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4・少年

 〇〇市立白澤(はくさわ)南中学校一年B組、和城桃花。

 生年月日は六月十八日、血液型は不明、出席番号不明、委員会活動不明、部活動不明。

 家は、わりと近所らしい――わたしや常盤さん、波久礼さんの住むボロアパートの隣の隣にある、ボロアパートよりもボロボロなミジンコアパートの一室に、アルコール依存症の父親と二人暮らししているらしい。

 身長はおおよそ百六十センチメートル、体重は四十キロってところだろう。目測なので、間違えているかもしれないが。

 小学生の頃、いきなり耳が聞こえなくなったらしい。突発性難聴によるもの――と診断されているそうだ。突発性難聴で両耳が聞こえなくなるというのはかなり稀有なケースなんだとか。これは少年談である。

 そして――彼は、泥棒をしている。空き巣や万引きを日常的に繰り返しているらしい。今日も、コンビニでお菓子とパン、そして缶コーヒーをパクってきたんだとか。コンビニで万引きをするというのは、かなり勇気ある少年なようだ。勇気があっても、社会性はないだろう。

「居場所もないんだっけ?」

 わたしは彼に背中を向けたまま、そんなことを呟く。今のは質問ではなく、独り言だ。

 流石に、そこまで酷いことを言うつもりはない。

「……」

 現在、わたしは自分の部屋で彼と二人きりである。わたしは床に固定した椅子に括り付けておいた、少年の方を見遣る。ガリガリで、少しでも曲げたら折れちゃいそうなぐらいには貧相な見た目だった。服もボロボロで、さっき確認したところ、いくつか歯も欠けている。それでも髭は剃っているらしく、何で剃っているのかは知らないが、顎と鼻の下の皮膚がとんでもなく傷つけられていた。

 折角顔がいいのだから、もう少し自分を大切にして欲しいものだ――とわたしは他人事のように思った。

 しかし、他人事ではない。

 彼の一番の特徴とも呼べる、その耳――両耳の欠損。

 現在はイヤーマフを付けているようだが(恐らく、どこかでパクったのだろう)、それを外せば、その無惨な傷口が露わになる。

 そんな、両耳について――彼の耳を引き千切ったのが、他でもないこのわたしなのだ。

 彼は黙っている。

「……」

 抵抗もせず、動かず、しかし身体は小刻みに震えているようだった。

 さて、どうするべきだろうか――わたしは考える。カノンが殺された八つ当たりをしようとも思ったが、流石にそれは人道に反している気がしたのでやめた。あまりにも反し過ぎている。

「……ねぇ、桃花くん」

 とりあえずわたしは彼と目を合わせ、はっきりとそう言った。

 すると、彼は震えた声で返事をした。

「……なに」

 生意気な口調で少しイラっとしたが、少年の声があまりにも震えていたので、次第に可哀想だと思い始めてきた。微塵も可哀想なんかじゃないのに、だ。もしかしたらわたしは、案外情の厚い女の子なのかもしれない。

 現在時刻は十三時半である。

 わたしは彼に訊いた。

「なに食べたい?」

「は?」


 空き巣されかけ、ついに財布を盗られ、しかも逃げられた。それなのに、わたしはその犯人に優しくしようとしている。

 それは同情か、気まぐれか――どちらにせよ、彼にとっては幸運だっただろう。

「……美味しい?」

「……」

 わたしの問いかけに、何の反応を見せない少年くん。それもそのはず、彼は耳が聞こえないのだった――よく忘れてしまうので、注意しなければ。

 意思疎通の際は、きちんと彼に口の動きを見せなければならない。視力には問題がない(むしろ高い)そうなので。

 現在、少年はわたしが何となくで適当に作った味噌汁を食している最中である。どうしてこんな状況になっているのかは、こんな状況を作り出したわたしにすら分からないことだ。

 寝込みを襲ってきた少年に、どうしてわたしは味噌汁なんて振舞っているのだろうか。

「……」

 味噌汁だけで十分だと言ったのは彼の方だとはいえ、本当に足りるのだろうか……。育ち盛りの男子中学生が、そんな食事量で本当に大丈夫なのだろうか。ご飯を食べなさ過ぎて胃が縮んじゃっているのかもしれない。

