で何か未来を視ていたのなら──果たしてその隣に、常一の姿はあったのだろうか。


四人が固唾を呑んで答えを待つ。

揺蕩はしばらく湯呑みを弄びながら、じっと茶面を眺めていた。


「いつもそうだが、視える未来はひとつじゃない。可能性がいくつもある。その中から、最も現状に近い未来が、もっとも起こりうる未来だ」


「んん? 何かよく分かんないんだけど?」


四葩が首をひねる。

頭の中で「未来」という言葉が完全にゲシュタルト崩壊を起こしていた。

揺蕩は「つまりね」と前置きして、顔を上げる。


「現状は準備不足であるからして、花婿の奪還が成功した未来は、起こる可能性が低い」


はっきりと言われ、四人は揃って押し黙った。

実に耳の痛い話で、反論の余地がない。


常一を連れ戻さなければと息巻いてはいるものの、勢いに任せている部分があることは、四人とも自覚していた。

計画らしきものは立てている。

だが、土地勘もなければ自由に動き回れる訳でもない。大半が、行き当たりばったりの杜撰な内容だった。


揺蕩もそれは分かっていて、しかし、悲観する様子はなかった。


「だから、望む未来に向けて、必要な要素を揃えていけばいいんだよね」


そう言って、揺蕩は湯呑みを卓上へ置く。

その中では、茶柱が二本、まっすぐに立っていた。


「花婿とは握手をして、印をつけた。帰りの門は、それで開くよ。通行料も問題ないからして、そのまま通り抜けなさい」


いつの間にやら、揺蕩は着々と手を回していたらしい。

四人はあれこれと思い悩むばかりで、揺蕩に連絡を取ることすらできていなかったというのに。

こちらが考えを巡らせるより先に、必要な手筈を整えていたのだ。


おそらく、こちらがどう動くかなど、とっくにお見通しだったのだろう。

飄々としているようで、その実、抜け目がない。

昔からそういう人だったが、改めて思い知らされる。

こればかりは、孫である瓢も頭が上がらなかった。


「明日は、妖具屋へ行って頂戴。ま、ラッキーアイテムの入手ってやつだね」

「用具屋? 武器か?」


相生が喜び勇んで聞き返す。

揺蕩は「随分、物騒じゃないの」と、呵呵と笑った。

懐へ手を入れ、折り畳まれた一枚の紙を取り出す。それを卓上に置くと、指先で綴のほうへすっと滑らせた。


「これを持って行きなさい」


綴が受け取り、紙を広げる。

そこには、店までの簡単な地図が記されていた。

けらけら通りから少し外れた一角。大通りからは離れているものの、道順そのものは迷うほど複雑ではない。

そして、地図の端に記された店名に、綴の目が止まった。


「暮鐘堂(ぼしょうどう)って……」


昨日、粧子が綴の万年筆を見つけた際に口にしていた名前だ。

綴が地図を見つめていると、揺蕩はどこか愉し気に目を細めた。


「縁とは、異なもの味なものよ」


そう言うと、空になった器へ匙を放り込む。

カラン、と涼しい音が卓上に響いた。



◇



その日の夕刻。

客間にやって来た常一は、瓢に詰め寄るなり、二年前に揺蕩と会った時のことを、堰を切ったようにまくし立てた。


「……ああ、なるほど」


瓢は話を聞き終えると、呆れたように頷いた。

そして、揺蕩が現役を引退したあと、除霊師を名乗っては、気紛れにお祓いごっこをして遊んでいたのだと説明する。


「だけど、本当に危ない案件なら、相応の対処をしただろうからね。つまり、常一は大丈夫だったってわけだ」


「遊びって……ごっこって……」


もしも、瓢と出会う未来まで視えていたのだとしても。

せめて、「君は幽霊に好かれる体質だから、仕方ないよ」とでも一言教えてくれていれば、常一だって別の手立てを考えたかもしれない。

それを何も言わず、未来の孫に任せて金だけ取るとは。

やっぱり、ロクでもないジジイだった。


常一が目元をぴくぴくと震わせる横で、四葩も「まったくその通り」とでも言いたげに、深く頷いていた。


「しかし、二年前か」


ふと、瓢が呟いた。


「祖父が亡くなったのも二年前だから、滑り込みだね」


