第四章 第三話(2)『曇天』
ああ、嫌だ。
馬の背に跨がり、リッキーはいささか気鬱な思いに囚われていた。国王の命で百獣王への密使という任を負ったのは構わない。構わないどころか、巡検の任で会う事が叶わなかったカイゼルンと会えるのだと思うと、少なからず心躍るものがあるくらいだ。問題は任務ではなく、行き先だ。
メルヴィグ王国南方域。
そこでは、穏やかな南方景色を象徴するように、大陸路を中心に、広大な葡萄畑が所々に広がっている。葡萄畑のあちこちでは、冬の剪定に向けた準備をする農夫の姿も見受けられた。また、冬だといえど、緯度の低い南方の暖かな風は、イーリオからすると心地良くさえあった。
西に山脈の連なる地域なだけに雨が多く、降り出すと何日も止まない事が多いというが、幸い、旅立って二日間は晴天が続き、快適な旅路を進める事が出来ていた。
だが穏やかな旅程とは別に、リッキーの心中は晴れ晴れとしない。
そこは、覇獣騎士団屈指の守護部隊、伍号獣隊が鎮守する一帯であり、その伍号獣隊の人間こそ、リッキーとウマが合わないからだ。いや、伍号獣隊だけではない。南方域の人間全般を、彼は苦手としていた。
メルヴィグ南方人は、いわゆる〝南方気質〟と呼ばれる、独特の気風があり、頑固、偏屈、意地っ張りで、一言で言えば、〝石頭〟な人間たちが多かった。覇獣騎士団自体、ジルヴェスターをはじめとして、真面目で堅物な人間が少ない訳ではない。ただ、伍号獣隊の頑迷ぶりは、リッキーのみならず手を焼くほどであり、逆に言うと、そのような頑固さがあればこそ、アクティウムやジェジェン、カディスなどの列国と境を接する南方の守りを任せる事が出来たのも事実である。
――出来たら、カイゼルン様とだけ会いたいぜ。
そういうわけにもいかないだろうという事は、重々判っているだけに、尚の事、彼の足取りは任務の性急ぶりとは逆に、二の足を踏みそうになるのだった。
そんな事を考えながらも、一行は、二日目には、南方の守護領内へと差し掛かった。
道行く大陸路では、旅をする者、行商の者などが行き交う他、ごく偶に、鎧獣を連れた騎士もチラホラと見かけた。
ニフィルヘム大陸は非常に広大で、野生動物の種類も数も多い。鎧獣の素になる〝神之眼持ち〟の動物が多いのも、それが理由だ。絶対数が多いため、希少種の数も増えるというわけだ。にもかかわらず、人間と野生動物とは、お互いの生息圏による争いがあまり生じていない。普通、人間が生活圏を広げ、土地を開拓すると、必ずその地の野生動物による獣害などが起こるのだが、この大陸、いや、この世界においては、それらはある年月を境に、急激に減少する事となった。その理由こそが鎧獣であった。もとが野生動物であった人造のこの生き物が、人間の生活圏に存在する事で、野生動物もおいそれと人間に手出しが出来なくなったのである。都市部はもとより、今、イーリオ達が足を運ぶ大陸路においても、鎧獣連れの騎士がいるだけで、ある種の平和が保たれているのだ。
また、南方域は、古くガリアン大帝国の頃には、ルグドゥヌムという大都市が建設され、多いに栄えたとされた歴史ある地域である。ガリアン帝国の没落後は、土地の盟主、ロートリンカス家がこの地を支配し、メルヴィグに併呑されるまで、オルペ公国と名乗っていたが、約五〇〇年前に、メルヴィグに吸収された。だが、現在もロートリンカス家の支配は続き、今もってこの地はオルペ公領と呼ばれ、盟主に対する領民達からの支持は絶大なものがあった。
伍号獣隊自体、実は主席官と次席官はロートリンカス家の者が代々継いでおり、土地の守護を司るオルペの騎士団との密接な関わりは、他の部隊と一線を画すものがある。
「どんな風に違うんですか?」
説明を聞いたイーリオの問いかけに、どう答えようかと思案をしていたリッキーだったが、その時、彼の視界に馬を駆る騎士数名と、二体の鎧獣が、葡萄畑の遥か先から、目に飛び込んで来た。