 何となく察している人も多いだろうが、彼の家はとても貧乏である。和城家――アルコール依存症でギャンブルに金を溶かし、嫁と子供に暴力を振るう最悪な父親。典型的なゴミだそうだ。既に離婚しており、現在は桃花くんと父親の二人暮らしなんだとか。

「……うーん」

 それを知ったとて、わたしはどうも思わなかった。世の中は広いので、そういう親だって確かに存在するのだろう。わたしの場合は普通のママパパだったので、彼の気持ちなんてものは全く想像できない。共感もできないし、同情もしなかった。

「……どーしよっかな」

 味噌汁を振舞ってあげた以上は、もう後に引けない。一度人を助けた人間は、また人を助けなければならないのだ――そういうルールみたいなものなのだ。

 だから、ルールは破ればいい。破るだけでいいのだが……。

「……」

 問題は、わたしが今ここで『ルールを破りたい』とは思っていないという点にある。

 実を言えば、わたしは彼に何らかの救いを与えたいとすら思い始めている。少年を救うことで、わたしは壊れてしまうのだから。

 悪いことをしないわたしは、わたしではないのだから。自傷みたいなものだ。自殺とも言える。

 そして自殺は、一番やっちゃいけないことだ。

「……どうでもいいんだけどね」

 そんなことは、考えれば考えるだけ無駄なのである。これは別に、屁理屈理屈の問題でもないのだから。

 感情論は論じゃなく感情である。

 結局のところ、大事なことはたった1つ。

 救うか、救わないか――選ぶのは、たったの1つである。

 どうしてわたしはこんなにも破綻しているのだろうと、わたしは疑問に思った。

「……ごちそう、さまでした」

 いつの間にか少年がごちそうさまを言っていた。味噌汁一杯を飲み切るのに、十分もかけられてしまったが。

 彼は、はっきりとこちらを向いていた。

「……おかわり、いる?」

 彼はゆっくりと首を横に振った。どうやら、満足はしたらしい。

 さて……、とりあえずで味噌汁を食べさせはしたが、ここから先はどうすればいいだろうか。そもそも、救う救わない以前に彼の意思を聞かなければ。

 わたしは訊いた。

「どうする? もう帰る?」

「……なぁ」

 しかし、彼はわたしの問いかけに答えてはくれなかった。

 彼は、言った。

「一体、どういうつもりだよ」

「……」

 逆に質問された。しかし、わたしはその質問に対する答えを持っていない……。

 わたしですら、ちょっとはおかしいと思っているのだから。

 いきなり優しくしようだなんて、破綻している。

「わかんない」

「……」

 わたしの答えに、彼は眉をひそめた。しかし、眉をひそめられても、本当に「わからない」としか答えようがない。

 でも、そんな答えじゃ少年は納得してくれないだろう――わたしは言った。

「と、桃花くんが決めてよ」

 つい名前で呼んでしまったので、少しどもってしまう。

 とりあえず、相手に選択させる作戦である。正直言ってかなり頭が悪い作戦かもしれないが、それが逆に少年の油断を誘うみたいな。そういう作戦。どうして救いたい相手の油断を誘わなきゃいけないのかは分からないが。もちろん、全てアドリブである。

 わたしはアドリブが大の苦手なのだ。

「……」

 彼は、どう思っているのだろうか。(脅して)聞き出した和城家の現状。だが、少年が語ったのは客観的な事実だけだった。つまり――彼自身がどう思っているかについては、言ってくれなかったのだ。

 和城桃花――わたしは、彼の気持ちが知りたい。

「……なら」

 彼は、言った。

「もうしばらく――ここにいさせて、ください」

 初めて、敬語を使われた。

 それは多分、彼の気持ちだったとわたしは思う。

 なら、話は早い――堂々と、悪いことができそうだ。

 和城冨峯(ふみね)――桃花くんの父親。最低な親であり、最低な親でしかない父親。

 を、殺そう。


 殺人は、カッコ悪いと思っている。

 人一人の命を奪うという、罪の重さ――流石にそれが理解できないわたしでもない。だからこそ、それを蔑ろにする行為は許されないと思うのだ。まぁ、喫煙にも同じことが言えるかもしれないが。