これを偶然と言うべきか、それとも必然と言うべきか。


もし常一が、あと数ヶ月遅く相談に訪れていたなら、揺蕩と会うことは叶わなかった。

それが人生の分岐点のひとつだったのかどうかは、分からない。


ただ、もしかすると、屋敷に住む揺蕩のパートナーである羽流子という女性に出会っていたかもしれない。

彼女も相当の手練れだというから、もしそうなっていたなら、常一は今とはまったく違う道を歩んでいた可能性もある。


二年前。揺蕩は、常一の未来をどこまで視ていたのだろう。

少なくとも、妖怪に見初められる未来までは視えていなかっただろうけれど。




*




翌日、綴と相生は二人で妖具屋へ向かった。

いよいよ、本当に時間がない。結婚式は明日なのだ。

根の国にもそれなりに慣れてきたことだし、何も四人揃って行動する必要はない。

そう判断して、今日は瓢と四葩とは別行動をすることになった。


二人には、けらけら通りをもう一度下見してもらう。

常一を連れ出した後、どの道を使って逃げるのがいいのか。追手が来た場合にどこで撒けるのか。

実際の道を歩きながら、逃走経路を確認してもらう手筈だ。


「じゃ、またあとで」


けらけら通りの途中で瓢達と別れると、綴と相生は並んで脇道へ入った。


大通りほどの賑わいはないものの、軒を連ねる店々からは客を呼び込む声が聞こえてくる。

道端では買い物籠を片手にした奥様方が立ち話に興じていた。

妖怪と死者の暮らす根の国だということを忘れてしまいそうなくらい、長閑な地元の商店街といった雰囲気が漂っていた。


「……妖具屋って、この並びか?」


相生が胡散臭げに周囲を見回す。


「地図ではこの辺りのはずなんだけど……」


綴は揺蕩から渡された地図を広げ、そこに走り書きされた雑な案内を頼りに歩いていた。

煙の立つ焼き鳥屋の匂いに惹かれながら、やがて、古びた木造の建物が目に入る。

その軒先に掲げられた一枚の看板を見つけ、綴は足を止めた。


「ここだね」

「ここだな」


相生も隣で頷いた。

妖具屋は想像していたより、ずっと地味な店構えだった。

『暮鐘堂』と描かれたホーロー看板が、軒先にひとつ掛かっているだけ。

戸は開け放たれているので、営業はしているのだろう。

けれど、他に客の姿はなく、店内は少しだけ薄暗かった。


「……なんか、思ってたのと違うな」


相生が店の中を覗き込む。

表のショーケースには、売る気があるのか疑わしくなるほど埃を被ったカメラや、用途の分からない木箱が並んでいる。

もっと奇妙奇天烈な品が所狭しと並べられている想像をしていたが、これでは廃業間近の骨董品屋みたいだ。


「え、やってんだよな?」

「揺蕩さんが言うんだから、やってるでしょ」


疑う相生に、綴が歯切れの悪い返事をした。

その時だった。


「いらっしゃいませ」


不意に声をかけられ、二人ははっと目を瞬いた。

ついさっきまで誰もいなかったはずの戸口に、いつの間にか男が立っているではないか。

相生と同じくらいの背丈──いや、わずかに高いだろうか。

すらりとした体躯に、隙のない立ち姿。精悍でありながら、どこか目を惹く美しい顔立ちをしている。


男は相生を通り過ぎ、綴をひと目見ると、そのままじっと見つめた。

値踏みするような嫌味な色はない。ただ、何かを確かめるような目だった。

綴も戸惑いながら見返していたが、いつまで経っても男が口を開く気配はない。


「え、なんの沈黙?」


耐えかねたように相生が口を挟む。

すると男は、ようやく、まばたきを一つした。


「揺蕩さんの遣いの方ですか?」

「え。あ、はい」


綴が頷き、揺蕩から渡された地図を差し出す。

男はそれを確認すると、ふっと表情を和らげた。


「どうぞ。お入りください」


そう言って身を引き、店の中へと促す。

綴は一瞬だけ男の顔を見返した。それから相生を先に通し、自分も続いて店内へ足を踏み入れた。


「ちょっと、お待ちくださいね」


店内は、半分が工房、もう半分が商品を並べるスペースになっていた。

