役者の仕事
ガラスのない窓から涼風が吹き込んでくる。先ほどよりも気温は上がっているはずなのだがそれをあまり感じない。一面に浮き上がった木目模様が、涼しさを感じさせてくれるからだろう。
あれから幾ばくか経った。
ナワテは依然として魔女が描かれた絵を呆然と眺めている。
ナワテの母、マリエ・ヒョウカ。もといマーガレット・ベルルックサリーは、かつてアダルアの人気女優だった。
つい先ほど知った事実だ。
ナワテは10歳のときに母と死別しているが、彼に芝居のイロハを叩き込んだのは、なにを隠そうマーガレットである。その型にはまらない独創的な演技論は、ナワテを5歳までに天才子役へと育て上げた。
当然母には、なにがしかの演技経験があるのだろうとは思っていた。だが、まさかプレーヤーだったとは……。
本来ナワテが見据えるべき目標は、2日後の演劇大会で上位20組に入ることだ。この目的は、スレタの家族、ブルーバーグ家の件にも関係する。
これ以上、母のことで悩んでいては本来の任務に支障をきたしかねない。
だからこの際、頭の中のしこりはすべて除去しておこうとナワテは思った。
「スッチ、今しがた君が口にした、『役として生きる流派』について訊ねたい」
「流派……ベルルックサリーシステムのことか?」
演出席で酒をチビチビたしなんでいるスッチは、なかば面倒くさそうに答えた。そんな彼の尖った嘴から飛び出したのは、またもや新たな興味を呼ぶ単語であった。
「ベルルックサリーシステム? つまり、母さ……この魔女が作った演技理論ってことか?」
「せや。お前らそんなことも知らんと、あの流派を使っとったんかいな?」
「まあな。少し前まで、ぼくたちと同じ流派を使う俳優がいたのか?」
「一部はな。役として生きる演技を会得した役者は、ほぼ全員がこの町の人気俳優やった」
話を聞くに、どうやらナワテとルルの優れた演技は、ベルルックサリーシステムという理論にのっとっているらしい。スッチの口ぶりはまるで、その理論を会得すれば向かうところ敵なしといった言い草だ。
実のところ、その点についてはナワテも納得している。ルルもそうだろうが、ナワテが子役としてブレイクしたのは、断じて他の子役より演技の才能が突出していたからではない。教わった演技理論がすぐれていた結果であることは確かだ。
スッチは質問に答えるのが億劫になったのか、部屋の隅にあった本棚に手を掛け、一冊の古びた本を取り出しナワテに手渡した。
その本は手に取ると思いのほか軽かった。おそらく30頁ほどしかない。
しかし、表紙に書かれてある文字が、ナワテの目を大きく見開かせた。
ベルルックサリーシステム。
役者の仕事。
その文字を見たナワテは、昨日見た母の夢を思い出した。
── 『役者のお仕事はね、役に魂を吹き込むことなのよ』 ──
反芻した声を元に、この本は母が書いたものだという確信を得る。
「ナワテ、読んで読んで!」
いつの間にかナワテの後ろから、興味津々のスレタが顔を覗かせていた。
「絵本じゃないぞ」
「分かってるもん。スレタ、もう11才だよ。絵本は紙くず」
「そこまで言わなくても……」
どうやら、スレタはこれを演技理論の本と理解した上で興味を示しているようだ。
ナワテもこれを読まないというわけにはいかない。
スレタの見える位置に本を置いて、そして頁を開いた──。
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