 カノンにも勘違いされていたかもしれないことだが、わたしは別に非情な人間ではない――と思う。個人の主観でしかないが、少なくともわたしはそう思う。

 わたしが、彼を救いたいという気持ち――そこに、嘘はないのだから。共感や同情ではない。ましてや正義感なんて欠片もない。しかし、それでも――わたしは、そう思ったのだ。少しだけ、そう思ったのだから。

 人を殺してみたいという気持ちだってある。というより、それが大部分を占めている。また、自傷行為でもある。だが、その中に人を助けたいという想いも少しは含まれているのだし、わたしがやることは普通に人助けなのだ。

 破綻、矛盾をモットーとする嘘吐きで打算的なわたしでも、人であることに違いはないだろう。

 人と人とは支え合って生きている――人の字が無くても、そうだろう。

「これ名言だから」

「……?」

 彼には、残念ながら伝わらなかったようだ。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。

「好きなだけここに居ていいからね」

「……」

 優しい声を作って(無意味だが)、わたしは彼にそう言った。彼は、怪訝そうにしながらも、無言で頭を下げた。礼のつもりだろうか。

 だとしたら、親の教育が――ああ、悪いんだっけ。

 それにしても、この状況は本当になんなんだ? 正直言って、意味が分からない。

 どうしてわたしは泥棒の少年に親切にしているんだろう。つい先日、彼に殺されかけたのに。なんで味噌汁なんて作ってあげたんだろう。おかしい。分からなくなってきた――分からないことは分からないままにしておくのがベストだと思ったので、わたしは考えるのをやめた。

 空き巣を監禁し、少年に殺されかけ、悪友を失い、カノンが死んで、そして今は少年と一緒に過ごしている――あまりにも、よく分からない。

「……」

「……?」

 わたしは何となく、少年の頭を撫でてやった。

 そういえば、たまにSNSで女の子が『男に頭触られるの不快』とか言っているのを見るけど、なら逆はどうなんだろうか。女が男の頭を撫でるって、どういう感じなんだろうか。不快に思われていたら、少しショックかもしれない。思われていても不思議ではないが。

 彼は不思議そうにしていた。自分が何をされているのか、分かっていないようでもあった。

 ……今まで、頭を撫でられたことがなかったのか。

「……はーあ」

 特に理由もなく、わたしはため息をついた。人生って、思ったよりも暇じゃないんだな。

 全ての出来事が唐突で、予定調和なんてものは存在しない。何もかもが簡単ではなく、難易度は常に上がり続ける。

 人生は、暇つぶしとしてもクソゲーなのかもしれない。

「……」

 彼の頭を撫でている内に、なんだかペットの世話をしているみたいな気分になってきた。

 小学生の頃に飼っていたペットのカメを思い出す。名前は確か、カメルマンだった。夏休みの宿題である自由研究の時に、カメルマンを解剖したんだった。その時は、カメが死ぬだなんて思ってもみなかった。

 泣きながら、バラバラにされたカメルマンを記録した思い出である。今となっては、いい思い出である。

 彼も、バラバラにしてしまおうかなと思った。

「なーんて」

 わたしは猟奇殺人鬼ではない。何なら、殺人鬼ですらない。わたしは鬼ではなく人だ。ついでに言うなら、まだ殺人も犯したことがない。

 まだ、人を殺したことがない。

 これから殺すのかもしれないが、それは他人のためだ。自分のためでもあるのだが。でも、わたしが犯す予定の殺人は、正義の殺人なのだ。

 正義――わたしと正反対の言葉である。

 そういえば、確認したいことがある。

「ねぇ、桃花くん」

「……なんだ」

 相変わらず生意気だが、その声からは怯えや恐怖というものが無くなっている。味噌汁を作ってあげたぐらいでここまで警戒心が消え失せるのか……? わたしは彼の将来が少し心配になった。

