白い悪意
重く、低い声。
それが聞こえた瞬間から、世界はスローモーションになった。
ゆっくりと、足元から這い上がる褐色の土。まるでスライムが獲物を捕食するかのような、生理的嫌悪を催す動きで、僕を捉えようとするそれ。
このスローな世界においてはゆっくりとした動きであったが、実際は僕の反応なんて超越した、瞬く間の出来事である。僕を捉えようとする土の顎門は、既に僕を覆い隠す程に隆起し、蠢いていた。
――――ヤバい。
実にのんびりと、ようやく危機感を覚えた僕は、しかしたいした行動など起こせない。せいぜい、みっともなく這々の体で逃げ出す事しかできず、しかもこの段に至ったら、それも間に合わない。悪足掻きのように、それでも外へと逃れる為、土の壁へと背を向けて、転がり出そうとする——そのとき。
「キアス様っ!!」
悲痛とさえ思える声。
先程の重低音とは違う、高く、澄んだ声。
僕がよく知る、彼女の声。
背中に感じる軽い衝撃が、僕の身を宙へと躍らせる。衝撃こそ軽かったものの、随分と強い力だったようだ。やはりゆっくりと、世界は上下反転し、くるくると回る僕は逆さまに背後の状態を確認する。
そこにいたのは、こちらに手を伸ばすパイモン。なにが嬉しいのか、目に涙を湛えた彼女は、満面の笑みでこちらを見て笑っていた。
直後、パイモンに覆い被さる土。気色悪く蠕動し、球体を取ろうとするその土を確認した僕は、しかし回転する体に引っ張られ、そちらを確認できなくなってしまう。天地の戻った世界で、僕は夜桜の香りに優しく受け止められた。とても防御力に秀でた龍だとは思えない、柔らかな感触に包まれながらも、僕はそれを堪能する事などできない。
ようやくここで、僕の世界は本来の早さを取り戻す。
振り返った僕の目に飛び込んできたのは、キモく蠢く土の球体が、ズブズブと地面に吸い込まれていく場面であった。と同時に、再び響く低い声。
「くははは! 驚いたか、アムドゥスキアス!」
それは、デロベの声だった。
「ようやく網にかかってくれたようで、一安心だぜ。ぶっちゃけお前、空ばっか飛んでて、全然捕まらねーからよ。このまま、空振りすっかと思った。でもよかったぜ。やっぱ、こっちにつけといて正解だったな」
「おいデロベ、どういうつもりだ!?」
「それにしても、お前って非常識わまりねぇよな。ぴゅんぴゅん空飛んで、ポンポン転移するからよ、こうして地面に降り立つのを気長にじっくり待ってたんだぜ。ホント、一苦労だっての。罠張ってるこっちの身にもなれっての! って、なるわきゃねーっか? カハハハ!」
僕の問いかけに、全く答えずベラベラと喋り続けるデロベには、どうやらこちらの声が聞こえていないように思える。それは、デロベの続けた次のセリフで、確信へと変わった。
「でも、こうして捕まえた以上、もう逃さねぇ。遊ぼうぜ、アムドゥスキアス。余人を交えず、邪魔者を入れず、二人っきりで」
「おい! お前が捕まえたのは、僕じゃないぞ!」
無駄とわかりつつも、僕はデロベの声に語りかける。
「どこへなりとも行ってやるから、とっととパイモンを解放しろ!」
「いけませんキアス様!」
僕を受け止めた格好のまま、強く抱きしめてくるレライエが、今ばかりは鬱陶しい。既に半分が地面に埋まり、半球となったそれに対し、僕は何度も言い募る。
「おい、デロベ!」
