第四章 第六話(4)『欧州野牛』
「……?」
どうやら風の音だったか――。
草ずれの音はしたものの、それだけだった。
イーリオは安堵し、ほっと息をつく。
とにかく、今は動けなくなった伍号獣隊の騎士と鎧獣をどうにかしなくちゃならないと考え、思案をめぐらす。
一旦、街に戻るか、それとも、安全なそうな場所に避難して貰うか。しかし、安全そうな場所など――。
そこに再度の草ずれの音。
敏感に聞き取り、神経を張り巡らせる。
やはり何も無い。
いや、いる。
――怪物か?
ザイロウの足。筋肉が怒張する。
イーリオの意思は何も命令していない。
だが。
跳躍。
まるで身に纏う鎧獣が勝手に動いたように、己の意思とは別個に、ザイロウが後方に跳躍をした。
次の瞬間、イーリオ=ザイロウのいた場所に、巨大な黒塊が、落石のように飛来した。
轟音。
衝撃で、伍号獣隊の騎士と鎧獣は、黒塊に吹き飛ばされる。だが、気遣う余裕はなかった。
着地した鎧獣騎士ザイロウは、授器ウルフバードを構え、黒塊に対峙する。
「オ、オ、オ、俺の一撃を、躱すか。や、や、やるではないか」
黒塊よりの声。
聞き取り難い、吃音の強い喋り方。
黒塊は、抉った地面と薙ぎ倒した樹々の間より姿を表した。
短いが、厳めしい角が生えた、巨大な頭部。
それ以上に大きく逞しい、力感に溢れた全身。
ぬっ、と立ち上がった姿は、十五フィート(約四・五メートル)をゆうに越え、かつて出会った灰色熊の鎧獣騎士よりも一回り大きい。
巨牛の鎧獣騎士。
ヨーロッパバイソンの〝クダン〟。
種としてのヨーロッパバイソンは、ニフィルヘム大陸中央部ではさほど珍しいものではない。だが、秘めたる性能は相当のもの。格付けでは上級の鎧獣に分類されている。
黒灰色の授器が全身を包み、手には同色の武器授器である、戦鎚を把持。
イーリオの全身から、嫌な湿り気を帯びた汗がどっと出る。
危機は感知していた。
何かの気配は確かにあったのだ。
にも関わらず、自分自身は反応出来なかった。もしザイロウが自分の意志に反して無理矢理反応しなければ、今頃自分は、肉塊となって地に転がっていただろう。
それほどまでと分かる、森に出来た破壊の爪痕。
――とんでもなく強い……!
ニフィルヘムで野牛と言えばバイソンの事。
その頭部を有したこの鎧獣騎士は、内洋海諸国では、最も多く使われており、同時に最も戦果をあげてきた種類だ。黒母教では神獣として尊ばれ、神話の人牛そのものといった風貌は、味方であればこの上なく頼もしく、敵すれば恐怖の象徴となる。
そして目の前の人牛。
こいつは、そこいらの鎧獣騎士ではない。
騎士団長クラス――いや、それ以上かも。
「ま、ま、まさか、も、も、も、森に来るのがガキだけとはな。ベ、ベ、ベネデットの策も、た、大した事ないな」
余裕のある素振りで、人牛はザイロウを睥睨する。
ザイロウとてイヌ科最大種の大狼だ。大きさはライオンや虎と変わらず、迫力も相当なものだが、ヨーロッパバイソンの巨躯の前では、小さく見える。
――策……だって?
イーリオは即座に理解した。
目の前の鎧獣騎士。こいつは怪物騒ぎに関わっている。
こいつだけなのか。それとも他に仲間がいるのか。怪物そのものの姿が見えない所を見ると、おそらく仲間がいるのだろう。
だがこれは、イーリオにとって半分は嬉しい誤算であった。
やはり怪物騒ぎは画策されたもの。それをこいつ自ら、喋ってくれたのだから。
だが、半分は歓迎すべからざる誤算だった。こっそりと怪物を尾けるだけのつもりが、まさか目的の当人が出迎えるとは。虎穴を覗いて様子を伺うつもりが、つつく前に、親虎まで出てきたようなものだ。
疾風。
〝クダン〟が、予備動作なしで、ザイロウに急迫する。
焦っている暇すらない。
またもイーリオ自身の意思とは別に、ザイロウが反応した。
ウルフバードを一閃。
戦鎚と刃がぶつかり合い、耳をつんざく金属音と共に、火花が迸る。
半ば弾かれるような形で、ザイロウは後方へと体を浮かした。そこへ続けざまに、クダンが角を向けて突進をかける。
有角種特有の獣騎術、角突撃だ。
だが、今度はイーリオ自らがこれを読んでいた。破壊をもたらす圧倒的なプレッシャーを前に、刀で斬りつけようとする。
が、これはフェイント。
こちらの誘導に釣られた敵は、突進のままで戦鎚を振るった。
角突撃と戦鎚を巧みに回避。敵の背を飛び越す形で跳躍し、すれ違い様、爪の一撃をお見舞いする。
鋭い手応え。
だが致命傷ではない。
ザイロウは着地し、瞬転。即座に身構える。
しかし。
すぐさま追撃をかけてくると思いきや、予想に反して人牛騎士は、その場に立ち尽くしていた。最後の爪撃が思いのほか効いたのか?