 チョロい。

「あのさ」

 ちなみに、確認したいことというのは。

「わたしから盗った2万円って、もう使った?」

「あ……」

 まさか、バレていないとでも思っていたのか。少年はびっくりした顔で、「あ、あの……」と何か言いづらそうに言おうとしている。

 別に、怒るつもりなんてないのだが。気になっただけだ。もし残っているのであれば、そのお金で少年用の布団でも買おうと思っただけだ。

 しかし、どうやら残ってはいなさそうだった。

「……ごめんな、さい」

 全部使った、と彼は怯えながら言った。今度の怯えは、怒られると思ったからだろうか。

 わたしは少年と目を合わせようとするが、彼は目を逸らしてばかりだ。

「そっか……」

 筆談の方がいいかもしれない、とわたしは思った。後ろのポケットからスマホを取り出し、メモアプリを起動する。そして、文字を入力して画面を彼の方に向ける。彼は、恐る恐るこちらを見た。

『怒ってない。お金は残ってないの?』

 メッセージを確認した少年は、ゆっくりと頷いた。残っていないらしかった。

 ……しょうがない。

「仕事しなきゃかな」

 地味に、今月は結構キツいのだ。今の全財産は、多分7万円ぐらいだろう。払えそうではあるが、それだと来月の家賃諸々が払えなくて追い出される。バッドエンドだ。

 でも、正直言って仕事は大嫌いだ。一応、()()()()()()()()()()()()()()……。

「うーん」

 少年のためだと思って頑張ろうと思った。思っても、モチベーションは上がらなかったが。

 とりあえず今は、怒っていないアピールのために彼の頭を撫で続けた。

 そして数時間後――彼は、わたしの膝の上にいた。

「……ん?」

 あれ、いつの間に?

 甘やかし過ぎたかもしれない。というか、単純に重い。四十キロあるかないかとはいえ、それでも人間の重さである。赤ちゃんを抱いているのとは訳が違うのだ。抱いているのは中学一年生の男子なのだ……。

 どうしてわたしがこんな、母親みたいなことをしているのか。分からないし、分かりたくもなかった。

 身長は、わたしと少年でそこまで変わらない。そして、少年はわたしに向き合うような形で膝の上に座っていた。だから、本当にいかがわしい感じの体勢になっていた。もし今、常盤さん辺りが部屋に入ってきたら、盛大に誤解されてしまうだろうというぐらいには。まぁ、勝手に入ってくることはないだろうけど。

 そう思った瞬間、突如玄関の扉が開いた。

「ミラちゃん、ごめんちょっと入っていい……?」

 わたしの部屋に入ってきたのは、隣人の常盤ほたるさんだった。

 そして、わたし達は玄関から見えるような位置に座っていた。

 わたしは少年を胡坐をかいた膝の上に乗せて、頭を撫でていた。抱きしめあうみたいな形になっていたため、要するに――

「……常盤さ」

「ごめんね、邪魔しちゃったね……」

「常盤さん!」

 ゆっくりと後退していく常盤さんを全力で引き留める必要があった。


 誤解は無事に解けた。

 唐突にわたしの部屋にやってきた常盤さんは、わたしと少年を見て、

「それにしても、距離感近いね。殺し合った仲とは思えない……」

 そんなことを言った。距離感が近いのは流石のわたしも認めざるを得ないが、殺し合った仲というのは少し間違っている。わたしは殺そうと思っていたわけではない。

 自分の身を守るためにやっただけだ。そう言うと、「ふうん」とどうでもよさげに発した。

「ま、なんでもいいんだけれど……」

 常盤さんは言った。

「とりあえず、ご飯でもどう……?」

 どうやら、わたしの部屋にノックもなしに勝手に入ってきた理由は、わたしをご飯に誘いたかったかららしい。

 断る理由はないが、少し気になることがあった。

「……桃花くんも入れていいなら別にいいですけど、どうしてピンポン押さなかったんですか」

「もちろんいいよ。いや、夜じゃないしいいかなって……」

 価値観バグってるだろコイツ。わたしは率直にそう思った。もし部屋にわたしがいなかったら、常盤さんは一体どうするつもりだったのだろうか。

 空き巣でもするつもりだったのか?