工房側には作業台や工具が置かれ、何に使うのか分からない道具や部品が所狭しと並んでいる。

一方、商品棚はガラガラで、売り物なのか飾り物なのか分からない瀬戸物や人形が置いてあるだけだ。

いかにも職人の仕事場らしい無骨さと、商売っ気の薄さが伺える店内だ。


「こちら、どうぞ」


男は明らかに手作りといった風情の椅子を二脚、綴と相生の前へ差し出した。

それから、こちらも明らか急拵えといった小さなテーブルを、二人の前に置く。


「すみません。新しいお客さんって、あんまり来ないんで、勝手が……」


申し訳なさそうに頭を掻く男に、綴は首を横に振った。


「いえ、おかまいなく」


男はなおも落ち着かない様子で、忙しなく店の奥へ引っ込んでいく。

しばらくすると、今度はちくはぐな湯呑みを二つ手にして戻ってきた。柄も、大きさも、見事なまでにばらばらだ。


「ありがとうございます」


礼を言って湯呑みを受け取りながら、綴は改めて男の顔を見た。

一見すれば、近寄り難いほど整った美形だ。

それが、接客ひとつに、どうにもまごついている。

その落差が何ともおかしくて、綴は知らず、強ばっていた肩の力を抜いた。


「……あ」


ふと、男が湯呑みを置く手を止める。

その視線が、綴の胸元へと吸い寄せられた。


「その万年筆……ちょっと、それ、貸してください」

「あ、はい」


綴が言われるまま万年筆を抜いて差し出すと、男はそれを受け取り、まじまじと眺める。

目を細め、軸を指先で撫でたかと思うと、腰に提げていた道具用の鞄へ手を入れた。


「あれと……ここもかな、」


小さな道具をいくつか取り出し、手際よく並べる。

その動作には迷いがない。細かな部品を扱う指先は驚くほど器用で、万年筆を軽く分解しては、内部を確かめ、丁寧に手入れを施していく。


「これ、俺がまだ見習いだった頃に作ったんです」

「え?」


男は万年筆から目を離さないまま、懐かしそうに眉を下げた。

まさか製作者に会えるとは思っておらず、綴も相生も驚いた。


「こんなの一体、誰が使うんだって、師匠には散々どやされましたけどね」


無理もない。

根の国には、幽霊も怪異も存在しない。

死んだ者は皆、根の国へやって来る。何らかの理由でこちらへ来られなかったものが、幽霊として中ツ国に留まるのだ。

だから、根の国では幽霊を封じたり、怪異を閉じ込めたりする必要がない。

そんなものを相手にするための道具など、そもそも作る意味がないのだ。


「それで、売り物にはならなくて。しばらく、普通の万年筆として使ってたんです」


男は肩をすくめて苦笑する。

師匠は金にはならないと言ったが、万年筆そのものの出来や仕組みは褒めてくれた。

男はそれが妙に嬉しくて。だから、分解して部品にすることも、廃棄することもせず、ずっと手元に置いていた。


「そしたら、ある日、急に注文が入って……」


そこで言葉を切り、男は万年筆を光にかざした。


「まさか、ここで会うとは思いませんでした」


最後に柔らかな布で軸を磨き上げる。

丁寧に何度か拭うと、万年筆は以前よりも艶やかな光沢を帯びていた。

さらに蓋のクリップへ指を添え、わずかに曲がっていた部分を器用に直す。


「はい。どうぞ」


差し出された万年筆を、綴は両手で受け取った。

軸はつやつやと輝き、曲がっていたクリップもすっかり元通りになっている。まるで、新品みたいだ。


「ありがとうございます」


綴がうっとりと万年筆を撫でると、男は穏やかに微笑んだ。


「いえ。こちらこそ」


そして、手の中の万年筆を見つめる綴へ、男は少し照れくさそうに続けた。


「貴方だったんですね」

「……僕?」

「ええ。この万年筆を、ちゃんと使ってくれる人」


作っておいて何だが、男自身も、幽霊をインクにして記憶を書き起こす万年筆などというニッチな道具に、果たして使い手が現れるとは思っていなかった。


思いついたものは形にしてみなければ気が済まない性分で、これまでにも似たような道具をいくつも作ってきた。けれど、その多くは結局、使い道を見つけられぬままガラクタになった。