見えたのは、リッキーだけである。他の四人は、誰も気付いていない。
「言ってる側から、〝連中〟が向かって来たぜ」
「え?」
「目の前だよ。ンだよ、見えてんだろ。畑の向こうの方から向かってくる連中がいるじゃねーか」
部下のマテューが呆れるほどの、リッキーの視力である。イーリオらは目を細めて前を睨むと、やがてうっすらとだが、土煙が舞い上がるのが確認出来た。
「本当だ……」
見る見るうちに騎士達は近付き、やがて彼らの前に、道を塞ぐようにして、三名の騎士が表れた。内、二人が騎士で、片方は、伍号獣隊の隊服を身にまとっている。
伍号獣隊の隊員が、リッキーの姿を見るや否や、勢いのついた敬礼をとる。
「これは、弐号獣隊 の次席官殿でありましたか。失礼致しました!」
リッキーは、その堅苦しい敬礼に苦笑しつつ、ぶっきらぼうな仕草で返礼をした。
「おう、見回りか? ご苦労さん。俺達ゃ、国王陛下の命で、オメーらの隊に用があって、こっちに向かってんだ。悪ィが先を急いでる」
リッキーの言葉に、すぐさま「はい」と応じると思いきや、騎士達は互いに目を合わせ、当惑気味の表情を交わした。
「ンだ? 何かあったのか?」
「は……、それがその、ここから先は、迂回されるが宜しいかと存じます。実は、我々はそれを一帯に報せるため、こちらの道を登って来たのであります」
「迂回だァ? ンだ? 崖崩れでもあったか?」
「いえ、そのようなものはございません。……いや、むしろ、そんな災害だったのなら、まだ良いのですが……」
「何だ、勿体つけた言い方だな。気兼ねなく言えよ。さっきも言ったよーに、俺達ゃ、先を急いでるんだ。通れそうな程度の災害なら、悪ィが通してもらうぜ」
騎士達の内、伍号獣隊の騎士が、代表して説明をはじめた。
「この先の向こうにモンセブールの街があるのですが、そこでもその……出たんです」
「は? 何が?」
「〝怪物〟……です」
「はぁ? 怪物だぁ?」
「はい。既にモンセブールでは、数十人もの被害者がでており、死者の数も十人を超えました。怪物による恐怖で、街は幽霊街となってしまい、ここら周辺一帯が、我々伍号獣隊と、オルペ騎士団によって封鎖されております」
「おいおい、ちょっと待て。怪物は、もちょっと東の方で出てたっつー話だろ? ここらに出た、なんつー話は聞いた事がないぜ」
「しかし、見た者の話によれば、あれは間違いなく怪物だという事です。我々も最初は半信半疑でしたが、こうも死傷者が出たとあっては――」
当惑とも、悔しげともつかぬ表情の騎士を前に、イーリオ、ドグ、シャルロッタらは話の意味が判らず、戸惑っていた。
それへ、レレケが助け舟を出す。
「……私も聞いた話ではありますが、数年前からメルヴィグの南部地域のある街で、怪物なる化け物が表れ、住民を苦しめているという話です。それの事じゃないですかね」
「化け物?」
「ええ。お伽噺みたいな話ですがね。でも、数年に渡って、何人もの犠牲者を出してるのは事実です」
レレケの説明に、それを聞いていたリッキーも、「おう。その通りだ」と、レレケの説明を認める。
「オレは信じてねーんだけどよ……。どーせ鎧獣用に捕獲したライオンとか虎とかが逃げ出して、野生化したとか、そんなんじゃねーかと思うんだがよ」
その言葉に真っ先に反応したのは、目の前の騎士達だった。
「それは違います!」
「お、おう? 何だ?」
「私は一度、チラっとだけ……ほんのチラっとだけですが、アレを見た事があります。アレは、そんなモノじゃない。アレは本当に怪物、そのものです……。鎧獣騎士でさえ、敵わないんですから……」
目にした時の事を思い出したのか、騎士は顔色を青くして、最後は消え入りそうな声で答えた。
鎧獣騎士が敵わない生物。
猛き獣の力をその身に纏い、超常の力を有する鎧獣騎士が、太刀打ち出来ない野生動物――。
そんな生き物があるのだろうか……?