「そんなことはしないよ。お金に困っているわけでもないし……」

 そういえば、常盤さんは水泳選手なんだった。いや、水泳選手がどれぐらい稼ぐのか、知っているわけではないのだが……。

 プロのスポーツ選手なら、かなりの額を稼いでいるはずだ。スポンサーもついているらしいし、世界新記録を何度も打ち立てたという常盤さんであれば、余裕で億は稼いでいるのだろう。

 この前ネットで常盤さんについて調べたが、どうやらかなり有名な選手なようだ。ウィキペディアにも載っていた。どうしてそんな人間がこんなボロアパートに住んでいるのか、少し疑問だ。

 訊いてみると、常盤さんは答えてくれた。

「仲の良い友達がこの辺に住んでいるからね……」

 友達がこの辺に住んでいるからといって、わざわざその近くに引っ越すか? もしかしてだけど、常盤さんって友達が少ないタイプなんじゃ――そう思ったが、流石に口には出さなかった。

「そうなんですね! 納得です!」

「……なんか、失礼なこと考えてる……?」

 やべ。

 バレそうなので、わたしは話を逸らすことにした。

「あ、桃花くんにも挨拶してあげてください」

「……そうだね……」

 露骨な話題変更に疑いつつも、常盤さんは少年に視線を向けた。

「初めまして。私は、常盤ほたるだよ。よろしくね……」

 耳が聞こえないということは、常盤さんにも伝えてある。常盤さんは口パクでそう自己紹介した。

 彼は言った。

「……常盤、ほたる……聞いたこと、あります」

 ……よくよく考えたら、口パクで常盤ほたるって伝わるのか? 口の動きだけじゃ、母音しか分からないような気がするのだが……。

 そんな疑問をぽろっと口にすると、常盤さんは答えてくれた。

「口の中の動きとかもあるでしょ。舌とか、歯とか、口の形とかもそう……」

 なるほど……なら、わたしはいつも彼に口の中を見られていたということか。少し恥ずかしい気もするが、別に恥じるところはないはずだ。汚いということはないだろう。口の中というだけで、それは汚いものなのかもしれないが。

「ああ。俺は、そんな感じでやってる……」

 常盤さんのセリフを読み取って会話を把握したのか、彼はわたしにそう言った。少年の一人称、俺だったんだ。

 彼に寝込みを襲われたあの時、部屋は真っ暗闇だった。しかし、あの時も彼はわたしのセリフを目で読み取った――あれは一体、なんだったのだろう。わたしはふと気になって、少年に口パクで訊いた。

「あれは、母音だけ読み取って、そして内容を推測した」

 もしかしたら、少年は頭がいいのかもしれない。少なくとも、わたしよりは絶対にいい。テストはいつも満点だったに違いない。

「……イジメられてるから、テストは……」

「ごめんね……」

 わたしがポロっと口から漏らした心の声を読み取って、彼はそんなことを教えてくれた。聞きたくなかったし、少し申し訳ない気持ちになった。罪悪感というヤツである。

 頭を撫でてやると、彼はくすぐったそうにした。

「……仲が、いいんだね……」

 その様子を見ていた常盤さんが、そんなことを言った。しかし、仲がいいのかどうかは微妙である。わたしは彼をペットとして認識しているのかもしれないが、友達と認識しているわけではない。そしてわたしは、ペットと仲良くなったことがない。

 何なら、そのペットを殺してしまったぐらいである。

「……どうなんでしょうね?」

 彼に見られないように、わたしはそう答えた。

 それから、わたし達は近所――とは言えないぐらいのファミレスに行くこととなった。常盤さんが車を出してくれたので、十五分ぐらいで到着した。トヨタのヤリスクロス。白い。乗りやすい。車には全然詳しくないので(ここ数年は乗ってすらない)、そのぐらいの感想しかわたしの中からは出なかった。運転させてと頼んだところ、普通に断られてしまったし。

 詳しくはないが、運転ぐらいならできるのに。静岡に住んでいた頃は、よく親の車にカノンを乗せて走っていた。車種は覚えていないが、結構スピードが出るタイプだったので、高速道路を思い切り走った記憶がある。人は轢いてないので、事故ったことはない。家の近くで誰かの車に擦ってしまった時は、結構焦った。