それなのに今、その万年筆は中ツ国で役に立っている。

しかも、その使い手が、生者であるうちに自分の店を訪ねてきた。

縁というものは、まったく、おもしろくって仕方ない。


男は、また綴の顔をじっと見つめた。

その視線を受け止めたまま、綴はどうしたものかと眉を下げる。

かといって、露骨に目を逸らすのも失礼な気がして、結局は男の目を見返すしかない。

二人の間に、また謎の沈黙が落ちる。


「……空白の時間、作るのやめてもらえる?」


とうとう耐えかねた相生が、二人の間に手を差し入れ、ひらひらと振った。


「ああ。そうだ」


男はようやく、ぱちぱちと瞬きをする。

そして何事もなかったかのように相生の手を取り、握手を交わした。


「名乗るのが遅れましたね。覚(さとり)です」


あまりに独特な間に内心つんのめりながら、二人も名乗った。

揺蕩とは友人の祖父で、生前から付き合いがあることも付け加えた。


覚は、先代からこの暮鐘堂を受け継ぎ、今はひとりで店を切り盛りしているという。

滑家や笑壺家とは、店を構えた当初からの付き合いらしい。

妖具屋にもいろいろあるが、暮鐘堂は客の要望に合わせたオーダーメイドを主としている。

長年の縁もあって、今では一般の客から注文を受けるよりも、滑家と笑壺家からの依頼を中心に商いをしているそうだ。


「あ、そうだ。揺蕩さんから依頼された品を、お渡ししないと」


覚は何かを思い出したように呟くと、すぐさま工房へ引き返した。

作業台の下を覗き込み、何やら探しているらしい。

がさごそと物を動かす音がしばらく続き、やがて戻ってきた覚の腕には、両手で抱えるほどの木箱が収まっていた。


それを机の上へ慎重に置くと、綴たちの前で蓋を開ける。


「こちらです」


そう言って、覚は箱の中から品物を一つずつ取り出し、机の上へ並べていった。

アンティークカメラ、懐中時計、扇子。

どれも一見しただけでは、骨董品屋の棚に並んでいそうな品だ。

やや使用感があるものの、ごくありふれた品にしか見えなかった。


「詳しい事情までは伺っていませんが、結婚式での撹乱と逃走用にご用意しました」


それが、上得意である笑壺家の結婚式だということまで聞いているのだろうか。

いや、依頼元が滑家なのだ。事情を知っていたとしても、断れないのかもしれない。

いろいろと思うところはあったが、綴も相生も、ひとまず揃って頷いた。


「では、簡単に商品説明を」


覚は机の上に並べられた品へ手を伸ばし、古びた革張りのアンティークカメラを取り上げた。


「これは、"影写機"です」


黒い箱型の本体には、いくつもの真鍮の金具が取り付けられている。正面には丸いレンズがひとつ。

その周囲には細かな刻印が円を描くように刻まれていた。

レンズを覆うように取り付けられているのは、蛇腹状に伸縮する黒革の筒だ。

側面には小さな巻き上げ用のつまみと、赤いガラス玉の嵌まったシャッターボタンがある。

そして背面には、撮影した影を写し取るための薄い硝子板。

綴が覗き込むと、その硝子の奥には墨を流し込んだような黒い揺らめきが見えた。

光を受けても反射することはなく、硝子そのものが暗闇を抱えているようだった。


「片手で扱えるようにはなっていますが、見た目より重いので注意してください。妖力を仕込む装置の軽量化が難しくて……」


そう言いながら、覚は影写機を両手で持ち上げた。

ずっしりとした黒い筐体が、手の中でわずかに傾く。

そのまま覚が構えると、正面のレンズが綴と相生をまっすぐに捉えた。


「シャッターを切ると、被写体の影がその場に残ります」


「影武者?」と、相生。


「近いですが、影は撮影した瞬間の姿を残すだけです。動いたり、話したりはしません」


覚は影写機を少し傾け、レンズ越しに二人を覗き込むようにした。


「それから、連続して使うと、残る影が少しずつ薄くなります」

「薄く?」

「はい。使うたびに影の輪郭が曖昧になっていくんです。最終的には、撮影してもほとんど影が残らなくなります」

「連写はできないってことですね」

「そういうことです」


シャッターを切るフリをして、覚は影写機を机へ戻した。

かちゃり、と真鍮の金具が小さく鳴る。

使いこなすには、何度か練習が必要になりそうだ。

相生は腕を組み、影を残した後の動きを考えるように眉を寄せた。


覚は続けて、次の一品を取り上げた。

今度は、古びた手巻き式の懐中時計だ。


掌に収まるほどの大きさで、蓋には蔦状の装飾が施され、古びた金属の表面には、長く使い込まれてきたような鈍い光沢がある。


「これは、“狂った懐中時計”です」


 覚は蓋を開けることなく、懐中時計を手の中で示した。


「蓋を開けると、時計の周囲数メートルにいる人の時間感覚を狂わせます」


「時間感覚、ですか?」


「ええ。実際に経過した時間と、その人が感じる時間にズレが生じるんです」


「じゃあ、こっちが一分かけて逃げている間に、追手には十秒しか経っていないように感じさせることもできる?」


相生が、何とか理解しようと頭を揉みながら尋ねる。


「できます。逆に、実際には一分しか経っていないのに、一時間以上が経過したように感じることもあります。ただし、範囲外にいる人には効果がありません。そこは気を付けてください」