確かに、にわかには信じ難い話であるが、騎士の怯えように嘘偽りはなさそうに思えた。
「まァ……怪物がどうかっつーのは置いとくとして、とにかく、オレ達ゃ、ココを通りてーんだ。仮に、その怪物が出たとしても、オレは弐号獣隊の次席官だぜ。通るついでに退治もしてやんよ」
「それはいけません」
リッキーを前に、やけにきっぱりとした口調で、即座に騎士は否定した。
「例えいかなるお方であっても、この先を通してはならんと、我が隊の次席官から仰せつかっております」
木で鼻を括ったような、取りつく島もない断言。頑とした口ぶりには、聞き入れる素振りさえ、微塵も感じられなかった。
――出たよ。これだ。
リッキーは、苛立ち以上にウンザリとした気持ちがこみ上げてくる。
頑固で融通の利かない連中。
これこそが、リッキーの苦手とする南方気質であり、その性格を隊にまで表した、伍号獣隊の騎士であった。
「ンな事言ってる場合じゃねーっつの。ンでもいいからココを通せ。次席官の命令だぞ」
「我々の次席官ではございません」
寸暇も与えぬ否定に、目が据わってくるリッキー。
だが、このままではリッキーの言う通り埒が明かないし、かといって迂回していては、どれだけ日数がかかるかわからない。西には険峻な山脈。東は道なき荒れ地なのだから。
激しそうになるリッキーに対し、後方で控えていたレレケが、割って入るように取り繕った。
「そちらの方々のご事情はお察し致します。さすが名にしおう伍号獣隊に、オルペの騎士様達。けれどどうでしょう? 私達は、国王陛下の急命を帯びている使節です。それがどれだけの重責を帯びているかは、わざわざ次席官のリッキー様が出張っているというだけでも、任務の軽重が察せられますでしょう? それを妨げ、あまつさえ陛下の急命が果たせなくなったとあっては、そちらの皆様もお咎めなしとはいかないのでは? 皆様だけではありません。伍号獣隊の席官にまで、累が及ぶ事にさえなりかねません。それほどの重要な任務なのです。いえ、何も脅そうと言うのではありません。皆様の任務に対する忠勤ぶりが仇となっては、我々も心苦しいがゆえ、出しゃばった愚見を申し述べました」
表情の読めぬレレケの丸縁眼鏡は、こういう時効果を発揮する。伍号獣隊の騎士達三人は、筋の通った具申と、無表情なレレケの言葉に揺さぶられ、己らの使命との板挟みとなって、口ごもってしまう。そこへ、レレケが被せるように続けた。
「皆様の立場もお察し致します。いかな陛下の命とはいえ、それで相判ったと我々を通しては、隊からの責めを追う事にもなりましょう。それではこれなら如何でしょうか? まずはそちらの上役の方の前に、我々を連れて行ってくだされれば。次席官殿でも主席官殿でも構いません。さすれば話は早いのでは?」
「そこで、直接話を通して下されると?」
「ええ。我々の任務の重要さは、一聴いただければお分かりいただけると思いますし。ねえ、リッキー次席官?」
レレケの問いに、騎士達の視線が集まる。それを受けて、戸惑うように、リッキーはレレケの耳元で囁いた。
――オレに、伍号獣隊のヤツと会えってか?
――その為の〝肩書き〟でしょう? 任せましたよ、次席官様。
げんなりした目でレレケを睨むと、溜め息の後、騎士達に向かって言った。
「おう……。ココに来てんのか? 次席官か主席官が?」
「はっ、次席官ならモンセブールの街まで来ております」
「なら、話は早ェ。そこまで案内してくれ」
騎士達は視線を交わしてしばらく沈思したが、やがて伍号獣隊の一人が頷き、残りの二名もそれに同意した。確かにこの場合、レレケの提案こそが一番真っ当である事は、疑う余地もないからだ。
「畏まりました。それでは、ご案内致します」
伍号獣隊に行くとなれば、いずれ顔を合わせねばならないと思ってはいたが、まさか、こんな先んじて〝アイツ〟に会う事になるとは……。ま、なるようになるかと、諦め半分開き直り半分に心を定めて、リッキーを前にした密使の一同は、モンセブールへと歩みを進めた。
ふと空を見上げると、先ほどまでの冬晴れの空もどこへやら、いつしか日は翳り、鈍色の曇天が、碧空に広がりつつあった。




