25 寂しさを越えて①
「……あれから、十年以上経つのか。弟が無事に成長していれば、もうとっくに成人しているだろう。だがもう弟の顔も思い出せないから、今会ったとしてもお互い分からないだろうな」
感情を込めずに過去を語った二十五歳のアーチボルドは、リザの顔を見て薄く笑った。
「……とまあ、これが俺の過去だ。おもしろくも明るくもない話を聞かせてしまって、悪かったな」
「……いいえ。あなたが今、その話をしたいと思ったのでしょう?」
黙って話を聞いていたリザがそう言うと、アーチボルドは虚を突かれた表情になった後に「……そうだな」とうなずいた。
「多分、おまえだから聞いてほしいと思ったんだろう。おまえなら、俺の生まれ育ちを聞いても態度を変えずに接してくれるだろうと期待していたのかもしれない」
「もちろん、変えませんよ。……生まれなんて、本人ではどうしようのないものなのですから」
「ほう? 敬虔な神官殿らしくもない言葉だな」
「神は万能ではありません。全ての子どもが幸せな家庭に生まれるなんて、現実的に考えて不可能です。……神の導きで子は両親のもとに生まれるなんて、苦労したことのない人間が勝手に嘯くきれいごとです」
「おい、いいのか、神官がそんなことを言って」
「夜は神もお休みになっていますから、大丈夫です。聞こえていません」
リザが適当なことを言って笑うと、アーチボルドもにやりと笑った。
「……やはりそういうおまえだから、言いたくなったんだろうな、俺は」
「言ってすっきりしましたか?」
「悪くはない気分だ。……カイリーもロスも、俺の出身がゲレイツ地方と知るだけでだいたいのことを察してくれた。あいつらに対しても過去の話をすることはなかったから、俺自身誰かに言いたくてうずうずしていたのかもしれない」
「……それならよかったです」
リザは一呼吸置いてから、先ほどよりは輝きの戻っているアーチボルドの青い目を見つめた。
「あなたは、ご両親に愛されなかったとおっしゃいました。でも今のあなたは、カイリーやロスのことを家族として愛していますよね」
「ああ、自分でも驚きだ。これまで貧困にあえぐガキは何人も見てきた。そのたびに、俺では救うことができないと目を背けてきたのだが――二年前にカイリーと出会ったとき、あいつは俺にはっきりと助けを求めたんだ」
「……」
「そのときに、俺がこいつを守らなければならないと思った。ロスのときも、そうだ。深く考えての行動ではなくて、俺がするべきなんだ、と突発的に思ってあいつらに手を差し伸べた」
そうして瞑目したアーチボルドは、小さく笑った。
「……俺が父親からもらったものは偽りの愛情と拳骨、暴言くらいだった。そんな俺だがカイリーを拾って育てると決めてからは、俺が父親にしてほしかったことをあいつに与えた。衣食住を整えて、いいことをしたら褒めてやる。悪いことをしたら容赦なく叱るが、その後もきちんと会話をする。……まあ、口が過ぎたりしたら、拳骨を喰らわせているがな」
「立派なことです。それはきっと、誰もができることではありません」
「そうか?」
「はい。……もしかするとそれは、他ならぬあなただからできたことなのかもしれないですね」
リザは目を開いたアーチボルドに微笑みかけ、小さく首をかしげた。
「あなたはご両親から、ほしいものをもらうことができなかった。だからあなたは自分がしてほしかったことをカイリーたちにすることで、あの子たちを助けて――同時に、あなたの中にいる子どもの頃のアーティも慰められたのかもしれません」
「俺の中に? ……よく分からないのだが」
「もし今のアーティが十二歳の頃の自分に会えたら、どうしますか?」
リザが問うと、アーチボルドは真剣に考えているようで腕を組んで眉根をぎゅっと寄せ、低く唸った。
「……そうだな。もし、会えたなら……大丈夫、と抱きしめてやるかな」
「そう思える大人になったことが、子どもの頃のあなたにとって一番の慰めになるのだと思います」
アーチボルドは無意識のうちに、カイリーやロスを通して幼い頃の自分を見ていたのかもしれない。
大人になった彼が、愛情深い父親になることができた。……それは親の愛を得られなかった過去のアーチボルドにとっても、一つの救済になったのではないだろうか。
「私だって、もし子どもの頃のあなたに会えたら抱きしめて、頬にキスをします。もう大丈夫だよ、と声を掛けます」
「えっ。そうなのか?」
「だめでしたか?」
急にアーチボルドがうろたえ始めたのでリザが目を丸くすると、彼は咳払いをしてうつむいた。
「……いや、だめではない。ただ……そうだな。あの頃の俺は精神的にも未熟だったから、おまえみたいな美しい女性神官に抱きしめられたら卒倒するかもしれないと思って」
「あら、それはそれでかわい――えっ?」
「何だ」
「あの。今、私のことを、美しいと……?」
つい聞き流しそうになったが念のために問うと、顔を上げたアーチボルドは顔中に焦りの色を浮かべ、大きな手を左右に振った。
「いや、それは……まあ、嘘ではない」
「……」
「あまり深く考えないでくれ! ただ、俺は思ってもいない世辞をなめらかに言えるような男ではないから、おまえのことを醜いと思っているわけではないのは事実だ。だから俺が口走ったことが何であれ、おまえはそれを素直に受け取ってくれればいいということだ」
「え、ええ、そうですか……?」
だんだんお互い何を言っているのか分からなくなり、二人は沈黙した。
(ええと、つまり……アーティは本当に、私のことを美しいと思って――)
――ガタン、とリザが勢いよく椅子から立ち上がったからか、アーチボルドの分厚い肩が揺れた。
「お茶、淹れてきます!」
「あ、ああ、ありがとう」
ひとまず一旦彼と距離を置こうと、リザは調理場に行って茶を淹れることにした。
(びっくりした。……びっくりしたわ)
湯が沸くのを待ちながら、はぁ、とため息をついて頬に手を当てる。
そこは真夏の陽気の中でもここまで熱されないのではと思われるほど熱くて、触った自分が驚いてしまう。
(美しいなんて、ハリソンにも言われたことがないわ……)
そもそもハリソンはリザのことをお堅くて物分かりの悪い面倒くさい女だと思っていたようだから、そんなことを言うはずもないのだが。
実直だが口達者というわけではないアーチボルドから言われた「美しい」だからこそ、リザの胸を衝き動かしてこれほどまで心臓を高鳴らせるのだ。
(……戻ったら、平然としよう)