「結局バレちゃったからなー……」

 ハンバーグを食べながら、感傷に浸るわたし。あの頃は若かったし、今も若い。

「……」

 横には、一心不乱にカツ丼を食す少年。やっぱり、味噌汁では足りていなかったらしい。わたしに嘘をついていた。警戒心からか、それとも気遣いからかは分からないが……。

 そら、食べ盛りの男子が味噌汁一杯で満足するわけないだろう。

「ふふ、美味しそうに食べるんだね……」

 そんな彼を微笑ましそうに見ながら、カツ丼とカレーとサーロインステーキを同時並行で食べ進める二十四歳の水泳選手・常盤ほたるさん。食べ盛りの男子中学生の倍の倍食べている。いくらスポーツ選手とはいえ、流石に食べ過ぎだと思ってしまうが……。

 もしかしたら、副業でフードファイターでもやっているのだろうかと思えるぐらいの食べっぷりだった。しかも、スピードが速いのにどこか上品に見える。一秒に一口食べているんじゃないかという勢いである。

 わたしは食べるのがあまり速くない人間なので、このままだと常盤さんの方が早く食べ終わりそうだ。早食い対決をしているわけではないが、これだけ量に差があるのに速度で負けるというのはなんだか、悔しい気持ちになってしまう。わたしはスポーツ選手ですらない、普通の女子高生なのに。

 ほたるって名前の成人女性なのに、明らかに食べ過ぎだ。蛍は成虫になると水しか飲まないんだぞ。

「……みんな食べるの速くない?」

「そう? 普通だと思うけれど……」

 わたしの呟きに、常盤さんはそんな馬鹿げた返事をした。彼の場合は二歩譲ってまだ分かるが、常盤さんの場合は何億歩譲っても何も分からない。どう考えても一番速いのは常盤さんなのだから。

 しかも、食べながらわたしの呟きに返事をした――え、嚙んでないんですか?

「ちゃんと噛んでるよ。喋るには少しコツがいるけれど……工夫をすれば、ミラちゃんだってできるようになると思うよ……」

 いやいや、コツとかでどうにかできる問題じゃないだろう。わたしには絶対にできない。それだけは断言できる。

「……」

 相手をするのが馬鹿らしくなってきたので、わたしは食べることに集中する。といっても、正直もう満足はしているのだが……。

 三口食べたが、正直もうお腹いっぱいである。ライスなんて付けなければよかった。いや、ライスを付けなくても六口で満足していたかもしれない。ハンバーグなら六口で完食できそうな気もするが、わたしの一口はかなり小さい。

 こんなところで女子アピールをするつもりもないが、わたしは別に大食いというわけではないのだ。この前は、めちゃくちゃ食べたけど……でもあれは、自傷行為みたいなものだった。

 それに、わたしは間食も多いのだ。それが原因という気もしなくはないが。

 正直、もういらない。なので、残りは桃花くんに食べてもらおうと思った。丁度少年が食べ終わりかけているので、食べ終わったタイミングで肩を叩こう。彼は耳が聞こえないのだ。

「……ふう」

 かつ丼を完食し、一息ついた少年の肩をポンポンと叩く。すると、彼がこちらを向いた。

 わたしははっきりと言った。

「ねぇ、これ食べる?」

「食べる」

 即答だった。

 食べかけのハンバーグを彼に譲り、わたしはコーラを飲みながら常盤さんの食いっぷりをガン見しておくことにした。少年をガン見しながら猛スピードで三品を食べ進める常盤さん。もうすぐ完食するだろう。店に入ってから、まだ十五分しか経っていない。その内の十分は注文した料理が届いていなかった。

 そして二分ぐらい経ち、二人が同時に「ごちそうさまでした」を言った。そういえば言っていなかったと思い、わたしも遅れて二人に倣った。

 会計。

「私が奢るよ……」

「いや、悪いですよ。悪いのがわたしなのかもしれないですけど、流石にわたしと彼の分は自分で払いますから……」

「いいから」

 三点リーダーなしの常盤さんに押し切られ、結局払わせてしまった。隣人さん、あまりにもイケメン過ぎる。

 少年と一緒に礼を告げ、常盤さんの車でボロアパートの前に戻ってきたわたし達。時刻は十九時半だった。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

「どういたしまして……じゃあね」

 わたしと彼はもう一度お礼を言って、アパートの前で降ろしてもらう。私はこれから用事があるからと、常盤さんはそのまま車で走っていった。そして、わたし達は部屋に戻ってきた。