「まぁでも、正直これ、上手くいくとは思ってなかったんだよな。お前だったら、なんかしらの方法で回避しちまうんじゃねーかって。一応内部に結界張って、転移対策とかしてっけどよ、お前だったらそれもなんとかしちまうんじゃねーかっていう、心配はあったんだぜ?」
「パイモン! 聞こえるか、パイモン!? 内部の結界を破壊して、転移しろ! チッ!」
どうやらデロベは、こちらの状況を詳しく掴んでいるわけではないらしい。僕と間違えて、パイモンを捕らえてしまい、そのまま連れ去ろうとしているのがその証拠だ。しかし、僕としては、僕自身が捕まったほうが、余程よかったと思う。それなら、逃げるだけならどうとでもできる。
僕は外から呼びかけるのを諦め、パイモンのものと対となっている、イヤリングを取り出す。――しかし、予想通り通信は上手くいかない。
「クソッ!」
いくらデロベが、勇者の魔王というトンデモ存在だとしても、遠隔操作している魔法に、それ程強力な結界を施せるはずがない。恐らくは、結界そのものは転移や通信を妨害するだけの、ごくごく簡単なものにとどめ、防御は土の球体本体で担っているのだろう。だとすれば、やり方次第でどうとでもなる。——そう、僕ならば。
「どうすれば……ッ!?」
これを解除するのは、物理攻撃が主体のパイモンには、なかなか厳しい。パイモンは、巨体の竜をぶん投げるような可愛らしい物理さんだが、その分魔法に関してはほとんど無知である。辛うじて魔力を使った技能は使えるのだが、魔法適正に優れた魔族にとっては、それはむしろ、できなければおかしいというレベルのものである。
ゆえに、彼女にこの土球から逃れる術はない。
地面へと潜ろうとしている土球。それは既に、上部の一部を残して、その姿のほとんどを地中に隠してしまっている。それを前に、僕にできる事は皆無だった。
なにか、なにかできないのかっ!?
焦る思考は、しかしデロベの益体も無い無駄話に邪魔されて、千々に乱れる。
「俺としては、お前とさえ戦えたらそれでいいんだよ。なのに、あの三バカ魔王が戦争始めちゃって?おまけにオールまで参戦したかと思えば、勝手に俺の側にエキドナとアベイユがついたって言うじゃねーの。もうね、完全に蚊帳の外じゃん。だったら俺も、お前等なんか無視して、好きなようにやってやるっての!」
「うるさい!!」
クソッ! クソッ! クソッ!! 考えがまとまらない。
どうする? どうすればいい? どれが正解だ? そもそも、正解があるのか? いっそ、外から破壊して――ダメだ。中のパイモンがどうなるか――だったら、地面ごと掘り起こして隔離――無理だ。今ここに、土属性の魔法が使える者は、僕しかいない。
迷い、惑う僕の目の前で、とうとう土球は完全に地面の下へと呑み込まれてしまう。
「じゃあな、アムドゥスキアスの部下たち! まぁ、どっちが生き残るかわかんねーけど、もし俺が生きてたら、また会おうぜ。まぁ、俺が生きてるって事は、アムドゥスキアスは死んでんだけどな!」
「待てっつってんだろ!! 待てコラ!!」
――――そうだッ!! この周囲一帯をダンジョンとして隔離すればいい。ダンジョンは破壊不能。いくらデロベだって、壊せない。
僕は懐からスマホを取り出すと、操作を開始する。
「じゃあ、首尾よくアムドゥスキアスを倒せたら、そんときまた会おうぜ!」
「…………」
間に合え、間に合えッ!!