いや、そうではない。
敵は肩を揺らして――笑っていた。
「ま、ま、まさか俺が〝当たり〟とはな……。ゲ、ゲ、ゲッゲッゲ。い、い、い、いいぞ。も、もっと俺を楽しませろ。ゲ、ゲ、ゲ、ゲッゲッゲ」
イーリオ=ザイロウは、右手に持った曲刀の授器ウルフバードを構え直す。ザイロウの中で、じわりと手に汗が滲むのを感じ取った。
「お、お、お、お前、ど、〝毒〟を受けてないのか? そ、そ、そ、それとも――? ……フ、フ、フン。ま、まァいい。オ、俺の名は、ラフ・ラーザ。ヘ、ヘ、灰堂騎士団、じゅ、じゅ、十三使徒の一人だ。お、お、お、お前は、ティ、ティンガル・ザ・コーネとご、ご、ご、ご、互角に戦ったとかいう、こ、こ、こ、孺子だな?」
――灰堂騎士団の一人? こいつ、今そう言ったのか……?
レレケを王都で助け出したあの夜。あの時出会った、レレケの兄弟子と、黒い獣の鎧獣を駆る謎の男。それらが名乗った灰堂騎士団なる名前。その一人が、この巨牛の鎧獣騎士とは。
しかも、聞き取り辛くはあったが、どうやら自分の事を知っているようでさえあった。
あの、ゴート帝国皇太子〝氷の皇太子〟ハーラルと交えた一戦を知っているだなんて。
あれは、公衆で行われた戦いなどではない。
皇太子がお忍びで行った、ごく私的な戦闘だ。
にも関わらず、どういう伝手を使ったのか、このラフと名乗る男は知っている。いや、どういうもこういうもない。出元があるとすれば、それは自分が関わって来た誰かのはず。
ゴート帝国の連中が、〝あの戦い〟の事を吹聴するのは有り得ない。当然だ。己らの主たる皇太子が、騎士になりたての孺子に負けを喫したなどと、言いふらせる訳が無い。その証拠に、メルヴィグ王都レーヴェンラントでも、この旅先でも、そのような噂は一度たりとて耳に入ってこなかった。あれほどの事態だ。帝国の連中が情報の出元だとすれば、既に自分の耳にも入ってきているはず。だが、そのような噂は、未だ欠片も聞こえてこない。
とすれば、やはり王都で出会った誰か――。自分がハーラル戦について話した誰かが、こいつらに通じている可能性が高い――。
「僕の事を知っているのか?」
「あ、あ、あ、ああ。よ、よ、よぉ〜く知っているぞ」
「どうして?」
「フン。わ、わ、我らヘ、ヘヘ、灰堂騎士団に、し、し、知らぬ事などない。め、め、め、め、女神オ、オ、、オ、オオ、オ、オププ、プ、スのか、か、か、加護を受けた、わ、わ、わ、わ、我らにはな、な、な」
オプスとは、黒母教の主神である、大地母神の事。
だが、畏敬の念が混じりすぎたのか、強い吃音が更にひどくなり、イーリオは何と言ったのか聞き取れなかった。
「オー……プス?」
「オ、オ、オープスではない。オ、オ、オ、オ、オプ、ププ、スだ」
「オーププス?」
「だ、だ、だから。ち、違う。オ、オ、オプ、ププ、プスだと言ってるだ、だ、だ、だ、だろう」
「オププス……?」
ラフは人牛の中で、不愉快に顔をしかめていた。だが、獣の鎧で、イーリオは気付かない。
「き、き、貴様……、バ、バ、バ、馬鹿に、し、し、しているな?」
――?
急に気配が変わった。
イーリオからすれば、ただ聞き取り辛かっただけなのだが、敵はそうはとらなかったらしい。
戦鎚が唸りをあげて旋回。
周囲の樹々が、草のように薙ぎ払われる。
その両肩は、心なしか怒張していた。
「め、め、め、女神を、バ、バ、馬鹿にしたな。お前?」
「――何を言って……?」
「バ、バ、バ、馬鹿にする奴は、ゆ、ゆ、許せん」
再び戦鎚を一振り。
更に広く、周囲が薙ぎ払われた。まるで己の領有を拡張しているかのように。
――な、何だっていうんだ、こいつ?
既に問い質すまでもなく、ヨーロッパバイソンの鎧獣騎士は――
――怒ってる……?
イーリオは訳が分からない。
いきなり何故怒り出したのか。一体この人物は何なのか。
ましてや、まさかこのラフ・ラーザなる男が、騎士団筆頭並みの実力を有しているにも関わらず、この狷介とも狂執とも言える性の故、表舞台に出た事がないとも知らず――。
彼の戸惑いなど知る由もなく、クダンは、いや、クダンの中のラフ・ラーザは、箍の外れた声音で呟いた。
「瞬転機関」
――!
クダンが跳躍した。