「……さて、どうしよっか」

「……」

 わたしは独り言を呟く。彼はわたしの口を見ていなかったようで、何も返してくれなかった。もう一度、次は少年の方を向いて同じことを言った。

「どうしよっか」

「……帰った方が、いいか?」

「いや」

 居たいだけ居てよ、とわたしは言った。そのセリフを読み取ってか、彼は頷いた。そして、

「ありがとう」

 と言った。凄い成長だと思う。

 それにしても、どうしてわたしはこんなことをしているのだろうか。慈善事業だろうか? こんなの、ただの自己満足に過ぎないというのに。

 彼のために人を殺すぐらいならしてあげてもいいが、どうして世話までしてあげようとするのか。わたしには、わたしが分からなかった。どうせ、ただの気まぐれだろうと思う。

 わたしはよく、わたしに嘘をつく。自分の考えていること全てが、嘘ではないかと思ってしまう。大体、破綻しているのだ。

 例えばだが、自傷行為は別に、社会に反する行為ではない。ただ、悪いだけ。それなのに、わたしはそれをしようとしている。今まではただ犯罪を犯していただけだった。社会に対する反抗として。でも、今はもう、そんなことはしていない。

 今日は、どのぐらい悪いことをした? いや、誘拐はしたが。でもそれは、本当に悪いことなのか? 悪いことが目的でなくても、犯罪は悪いことなのかもしれない――だが、わたしは少年の誘拐を悪いことだとは思っていなかった。未成年飲酒もまだしていないし、喫煙だってすぐにやめた。あとはなんだ? 公然わいせつぐらいか?

 そんな朝のこと、覚えているわけもない。

 なんだか、全てがおかしいような気がした。

 破綻していて、矛盾していて、何もかもが中途半端。中途半端こそがわたしの本質なのかもしれないが、それにしたって異常だ。

「……今日はもう、寝ちゃう?」

 わたしは彼にそう言った。彼は「うん」と頷いた。


 寝る前に、彼をお風呂に入れようと思った。

 ボロボロの服を見て、そういえばファミレスに行く前に着替えさせてあげればよかったなと少し後悔した。服を脱がせて、ドアの外に投げ捨てる。洗濯機は浴室兼洗面所兼トイレの外にあるのだ。ユニットバスも、慣れれば使いづらいということはないのだが、慣れるまでがかなり難しい。

 わたしも服を脱ごうとしたところで、どうして自分は彼を風呂に入れようとしているのかと、今更ながら疑問を抱いた。

 中学一年生なら、身体ぐらい自分で洗えるはずなのに。彼を本当にペット扱いしていた自分に少し驚いた。

「自分で洗えるよね?」

 訊いたら、彼は頷いた。

 風呂場に彼を放置し、わたしは寝る準備をすることにした。テーブルを片して、布団を敷いて、それでお終いだが。あとは風呂に入ればいつでも寝られるだろう。あと、歯磨きもしなければ。

 お酒でも飲もうかとも思ったが、あまり気が進まなかった。彼が居るからだろうか。

 気が進まなかったので、わたしは冷蔵庫から缶チューハイを取り出す。そして、片手でプシュッという音を立てる。これって何の音なんだろうと疑問に思いつつ、どうせもう解明されていることだろうとわたしは考えるのをやめた。

 流石に、今日は悪いことをしなさ過ぎたかもしれないと思った。だからこそ、気が進まない上に必要ではないことをして、かつ未成年飲酒という二重で悪そうな組み合わせなのだ。別に、彼に迷惑をかけるというわけでもない。お酒が強いというわけではないが、だからといって別に弱いというわけでもないのだ。缶チューハイで潰れるだなんてことは滅多にない。

 それに、お酒もイマイチ進まない。やっぱり気が乗らないのだ。

「美味しくないなぁ」

 お酒を飲んでも、嫌なことは忘れられない。忘れたとしても消えるわけではないので、別に文句を言うつもりはないが。これは、わたしの体質の問題だろう。特別強いというわけでもないくせに、いくら飲んでも冷静を保っていられるのだから。いや、わたしが冷静だったことなんてあるかどうかも謎だが。冷静ではなく平静、平常だったかもしれない。顔が赤くなるということもない。

 度数の高いストゼロをちびちびと飲みながら、わたしは彼が出てくるのを待っていた。男なら、十分で出てこられるだろうという偏見を持ちながら。わたしだって、三十分もかからないのだ。