周囲の五㎞四方をダンジョンに取り込み、単純な石壁で囲む。この状態では、まだ現実に反映されない。僕はセーブの操作をし、煩雑な確認の画面を乱暴に叩いて周囲を確認する。
ようやく現実に反映されたダンジョンマスターの権能が、にゅるにゅると壁を造り出す。そこまで高い壁ではないので、その中心にいる僕からは小さな壁に見えるが、実際は二十m程の高さを誇る巨大な壁だ。
無論、地中にだってその壁はきちんと延びている。というか、むしろ地中こそがメインだ。
「確認。パイモン」
僕は祈るように、パイモンの所在を確認する。もうだいぶ慣れて、声を出さずに確認する事も可能ではあるのだが、それでも声を出して確認したかった。
「…………」
「キアス様……?」
「……よかった……。……いる」
僕は、恐る恐るといった風情で問いかけてきたレライエに、パイモンの無事を伝える。
「よかった……」
レライエも安心したのか、ホッと胸を撫で下ろしている。しかし、この状況だって安心はできない。きちんとパイモンを掘り出して、あの土の球体から解放しなくてはならないのだ。ただ、さっきは焦ってしまったが、時間さえかければそこまで難しくもないだろう。
土の球体が壊せなくても、内部の結界さえ破壊すれば通信もできるし、転移も使える。
ふぅ……。まったく、生きた心地がしなかったよ……。
なにはともあれ、無事に済んでよかった。
●○●
「で? 確認はできたのか?」
「ああ、十分だ」
俺の問いかけに、そいつは楽しそうに頷いた。視線の先でにゅるにゅるとキモく地面を掘り起こしているアムドゥスキアスを見やりながら、俺はため息を吐く。
「俺としては、マジでこのままアムドゥスキアスを攫って、タイマンしたい気分なんだが、それはダメなのか?」
「難しいだろうね。今の君じゃ、アレに勝てる保証はない。そして、そんな賭け事に君という存在をベットするわけにはいかないよ」
俺たちがいるのは、アムドゥスキアスたちのいる平原を見下ろせる、小高い岩山の上だ。見下ろせるといっても、勇者だった頃の俺じゃ、とてもアムドゥスキアスたちを確認できるような距離でもねーんだけどな。だが、隣にいるこいつは、当然のように見えているらしい。
そんな遠方から覗き見してんのは、これ以上あいつに近付くのが危ないからだ。もしかすれば、こんなに離れて、おまけに岩山という俺の為にあるようなフィールドであっても、あのアムドゥスキアスが、なんかよくわからん方法で俺たちを見つけ、攻撃してこないとも限らない。
俺たちは、魔王アムドゥスキアスという存在を、なにより警戒している。それこそ、世界最強の存在、エレファン・アサド・リノケロスなんかよりも、あの貧弱で、薄弱で、脆弱そうな魔王の事を。
だからこそ、わざわざこんな策を労してまで、俺たちが近くにいない事を印象付け、あいつの腹心を攫おうとしたのだ。あいつの、ダンジョンを創造する能力を、こいつに拝ませる為に。
俺は隣にいるそいつを見る。
純白という言葉を超える、清廉な白さを持つ髪。サラサラとその髪が揺れ、その間から空よりも冴え冴えとした青い瞳が覗く。肌の色は健康的な白さを保ち、美しさよりも瑞々しさを強調するような色合いだ。
そいつが羽織っているのは、アヴィ教の法衣。それも、かなり高位の者にしか着る事を許されていない、上等な法衣だ。しかし、その地位を示す襟章はなく、また色も白一色である。こんな法衣は、アヴィ教に存在しない。
だが、それも当然だ。こいつは、別に聖職者ってわけじゃねえ。
「いやぁ、あの失敗作たちに調べさせた分じゃ、情報が不足してたからな。こうして実際に、あの能力をこの目で確認できたのは、本当に有意義だったよ。君はまさに、有為の人材だ。だからこそ、あんな存在と不用意に敵対して欲しくはないんだが……」