実際に時間を遅らせたり、周囲の時間を巻き戻したりするわけではない。

あくまで、範囲内にいる者の「どれだけ時間が経ったか」という認識だけを狂わせるのだ。

感じる時間の長さには個人差があるらしいが、追っ手を撹乱するには十分使えるだろう。


「ただし、一度使うと、十五分ほど間を空けないと蓋が開かなくなります」


覚は懐中時計を手の中で弄びながら、そう付け加えた。


「使うタイミングは、よく見極めてください」


御披露目行列の最中に使うことを考えれば、多くても二度が限界だろう。

使える回数が限られている以上、これも扱う者の判断力が問われる妖具だった。


「最後が、"雲隠れの扇子"です」


覚は懐中時計を机へ戻すと、金糸で縁取られた上品な扇子を手に取った。

細身の骨にも控えめな装飾が施されており、祝いの席にも相応しい華やかな品だ。


「これで扇いでいる間は、扇子を持っている者の存在を周囲は認識できなくなります」


そう言って、覚は扇子をゆっくりと開いた。

白い扇面が、ぱさり、と小さな音を立てて広がる。

覚がそれをひと振りすると、綴たちの目の前で、その輪郭がぼやけた。

まるで焦点が合わなくなったかのように、姿の境目が曖昧になっていく。

けれど、透明になったわけではない。

覚の身体を透かして、背後の景色が見えているわけでもない。


確かにそこに何かがいる。

それなのに、それが何なのかを認識できない。


「何だ、これ……?」


相生が目を細め、覚のいた場所を凝視する。

いる。確かにいるはずなのに、そこに「人がいる」という認識だけが、どうしても追いついてこない。


覚が扇ぐのを、止めた。

その途端、ぼやけていた輪郭がくっきりと浮かび上がり、覚の姿が何事もなかったかのように現れた。


「どうですか? 目には映っているのに、それを『人がいる』とは認識できなくなるんです」


「すごく変な気分でした……」


綴が困惑したように呟く。

目の前にいるのに、いない。見えているのに、見えていない。

まるで、タヌキに化かされたような気分だ。

そんな二人の様子を眺めながら、覚はどこか得意げに口角を上げた。


「例え目の前を横切ったとしても、相手の意識には引っかかりません。追手のすぐそばをすり抜けることもできます。ただし──」


覚が丁寧に扇子を閉じる。

広がっていた白い扇面が、ひとつひとつの骨を重ねながら、細く収まっていく。


「鼻の利く妖には要注意です。臭いや声までは阻害できませんから。姿は見落としても、匂いや物音から居場所を察知される可能性があります」


扇子は存在そのものを消すわけではない。

ただ、そこにいるという情報だけを、相手の認識から抜け落とす。

視覚から得た情報を阻害するだけで、それ以外の感覚にまで効果が及ぶわけではないのだ。


「見つからないんじゃなくて、気付かれにくくするって感じか」

「そういうことです」


これで、三つの妖具の説明が終わった。

どれも万能ではない。

影写機は、追手から逃げるための時間を稼ぐことしかできない。

狂った懐中時計も、時間感覚を狂わせることはできるが、一度使えば再使用まで間が必要になる。

そして雲隠れの扇子は、視覚からの認識を阻害できても、音や匂いまでは隠せない。


どの妖具にも、それぞれ明確な弱点がある。

勘の良い粧子相手に、どこまで通用するかは分からない。

それでも、三つを状況に応じて使い分ければ、逃げる隙は作れるはずだ。

揺蕩もラッキーアイテムだと言っていたのだ。きっと、助けになってくれるだろう。


「お代は、滑家につけておきますから」


覚はそう言うと、三つの妖具を手早く布で包み始めた。


「妖力の気配が外に漏れないようにしておける風呂敷です。上手に使ってください」


そう説明しながらも、手際良く折り目を整え、最後に口をきゅっと結ぶ。

三つの妖具が、きれいに風呂敷の中へ収まった。