 そういえば少年にシャンプーやリンスの場所を教えていなかったことに気付いたが、見れば分かるはずだ。だから、それで困っているということはない――と思う。

「……うーん」

 少年が風呂に入ってからおよそ二十分が経過し、少し怪しくなってきた。何かあったのではないかと、思わず心配になってしまう。この場合は思いがけずと言った方が正しいかもしれない。

 どちらにせよ、変わらないが。いくら心配だろうと、わたしがこの段階で何かするということはない。呼びかけるということすらしない。

 しかし、それから更に二十分経過しようとしている。流石のわたしもそろそろ限界だった。

「……桃花くん……?」

 耳が聞こえないので、呼びかけても意味は無いのだが。

「……おかしいでしょ」

 もしかしたら、中で自殺しているかもしれない。そう思って、わたしは床に缶を置いた。様子を見よう。

 浴室兼洗面所兼便所のドアをコンコンとノックする。しかし、それが無意味であることをわたしは知っている。

 正直言って、たとえ年下だろうと異性のお風呂を覗きたくはない。そう、覗きたくはないのだ。だからこそわたしは、迷わずドアノブを捻って中に入った。

 わたしのアパートはユニットバス――とはいえ、必ずしもユニットバスがバス、トイレ、洗面台の三点セットというわけでもないのだが、少なくともウチのアパートはその三点セットである。三点ユニットバスというらしい。

 しかしだからといって、ドアを開ければバスタブ(と中に居る桃花くん)が丸見えというわけではない。ちゃんとカーテンで区切られている。トイレと洗面台は残念ながら区切られていないのだが、トイレとバスタブ、洗面台とバスタブはきちんとカーテンによって区切られている。ドアを開けばすぐ左に洗面台、右にトイレ、そして奥にバスタブという形である。

 彼は、バスタブの中にいた。そして、ちゃんと動いていた――ちゃんと生きていた。区切られているとはいえ、そこまでガッツリ区切られているというわけでもないのだ。動きだけなら、なんとか透けて見える。シャワーからちゃんと水も出ているようだ。

「……」

 さて、これで心配する必要はなくなったわけだ。

 しかしそれは、イコールで何の問題もない、ということであり――ただただ、彼がシャワーのくせしてやけに長風呂であるというだけの話になってしまう。

 それは非常に困る。わたしの仕事は、数時間で数万円ぐらいは稼げるが、いかんせん()()()()()()のだ。客の数に限りがあり、今から()()()()()()()()ことも可能ではあるが、流石にそれは面倒が過ぎる。

 何が困るかというと、わたしはなるべく彼にお金を使いたくないのだ――勝手に助けておいて、何だそりゃと思うかもしれないが。少なくとも自分ではそう思っているが。自分はいつも無駄遣いしているくせに、どうしてダメなんだと思われるかもしれないが。

 少なくとも、これに理屈はない。ただ単に嫌なだけなので、擁護はできない。

 水道代とガス代だけは節約したい。

「……」

 わたしは少し迷って、カーテンを開けた。

 こちら側を向いてシャワーを浴びていた彼は、いきなりのことに目を見開いて驚いた。構わず、わたしは言う。

「遅い」

「……あ」

 時間を忘れていたと言わんばかりの「あ」だった。

「……ごめん、もう大丈夫だ」

「わたし、お金に余裕があるわけじゃないから……」

「はい、ごめんなさい……」

 わたしの言っていることをきちんと理解したようで、彼は申し訳なさそうにシャワーを止めた。どうやら、既に身体は洗い終えていたらしい。

 それを確認し、わたしは浴室を出る。裸の男子中学生と戯れる趣味はないのだ。裸の男の子を説教する趣味もない。

 そもそも、説教は嫌いなのだ。怒るのも大嫌いだし、悲しくなるのも嫌だ。

 負の感情は総じて嫌いだ。

 負の感情。

 悲しい。

 怒り。

 憎しみ。

 さて、今のわたしはどんな気持ちを抱いているのだろうか。

 少年とは全く関係のない、あの子の死――彼女の死。

 カノンの死について。

 突然始まる脳内会議。参加者は一名しかいない。

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