「悪いな。俺は既に、アムドゥスキアスとは敵対関係だ。元凶はアヴィ教なんだから、文句言うんじゃねーぞ?」
「わかってるさ。俺もまさか、あの魔王がアレだなんて、最初は気付かなかったからね」
「お前自身の事なのにか?」
「そんなの、わかるわけないだろ? それとも君は、知らぬ内に抜けた毛が今どこにあるか、全て把握しているとでも?」
「ああ、そりゃあねーな」
そもそも俺、吸血鬼になってから代謝ってのがほとんどねーから、抜け毛っていってもたぶんそれ、百年以上前のモンだぜ。今現在、残ってるかどうかすらわかんねーよ。
「そういう事さ。それに、俺からアレを隠そうとしている存在が、少なからずいたからな。元々、発見は困難だった」
ほー、そりゃあ初耳だ。つまり、こいつの事を認識しつつ、敵対している存在もいるって事か。まぁ、別にいいけど。
「そんな事より、確認もできたしそろそろ帰ろうぜ。俺の方は、まだまだ戦争中なんだ。いくらなんでも、こんなところで、あいつ等に見つかって最終決戦じゃ、格好が付かねえ」
「はぁ……。まぁいいさ。俺としては、やっぱりアレを敵に回すなんて行為を、唯一の成功例である君にして欲しくはないのだが、君の意思を尊重しよう」
「ああ、あんがとよ。とはいえ、俺が死んだらそんときは、俺の死体を好きにしていいぜ」
「元よりそのつもりだ」
「できるだけ面白くな?」
「請け負うさ。なにせ、創生神話の再現をしようとしているのだ。逆に、つまらなくなる方法を教えて欲しいくらいだ」
「だからあんたって好きだぜ?」
「俺も、君のような成功体は好ましく思う。くだらない妄執や虚栄心に取り憑かれた、教皇や濫造勇者などとは比ぶるべくもない、唯一無二ともなれば、その好意も一入さ」
楽しそうに微笑むそいつ。だが、まっすぐに俺を見るその目に、対等なものに対する親愛や好意、あるいは悪意すらも窺えない。あるのはただただ無機質な、好きな『物』に対する好奇心だけだ。
「へいへい。どうせ、実験体としてだろ?」
「当然だ。この世界に、他のなにがあるというのだ?」
「ふふん。だからあんたって好きだぜ」
俺は繰り返し、そいつは肩を竦める。
俺たちはアムドゥスキアスたちに背を向け、歩き出した。
「ちょっと待て」
「ん?」
「どうして一人で行こうとする?」
「いや、帰るんだけど?」
「俺も連れて行け」
「ん? ああ、別に構わねえけど……」
「ならばほれ、抱き上げるなりおぶるなり、如何様にでもしろ」
「は?」
こちらに向けて両手を向けるそいつに、俺が素っ頓狂な声を上げたのは、仕方がない。なにいってんだこいつ?
「いや、なんで俺が、お前を抱き上げるなりおぶるなりしなきゃなんねーんだ?」
「君は、俺に歩けと?」
「そうだな。まぁ、歩かずに帰っても、俺としては別に構わねーぞ。走るなり、飛ぶなりすればいい」
「そんな事が、今の俺にできるとでも?」
「知るか」
「歩いたら疲れるではないか」
「知るか」
いや、マジで知るか。俺はそいつを無視して、足を進める。
「むぅ……。仕方ない、戯れに歩いてみるか。今は気分がいい」
そんな事をいったそいつが、渋々といった態度で歩き始め、俺の後ろについてくる。
「それに、思った以上の収穫もあった事だしな……」
そいつのそんな言葉に、俺は振り向く。そいつが見下ろしていたのは、やはりアムドゥスキアスたちだ。連中はようやく、俺の土鞠から腹心を助け出したところだった。そいつの視線の先で、腹心のオーガに抱き付くアムドゥスキアス。その光景を、心底面白そうに眺めるそいつの口元が、裂けるように吊り上がる。
なにがそんなに面白いってんだ?
「いくぜ?」
「ああ」
そういって、再び歩き出した俺たち。……だが。
「はぁ……はぁ……」
体力なさすぎだろ……。
結局、こいつのペースに合わせてたら日が暮れるって事で、おぶって山を下りた……。なにやってんだろうな……。はぁ……。