覚から風呂敷包みを受け取った綴たちは、揃って礼を言う。

そして、そのまま店の外へ向かった。


「ありがとうございました」


戸口まで来たところで、綴が振り返ってもう一度頭を下げた。

その隣で、相生も軽く会釈をする。


二人が先に店の外へ出ると、覚もその後を追うように店先まで出て来た。


「死んだら、また寄ってくださいね」


根の国らしいユーモアでもって、覚は美しく微笑んだ。


「ええ、必ず」


綴も、同じように笑って答える。

その横で、相生は、ちょっと嫌そうな顔をした。



◇



夕刻、常一を交えての定例三十分会議が始まった。

明日に迫った結婚式のタイムスケジュールを確認し、当日の動きと逃走経路を擦り合わせていく。

手に入れた妖具についても、それぞれの使い所と役割を確認した。


時間がないだけに、説明は自然と駆け足になる。


中でも常一が食いついたのは、影写機だった。

アンティークカメラを手に取り、あれこれと触りまくっている。

けれど、明日の御披露目行列で新郎がカメラを抱えるのは、どう考えても不自然だ。


「それは、四葩に任せよう」


もともと動画配信で、自分一人で撮影から編集までこなしていた男だ。影写機を扱う役目は、四葩が担当することになった。


「常一には、扇子を渡しておくね」

「できるだけ、香水の類いは付けるなよ」


綴が雲隠れの扇子を差し出し、相生が念を押す。

受け取った常一が試しに扇いでみると、たちまち彼の存在が認識できなくなった。


「おお……」


目の前にいるはずなのに、そこにいることだけが分からない。

その摩訶不思議な感覚を面白がった四葩が、「ちょ、常一も見てみ?」と扇子を受け取り、今度は自分で扇いでみる。


「え、すご!なんか変な感じ!」

「次、他のも試してみようぜ」

「待って。時計は効果の出方が怖いから後にしよう」


そんな具合に順番に妖具を試しているうちに、四人はすっかり作戦のことも忘れて盛り上がってしまった。


しかし、いつまでも遊んでいるわけにはいかない。


「あと五分しかないぞ」


相生が時計を示すと、途端に空気が引き締まった。

みんな慌てて妖具を置き、真面目な顔に戻る。


本来なら、作戦の手順を紙に書き出しておけば確認もしやすい。

だが、それでは万が一にも証拠が残ってしまう。

結局、全員が頭の中だけで手順をなぞりながら、ひとつひとつ確認していくしかなかった。


そうして最終確認を終えた頃、約束の三十分ちょうど。

廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてきた。


やがて、襖が無遠慮に開け放たれる。

いつものように、粧子が迎えに来た。


彼女は何よりもまず、常一へ目を向ける。

綴は反射的に、卓上に並べていた妖具へ風呂敷をかぶせた。布が卓の縁に触れ、かすかな音を立てる。


粧子の目が、風呂敷の膨らみへ滑った。

綴の手が止まる。余興の小道具だと言い訳は考えているが、じわりと厭な汗が流れた。


「ご機嫌麗しゅう、粧子嬢」


すかさず瓢が作り笑いを浮かべ、深々と頭を下げた。

粧子は返事をしなかった。


瓢、綴、四葩、相生、と順に目を向けていく。

普段なら、粧子は綴たちには一瞥もくれない。そのまま常一だけを連れて帰っていく。


いつもとは違う様子に、五人は無意識に息を殺した。


粧子は常一の前まで歩み寄ると、彼の顔を覗き込むように見つめた。


そして、パンッと小気味よく手を打つ。

乾いた音に、全員の肩が跳ねた。

粧子は満足そうに、赤い唇をにいっと吊り上げる。


「今夜は夕餉を共にすると、お父様が仰っているわ」


粧子は笑みを崩さぬまま、全員を見渡した。



「全員、支度をなさい」






2026.10.3

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